王宮の魔石灯が消えた日
「……おい。どうして灯りが消えている?」
ベルフォード王国の王太子、アレクシス・ベルフォードは、不機嫌そうに眉をひそめた。
時刻は、午後七時。
王宮では、夕食を終えた貴族たちが談話室へ集まる時間だった。
本来なら、天井に並ぶ魔石灯が、広間を明るく照らしているはずである。
しかし。
今日は、様子が違った。
長い廊下の半分が、薄暗い。
壁に取りつけられた魔石灯のいくつかが、完全に消えていたのだ。
「……まったく」
アレクシスは、小さく舌打ちした。
「こんなことも、まともに管理できんのか」
すぐそばに控えていた使用人が、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません、殿下!」
「謝罪などいらん。さっさと直せ」
「は、はい!」
使用人は、逃げるように廊下を駆けていった。
アレクシスは、深いため息をつく。
……最近、どうにも王宮の管理が杜撰になっている。
廊下の魔石灯が消える。
執務室の温度調整用魔道具が止まる。
使用人からは、地下の魔力供給設備に不具合があるという報告まで上がってきていた。
どれも、大した問題ではない。
少し修理をすれば済む話だ。
それなのに。
「……無能な者ばかりだな」
アレクシスは、吐き捨てるように呟いた。
そのときだった。
「アレクシス様!」
明るい声が、廊下に響いた。
振り返ると、桃色の髪を揺らしながら、一人の少女が駆け寄ってくる。
ミレーヌ・ロゼッタ。
つい先日、エリシアに代わって王太子の婚約者候補となった少女だった。
「ミレーヌ!」
アレクシスの表情が、ぱっと明るくなる。
「どうした? こんな時間に」
「殿下に、お会いしたくなってしまって……」
ミレーヌは、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
その可憐な姿に、アレクシスの機嫌もすっかり直ってしまう。
「ははっ。可愛いことを言うな」
「だって、殿下と一緒にいる時間が、一番幸せなんですもの」
「俺もだ」
二人は、仲睦まじく微笑み合った。
そのとき。
ぱちっ。
小さな音がした。
「……あら?」
ミレーヌが、天井を見上げる。
すぐ上にあった魔石灯が、一瞬だけ強く光った。
そして。
ふっ。
灯りが、消えた。
「……え?」
ミレーヌが、目を瞬かせる。
続けて。
ぱちっ。
ぱちぱちっ。
廊下の奥で、次々と魔石灯が消えていく。
まるで、見えない何かが灯りを呑み込んでいくようだった。
「……きゃっ!」
ミレーヌが、小さく悲鳴を上げた。
アレクシスは、慌てて彼女の肩を抱く。
「大丈夫だ、ミレーヌ!」
「で、ですが……!」
「ただの故障だ。心配するな」
そう言った、その瞬間。
――ぱきんっ!
鋭い音が響いた。
天井の魔石灯の一つが、突然割れたのだ。
小さな魔石の破片が、床へ落ちる。
「……っ!」
アレクシスは、思わず後ずさった。
使用人たちが、慌てて駆け寄ってくる。
「殿下! お怪我はございませんか!?」
「……な、何をしている!」
アレクシスは、怒鳴った。
「さっさと宮廷魔術師を呼べ!」
◇ ◇ ◇
その頃。
王宮の地下にある魔道具管理室では、数人の技術者が頭を抱えていた。
「……おかしい」
白髪交じりの老技術者が、低い声で呟く。
「……こんなはずは、ないのだが……」
机の上には、分解された魔石灯が並べられていた。
どれも、王宮で使用されている高級な魔道具だ。
魔石に魔力を流すことで、長時間にわたって安定した光を生み出す。
本来なら、数十年は使用できる設備だった。
しかも、王宮の魔石灯は定期的に点検されていたはずである。
少なくとも。
つい二週間ほど前までは。
「……主任」
若い技術者が、不安そうに声をかけた。
「これ、本当に魔石の問題なんでしょうか?」
「……どういう意味だ?」
「魔石そのものは、まだ使えそうなんです」
若い技術者は、分解した魔石灯を指さした。
「でも、内部の魔力回路が……」
そこで、言葉を切る。
老技術者が、顔を近づけた。
細かな銀色の線。
魔石から光源へ魔力を送るための回路。
その一部が、黒く変色していた。
