最初の仕事は、壊れた井戸でした
――水が、出ない。
ただそれだけのことが、こんなにも人々の暮らしを苦しめるなんて。
私は昨日、初めて知った。
ルクシエル辺境領の中心集落、ルクシア。
その広場には、大きな古い井戸がある。
けれど、十年ほど前から水が出なくなり、今では分厚い板で塞がれていた。
村の人たちは毎日、片道一時間もかけて、遠くの泉まで水を汲みに行っているという。
もし、あの井戸を直すことができたなら。
少しは、皆様の暮らしが楽になるかもしれない。
そう思いながら、私は朝日が差し込む窓の前で、そっと右手を開いた。
手のひらには、淡い銀色の魔法紋。
昨日よりも、光が少し強くなっている。
「……うん」
私は小さく頷いた。
身体の重さも、ずいぶん和らいでいた。
今日は、きっと大丈夫。
そう思って立ち上がろうとした、そのときだった。
「お嬢様!」
勢いよく扉が開いた。
マリアが、朝食のお盆を持って立っている。
「……おはよう、マリア」
「おはようございます。ところで、お嬢様?」
「な、何かしら?」
「今、何をなさろうとしていました?」
「……少し、外へ」
「朝食は?」
「…………」
私は、そっと寝台へ座り直した。
「……いただきます」
「はい。よろしいです」
マリアは満足そうに微笑んだ。
……どうやら。
新しい領地での私の最初の仕事は、朝食をきちんと食べることらしい。
◇ ◇ ◇
朝食を終えて広場へ向かうと、すでに何人かの村人が集まっていた。
中心に立っているのは、村長のガルド様。
相変わらず険しい表情をしている。
「……本当に来たのか」
私の顔を見るなり、そう言われてしまった。
「はい。昨日、お約束しましたので」
「……物好きな嬢ちゃんだ」
ガルド様は、呆れたように息を吐いた。
私は小さく笑った。
「今日は、この井戸について詳しく教えていただきたいのです」
「……昨日も言っただろ。十年前から水が出ねえ。それだけだ」
「急に出なくなったのですか?」
「……何?」
「それとも、少しずつ水の量が減っていったのでしょうか?」
ガルド様は、少しだけ考えるような表情になった。
「……最初は、少しずつだったな」
「そうなのですね」
「水が濁り始めて、それから量が減った。最後には、ほとんど出なくなっちまった」
「……なるほど」
私は井戸を見つめた。
水が濁る。
少しずつ減る。
そして、枯れる。
……もし、地下水そのものがなくなったのなら、私にはどうすることもできない。
修復魔法は、無から水を生み出す魔法ではないのだから。
けれど。
水が出なくなった原因が、壊れた設備にあるのなら。
「……ガルド様。この井戸は、昔からここにあったのですか?」
「ああ。俺が生まれるより、ずっと前からだ」
「昔は、どのくらい水が出ていたのでしょう?」
「そりゃあ、もう……」
ガルド様は、少しだけ目を細めた。
「村の連中が何十人で汲んでも、尽きることなんざなかった」
「……まあ」
私は、思わず井戸を見つめ直した。
それほど豊かな水が、どうしてなくなってしまったのだろう。
「……一つ、お願いがございます」
「何だ?」
「井戸を塞いでいる板を、外していただけませんか?」
ガルド様は、眉をひそめた。
「……中を覗くつもりか?」
「はい」
「危ねえぞ。石が崩れるかもしれねえ」
「もちろん、近づきすぎないようにいたします」
私がそう答えると、ガルド様は少しの間、黙っていた。
やがて。
「……おい、手を貸せ」
後ろにいた村人たちへ声をかけた。
男たちが数人、井戸へ近づく。
