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「吾紅夜選手優勝おめでとうございます」

 若い女性の日本人記者が言葉とともにマイクを突きつけてくる。

「……ありがとうございます」

 演技直後で呼吸が少し苦しく、返事に僅かなタイムラグが生じてしまう。

「グランプリシリーズカナダ大会、優勝、ということで、グランプリファイナルへ近づきましたね」

「はい……グランプリシリーズではメダルが大事なので、素直に嬉しいです」

 ようやく、息が整ってきた。

「今年のショートプログラム、カルメン、ということですが、強い美しい女性を上手く演じられましたか?」

 強い女性。

 カルメンは強く美しい女性として描かれている。

 けれど、私が演じたかったのはカルメンではない。

「実は、私が演じたかったのはカルメンではなく、ドンホセなんです」

 その一言に、記者は疑問の表情を浮かべる。おそらくドン・ホセのことを知らないのだろう。

 無論わざとだ。どうせドン・ホセなどと知らないだろうと、わざとドン・ホセを持ち出したのだ。

 けれど、私が演じたかったのがドン・ホセというのは本当。

 カルメンのせいで人生をふいにした男ドン・ホセ。

 カルメンを殺して復讐を果たすドン・ホセ。

 私は、そんなドン・ホセになりきる。


 ♪


「まぁ、なんだ優勝おめでとう、吾紅夜」

 帰国した吾紅夜に、俺がまずかけた言葉は無難な祝勝の言葉だった。

「ありがとうー」

 吾紅夜は満面の笑みを浮べている。

「よし。優勝記念になんか買ってやる」

 あー。なんて優しい俺。

「本当? じゃぁアメリカ」

「でかいわ」

「えー。じゃぁモナコ」

「ふざけんな。小さいけど小さくないからな!」

「……じゃぁ秋葉原で我慢する」

「それはお前の趣味だろうが」

「ところで、ラジオ聞く?」

 めちゃくちゃ唐突だな。

 『ところで』の一言で、こっちの返事もなしに話をチェンジしやがった。

「まぁ、それなりには」

 ネットラジオをプレーヤーに入れて、試合に行くときに聞いたりする程度だが。

「〝ふつおた〟って意味分かる?」

「普通のお便り。コーナー宛てじゃない葉書きのことだろ」

 それくらいは俺も知っていた。

「そーなんだけどさ、私は、〝普通のオタク〟の略だと思ってた」

「オタクは既に普通じゃないからな!?」

「いや、オタクの中でも、抱き枕をマジで使うくらいの人とかは特殊オタなのかなと」

「そんな相対性理論みたいに分けられても困るっ!」

「相対性理論よりは分かりやすいよ」

「そういう問題じゃない」

「てか、話がそれちゃったね」

「そうだな」

 まぁ、俺らの会話なんてそんなもんだろう。中学一年で習う熟語『by the way』はとっても便利な熟語だ。

「じゃぁ、秋葉原、明後日までに買っておいてね!」

「話を戻すな!」

「特殊オタク理論」

「戻して戻すな!」

「白黒」

「リバーシ!」

 マジで何してるんだろ。俺ら。

「私達何してるんだろうね」

 そう言って悠佳は鞄を担ぎなおし、更衣室の方に歩いていった。

「…………」

 更衣室。

「…………行くか」

 いやいや。

「行くか」

 行こう更衣室。

「どこに行くんですか」

 ふと隣を見ると、いつの間にか一人の少年が立っていた。

「往人」

 吾紅夜往人。

 十四歳。吾紅夜の弟で同じフィギュアスケーター。

 世界ランキング九十位。既に三回転半をマスターしている日本男子シングル界期待のホープだ。

 同じ協議をやっていて、こないだまで同じジュニアのクラスで強化選手だったため、姉以上に親交が深い。

 むしろ、先に往人と仲がよくなり、その後姉と仲良くなった、という感じだ。

「今『更衣室』という独り言の後に、『行くか』という独り言が聞こえたんですが」

「お前。この状況で行くといって秋葉原に行くか?」

「姉ちゃんなら行きかねないですね」

「……そうだな」

 そう言って、更衣室のほうに向かっていく往人君。

「まさか、往人君。兄弟の身でありながら、姉の着替えを覗きに!?」

「んなわけないだろうが!」

 当然だが、男子更衣室と女子更衣室は隣り合っている。だから、そちらに行くのは、本来なんら不思議ではないのだが。

 そして、往人が更衣室に向かってちょっとしてから、吾紅夜が戻ってきた。

 なにやら、嬉しそうな顔をしている。

「今ね! 出口で往人ばったりあったの! もしかして私の着替え覗こうとしてたのかな!?」

「んなわけねーだろうが」

 覗こうとしてたのは俺だ。

「なんだ。残念」

 ちなみに、コイツ相当なブラコンである。

 コイツ、弟のこと語りだすと止まらない。

「そう言えばこないだね! 弟くんのベッドでお昼寝したの!」

 出た。ハイパー弟タイム。

 俺は初めてだが、スケート仲間の間では有名だ。

 まさか、生ハイパー弟タイムを体験するとは。

 つうか、弟くんって。その呼び方どうにかしようぜ。

 ちなみに、コイツも最初からブラコンだったわけではないらしい。

 母親によれば、それが始まったのは彼女が小六、往人が小三の頃。ちょうど俺が二人と知り合いになったころだ。

 といっても、往人にしてみれば、小三以前のことなどほとんど覚えていないため、ブラコンじゃない姉を知らないらしい。

「やっぱり弟は舐めても良いくらい可愛いよね!」

「ちなみに、どこまで舐められる?」

「ん? ……鎖骨くらい?」

 それは上からだろうか。下からだろうか。とても重要な気がする。

「一緒にお風呂は?」

「弟くんは嫌がるけど、むしろ私が入っていく」

「…………」

「でもね、最近は鍵をかけられるようになちゃった」

 当たり前だ。

 つうか、十四歳だぞ。もう思春期真っ只中だぞ。

「最近はね……部屋の鍵もかけられるようになちゃった」

 そこまでしないといけない弟が可愛そうだ。

 往人。いつでも代わってやる。いや、むしろ代わって欲しい。

「やっぱり弟は可愛いよね」

 吾紅夜はそう言い残してからスケートリンクに向かったのだった。

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