「……焼けている?」
「はい。それに、こちらをご覧ください」
若い技術者は、別の魔石灯を差し出した。
そちらも、同じような場所が傷んでいる。
さらに、三つ目。
四つ目。
どれも、似たような損傷が見つかった。
「……妙だな」
老技術者が、眉をひそめた。
「こんな短期間で、同じ場所ばかり壊れるなど……」
「そうなんです」
若い技術者が、頷く。
「しかも、普通の修理では直らないんです」
「……何?」
「配線を交換しても、数時間後には同じ場所が焼けるんです」
老技術者は、黙り込んだ。
……そんな馬鹿な。
魔石灯の故障など、珍しいことではない。
しかし、修理したばかりの回路が、何度も同じように壊れる。
それは、明らかに異常だった。
「……供給側の問題かもしれんな」
老技術者が、低い声で言った。
「……供給側?」
「ああ。魔石灯そのものではなく、王宮の魔力供給設備に問題がある可能性がある」
若い技術者の顔色が変わった。
「……それって……」
「……ああ」
老技術者は、重々しく頷いた。
「厄介なことになったかもしれん」
◇ ◇ ◇
翌朝。
アレクシスは、執務室へ呼び出された。
机の向こうには、王宮の魔道具管理責任者と、宮廷魔術師長が立っている。
二人とも、ひどく疲れた顔をしていた。
「……何だ、朝から」
アレクシスは、不機嫌そうに椅子へ腰を下ろした。
「昨日の魔石灯の件なら、もう報告を受けている」
「殿下」
宮廷魔術師長が、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。修理を試みましたが、完全な復旧には至っておりません」
「……何?」
「現在、王宮内の魔石灯のうち、三割ほどが正常に作動しておりません」
「三割!?」
アレクシスは、思わず声を上げた。
「たかが灯りだぞ! そんなものも直せんのか!」
「……申し訳ございません」
「魔石を交換すれば済む話だろう!」
「それが……」
宮廷魔術師長は、言いにくそうに口を開いた。
「魔石を交換しても、再び故障してしまうのです」
「……は?」
「内部の魔力回路に、原因不明の損傷が発生しております」
アレクシスは、眉をひそめた。
「……原因不明?」
「はい」
「貴様らは、何のために雇われている!」
怒鳴り声が、執務室に響いた。
「王宮の設備を管理するのが仕事だろう! それすらできんというのか!」
管理責任者が、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
「謝罪はもう聞き飽きた!」
アレクシスは、机を叩いた。
「今日中に直せ!」
「……ですが、殿下」
「何だ!」
宮廷魔術師長が、慎重に口を開く。
「一つ、確認させていただきたいことがございます」
「……何だ?」
「以前、王宮の古代魔法設備を修復していた方についてです」
アレクシスは、眉をひそめた。
「……以前?」
「はい」
宮廷魔術師長は、言いにくそうに続けた。
「エリシア・フォン・アルベルト様です」
その名前を聞いた瞬間。
アレクシスの表情が、険しくなった。
「……あの女が、どうした」
「エリシア様は、王宮の魔道具や結界設備の修復を担当されていたと伺っております」
「……それが何だ?」
「もしかすると、今回の故障について、何かご存じなのではないかと……」
その瞬間。
「馬鹿馬鹿しい!」
アレクシスは、大声で笑った。
「なぜ、あんな役立たずの女に頼る必要がある!」
「……ですが」
「エリシアの魔法など、壊れた皿を直す程度のものだ!」
宮廷魔術師長が、わずかに目を見開く。
「……皿、でございますか?」
「そうだ!」
アレクシスは、得意げに胸を張った。
「貴様らのような専門家なら、あんな女よりよほど優秀なはずだろう!」
「…………」
「それとも何か? 王宮の宮廷魔術師ともあろう者が、修復魔法しか使えん女に劣るというのか?」
重い沈黙が流れた。
宮廷魔術師長は、何か言いかけた。
けれど。
「……承知いたしました」
結局、それ以上は何も言わなかった。
アレクシスは、満足そうに頷く。
「よろしい。今日中に直せ」
そう言って、二人を下がらせた。