古い板を固定していた釘を抜き、慎重に持ち上げた。
ぎしり。
嫌な音がする。
やがて、井戸の口が姿を現した。
「……まあ」
私は、思わず息を呑んだ。
暗い井戸の底。
そこには、わずかに水が溜まっていた。
完全に枯れているわけではない。
「……水が、ありますね」
「ああ。だが、あんなもんじゃ使えねえ」
ガルド様は、吐き捨てるように言った。
「汲んでもすぐなくなる。それに、泥が混じって飲めたもんじゃねえ」
「……そうなのですね」
私は、そっと井戸の縁へ近づいた。
石の表面には、大きな亀裂が走っている。
指先で触れてみると、表面が少し崩れた。
……古い。
とても、古い井戸だ。
けれど。
何か、妙な感じがする。
「……あの」
私は、ガルド様に尋ねた。
「この井戸、普通の井戸とは少し違いませんか?」
「……何?」
「石の組み方が、ずいぶん複雑なのです」
私は、井戸の内側を指さした。
そこには、細かな溝が刻まれている。
ただの装飾にしては、不自然な形だった。
しかも。
溝の奥には、かすかに魔力の気配がある。
「……レオン様」
「何だ?」
私の隣に立っていたレオン様が、顔を向けた。
「この井戸、古い魔道具のような構造をしている気がします」
「……魔道具?」
「はい。普通の井戸なら、こんな溝は必要ありませんから」
レオン様は、井戸の縁を覗き込んだ。
そして、目を細める。
「……確かに」
「分かりますか?」
「ああ。少なくとも、単に穴を掘っただけの井戸ではなさそうだ」
私は、少し嬉しくなった。
……やっぱり。
何かある。
私は、そっと右手を井戸の石へ伸ばした。
すると。
「……エリシア」
レオン様が、静かに声をかけた。
私は、ぴたりと動きを止める。
「……はい」
「約束は、覚えているな?」
「……覚えております」
しばらく、魔法を使わない。
昨日、そう言われたばかりだった。
けれど。
「……少しだけ、調べてもよろしいでしょうか?」
私は、恐る恐る尋ねた。
レオン様は、私をじっと見つめた。
「……身体は?」
「昨日より、ずっと楽です」
「無理をしていないか?」
「……少し、しているかもしれません」
正直に答えると、レオン様が目を瞬かせた。
そして、ふっと笑った。
「……そうか。正直でいい」
私は、少し恥ずかしくなった。
「ですが、井戸の構造を確かめたいのです」
「……修復するつもりか?」
「いいえ。まずは、調べるだけです」
私は、ゆっくりと首を振った。
「原因が分からないまま直しても、また壊れてしまうかもしれませんから」
その言葉を聞いて、レオン様は少しだけ考えた。
それから。
「……分かった。ただし、無理はしないこと」
「はい!」
「少しでも気分が悪くなったら、すぐにやめる」
「……はい」
「それから、俺かマリアがそばにいる間だけだ」
「……分かりました」
私は、深く頷いた。
……何だか、ずいぶん心配されている。
けれど。
嫌な気持ちはしなかった。
◇ ◇ ◇
私は、井戸の石へそっと手を当てた。
目を閉じ、呼吸を整える。
そして。
「……《修復》」
淡い銀色の光が、指先に灯った。
けれど、今回は物を直すためではない。
魔力をほんの少しだけ流し、内部の構造を調べる。
王宮でも、何度も行ってきた方法だ。
壊れたものを直すには、まず、どこが壊れているのかを知らなければならない。
私は、慎重に魔力を流した。
すると。
「……あら?」
頭の中に、不思議な光景が浮かび上がった。
井戸の内部。
石の壁。
そして、そのさらに奥。
地下へと伸びる、細い水路。
……水路?