……まったく。
最近の使用人どもは、何かにつけてエリシアの名前を出す。
婚約を破棄したというのに。
いつまで、あの女に頼るつもりなのだ。
「……ふん」
アレクシスは、鼻を鳴らした。
「いなくなって清々《せいせい》したというのに」
彼は、まだ知らなかった。
自分が追い出した令嬢が。
どれほど多くのものを、黙って支えていたのかを。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
王宮の地下管理室には、さらに多くの技術者が集まっていた。
「……駄目だ」
若い技術者が、力なく首を振る。
「また、同じ場所が壊れました」
「……くそっ」
老技術者が、机を叩いた。
魔石を交換しても、駄目。
回路を修理しても、駄目。
供給設備の出力を下げても、別の場所で不具合が起きる。
まるで、設備全体が少しずつ壊れていくようだった。
「……どうなっているんだ」
老技術者は、額を押さえた。
王宮の魔力供給設備は、数百年前に造られた古代魔法施設を基盤としている。
現代の魔術師たちは、外側の設備を扱うことはできる。
けれど、その奥にある古代回路については、完全には理解できていなかった。
普段は問題ない。
魔力が正常に流れている限り、設備は安定して動く。
しかし、一度どこかに異常が生じると。
原因を特定することすら、難しくなる。
「……主任」
若い技術者が、ふと顔を上げた。
「そういえば……」
「……何だ?」
「以前、この管理室に来ていた令嬢のことを覚えていらっしゃいますか?」
「……令嬢?」
「はい。銀色がかった金髪の……」
その言葉に。
老技術者の表情が、ぴたりと止まった。
「……アルベルト公爵令嬢か?」
「そうです!」
若い技術者が、頷く。
「あの方、よく夜中にこちらへ来ていましたよね?」
「……ああ」
老技術者は、ゆっくりと頷いた。
思い出す。
夜遅く。
誰もいなくなった管理室で。
一人、古代魔法設備の前に座っていた少女。
細い指先から、淡い銀色の光を流しながら。
何時間も、何時間も。
複雑な魔力回路を調べていた姿。
「……確か」
老技術者が、低い声で呟いた。
「あの方は、いつも何かを書き残していたな」
「……え?」
「修復した場所や、故障の原因を、細かく記録していたはずだ」
若い技術者が、目を見開いた。
「……それって、もしかして!」
二人は、顔を見合わせた。
そして。
慌てて、管理室の奥にある書庫へ向かった。
◇ ◇ ◇
書庫には、大量の古い書類が積み重ねられていた。
魔道具の点検記録。
魔石の交換履歴。
結界設備の管理台帳。
その中に。
「……あった!」
若い技術者が、一冊の分厚い帳簿を取り出した。
表紙には、丁寧な文字でこう書かれていた。
――王宮古代魔法設備・修復記録。
その下には、小さな署名。
エリシア・フォン・アルベルト。
「……これだ!」
老技術者は、急いで帳簿を開いた。
そこには。
驚くほど細かな記録が並んでいた。
魔力回路の構造。
損傷した場所。
修復に使用した魔力量。
そして、次に故障する可能性がある箇所まで。
すべてが、丁寧に書き込まれていた。
「……何だ、これは……」
老技術者は、思わず呟いた。
ただの修理記録ではない。
まるで、古代魔法設備の内部構造を、完全に理解しているかのような内容だった。
「……主任」
若い技術者が、震える声で言った。
「これ……すごくないですか?」
「……ああ」
老技術者は、息を呑んだ。
帳簿をめくる。
次のページ。
さらに、その次。
そこには、毎日のように修復作業が記録されていた。
北の結界塔。
南の結界塔。
地下魔力供給設備。
王宮西棟の魔石灯。
王都大結界の補助回路。
……どれも。
王国の安全を支える、重要な設備ばかりだった。
「……こんなに、直していたのか……?」
老技術者は、思わず声を漏らした。
しかも。
ほとんどの作業が、夜間に行われている。
深夜二時。
午前三時。
夜明け前。
その記録が、何十ページも続いていた。
「……まさか」
老技術者の背中に、冷たい汗が流れた。
エリシアがいなくなったから。
設備が、壊れ始めた?
いや。
違う。
もっと、恐ろしいことだ。
設備は、以前から壊れ続けていた。
ただ。
彼女が、そのたびに直していただけなのだ。
「……主任?」
若い技術者が、不安そうに尋ねた。
「……どうしました?」
老技術者は、しばらく答えなかった。
そして。
震える手で、帳簿の最後のページを開いた。
そこには、短い文章が記されていた。
――王宮古代設備の老朽化は、限界に近づいております。
――現在は修復によって維持しておりますが、根本的な改修が必要です。
――特に、地下魔力供給設備の第三補助回路は、損傷が進行しております。
――今後、修復作業が停止した場合、王宮内の魔石灯や温度調整設備に不具合が発生する可能性があります。
――そのため、早急な設備更新を推奨いたします。
その下には。
日付と、署名。
エリシア・フォン・アルベルト。
老技術者は、ゆっくりと顔を上げた。
「……これは」
声が、震えていた。
「……まずいことになったぞ」
◇ ◇ ◇
翌日。
宮廷魔術師長は、再びアレクシスの執務室を訪れた。
その手には、分厚い帳簿。
エリシアが残した、修復記録だった。
「殿下」
「……今度は何だ」
アレクシスは、不機嫌そうに顔を上げた。
「魔石灯の修理なら、まだ終わっていないのか?」
「……その件について、ご報告がございます」
宮廷魔術師長は、慎重に帳簿を差し出した。
「こちらをご覧ください」
「……何だ、これは」
「エリシア様が残された、王宮設備の修復記録でございます」
その名前を聞いた瞬間。
アレクシスの顔が、露骨に歪んだ。
「……また、あの女か」
「殿下。こちらの記録には、今回の故障の原因と思われる内容が――」
「いらん!」
アレクシスは、帳簿を突き返した。
「そんなもの、読む必要はない!」
「……ですが!」
「何度言わせる!」
彼は、机を強く叩いた。
「エリシアは、もう王宮とは関係のない女だ!」
「…………」
「役立たずの修復魔法しか使えん女の記録など、信用できるものか!」
宮廷魔術師長は、言葉を失った。
しばらくの沈黙。
そして。
「……承知いたしました」
静かに頭を下げた。
けれど。
その表情には、深い不安が浮かんでいた。
彼は、知っていたからだ。
この帳簿に書かれていることが、どれほど重大なのかを。
そして。
それを無視すれば、どうなるのかを。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
王宮では、ミレーヌを迎えるための小さな晩餐会が開かれていた。
美しい花々。
豪華な料理。
そして、きらびやかな衣装を身につけた貴族たち。
アレクシスは、満足そうに広間を見渡していた。
「……素晴らしい夜だな、ミレーヌ」
「はい、殿下!」
ミレーヌは、嬉しそうに微笑む。
「こんなに素敵な晩餐会を開いていただけるなんて、夢のようです!」
「君には、これからもっと素晴らしいものを見せてやろう」
「まあ……!」
二人は、幸せそうに見つめ合った。
そのとき。
ぱちっ。
小さな音がした。
広間の隅にあった魔石灯が、一瞬だけ揺らめいた。
けれど、アレクシスは気づかない。
ぱちっ。
ぱちぱちっ。
天井の魔石灯が、次々と点滅し始める。
「……あら?」
ミレーヌが、顔を上げた。
「殿下……?」
「……何だ?」
「灯りが……」
その瞬間。
――ふっ。
広間の中央にあった巨大な魔石灯が、消えた。
「……え?」
誰かが、声を漏らした。
続いて。
一つ。
二つ。
三つ。
天井の灯りが、次々と消えていく。
まるで、闇が広間を飲み込んでいくかのように。
「……な、何だ!?」
貴族たちが、ざわめき始める。
「灯りが……!」
「どうなっているの!?」
「誰か! 明かりを!」
使用人たちが、慌てて動き回る。
けれど。
魔石灯は、もう点かなかった。
そして。
最後の一つが、消えた。
――王宮の大広間が、完全な闇に包まれた。
「きゃあああっ!」
ミレーヌの悲鳴が響く。
誰かが椅子を倒す音。
食器が割れる音。
貴族たちの怒鳴り声。
混乱の中。
アレクシスは、ただ立ち尽くしていた。
「……馬鹿な」
彼の声が、暗闇に消える。
「……どうして、こんなことに……」
その問いに。
答える者は、誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
遠く離れたルクシエル辺境領では。
小さな広場に、温かな灯りが灯っていた。
昨日、修復されたばかりの井戸。
その周りには、村人たちが集まっている。
子どもたちの笑い声。
水を汲む音。
そして、久しぶりに聞こえる、明るい話し声。
エリシアは、小さな椅子に腰を下ろし、その光景を眺めていた。
「……綺麗ですね」
ぽつりと呟く。
隣に立っていたレオンが、静かに頷いた。
「ああ」
彼は、広場を見渡した。
「いい景色だ」
エリシアは、微笑んだ。
王宮の豪華な魔石灯とは違う。
小さな油灯と、古い燭台の明かり。
けれど。
不思議と、こちらの方が温かく感じられた。
「……明日も、少しずつ頑張りたいです」
エリシアが、静かに言う。
レオンは、彼女を見つめた。
「……そうだな」
そして、少しだけ笑う。
「ただし、無理はしないこと」
「……はい」
エリシアは、小さく頷いた。
その笑顔を見て、レオンも微笑んだ。
――その夜。
ベルフォード王宮では、失われた光を取り戻そうと、人々が必死に働いていた。
一方、ルクシエルの小さな村では。
十年ぶりに戻った水を囲み、人々が笑っていた。
それは、まだ誰も気づいていない。
二つの場所の、運命の分かれ道だった。