私は、思わず目を開けた。
「……ガルド様!」
「な、何だ!?」
「この井戸、地下に水路が繋がっています!」
「……水路?」
「はい! しかも、かなり古いものです!」
私は、もう一度目を閉じた。
地下の構造を、慎重に確かめる。
井戸の底から、横へ伸びる石造りの水路。
それが、村の外れに向かって続いている。
けれど。
途中で、何かが崩れていた。
大量の土砂と石。
水路の一部が塞がれ、水の流れが止まっている。
「……見つけました」
私は、小さく呟いた。
原因は、これだ。
地下水そのものが、なくなったわけではない。
水路が崩れて、水が届かなくなっている。
私は、ゆっくりと目を開けた。
「……ガルド様」
「……何だ?」
私は、にっこりと微笑んだ。
「この井戸、直せるかもしれません」
◇ ◇ ◇
「……は?」
ガルド様が、ぽかんと口を開けた。
「今、何て言った?」
「地下水路が崩れているようなのです」
「……地下水路?」
「はい。井戸の底から横へ伸びている石造りの水路です」
私は、地面に小枝で簡単な図を描いた。
井戸。
地下へ伸びる水路。
そして、崩れている場所。
「このあたりで、水路が塞がっているようです」
ガルド様は、図をじっと見つめた。
そして。
「……そんな話、聞いたこともねえぞ」
「……そうなのですか?」
「ああ。この井戸は、昔から勝手に水が湧いてくるもんだと思ってた」
私は、少し考えた。
……なるほど。
長い年月の間に、井戸の仕組みが忘れられてしまったのかもしれない。
「……ですが」
ガルド様が、険しい表情になる。
「水路が崩れてるってんなら、どうするつもりだ?」
「まずは、崩れた場所を確認したいです」
「地下を掘るのか?」
「はい。ただし、全部を掘り返す必要はないと思います」
私は地面の図を指さした。
「この辺りに、古い点検用の通路があるようなのです」
「……点検用?」
「水路を修理するために造られた、細い通路だと思います」
ガルド様は、しばらく黙っていた。
それから。
「……おい」
村人の一人へ声をかける。
「西の畑の外れに、昔から石の蓋がある場所があったよな?」
「……ああ。あの古い穴か?」
「そうだ」
村人は、少し考えた。
「確かに、あるにはあるが……」
私は、思わず身を乗り出した。
「そこを、見せていただけませんか?」
◇ ◇ ◇
村の西側。
荒れた畑の外れには、背の低い石造りの建物があった。
屋根は半分ほど崩れ、入口には雑草が生い茂っている。
「……ここだ」
ガルド様が、建物を指さした。
「昔からあるが、何に使ってたのかは誰も知らねえ」
私は、そっと近づいた。
石の壁。
古い扉。
そして、その中央に刻まれた、小さな紋様。
……これは。
「……やっぱり」
私は、小さく呟いた。
王宮の古代魔道具で見たことがある。
水を流すための魔力回路。
それと、よく似た形だった。
「……レオン様」
「どうした?」
「ここが、地下水路の点検口だと思います」
レオン様は、扉を調べた。
長い年月で錆びついた金具。
崩れかけた石枠。
そして、扉の下に溜まった土砂。
「……開けるには、少し手間がかかりそうだな」
「……そうですね」
私は、右手を見つめた。
……魔法で直せば、すぐに開けられるかもしれない。
けれど。
その前に。
「……ガルド様」
「何だ?」
「もしよろしければ、皆様のお力をお借りできませんか?」
「……は?」
「扉の周りに溜まっている土砂を、取り除きたいのです」
ガルド様は、目を細めた。
「……お前の魔法で、どうにかできるんじゃねえのか?」
「……できる部分もあると思います」
私は、静かに答えた。
「ですが、私の魔法は、土砂を消すことまではできませんから」
「…………」
「それに、まだ身体が万全ではなくて……」
そう言うと、レオン様が小さく頷いた。
「それがいい。まずは人の手でできることをしよう」
ガルド様は、しばらく私たちを見つめていた。
それから。
「……ったく」
大きく息を吐いた。
「おい、道具を持ってこい!」
村人たちが、驚いたように顔を上げる。
「……村長?」
「どうせ、やることは山ほどあるんだ! 少しくらい付き合ってやる!」
私は、思わず顔を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「……まだ礼を言うな!」
ガルド様は、顔を背けた。
「本当に水が出るかどうかも、分からねえんだからな!」
私は、笑顔で頷いた。
「はい!」
◇ ◇ ◇
それから、村人たちによる作業が始まった。
古い鍬や鋤を使って、扉の周りの土を掘り起こす。
レオン様も上着を脱ぎ、作業に加わった。
「……レオン様!?」
私は思わず声を上げた。
「どうした?」
「お、お手伝いしてくださるのですか?」
「もちろんだ」
彼は、当たり前のように答えた。
「人手が必要なんだろう?」
「……ですが、お身体は……」
私が心配すると、レオン様は少しだけ笑った。
「君のおかげで、もう問題ない」
「……そう、ですか」
けれど、私は知っている。
あのとき、レオン様の身体には、奇妙な呪いがあった。
まだ、完全に消えたわけではないはずだ。
「……どうか、ご無理はなさらないでくださいね」
そう言うと。
レオン様は、少し驚いたように私を見つめた。
それから。
「……ああ」
優しく、微笑んだ。
「君もな」
その言葉に、私は少しだけ頬が熱くなった。
……何だか。
こうして、誰かと一緒に何かをするのは。
とても、楽しい。
王宮では、いつも一人で修復作業をしていたから。
誰かと相談して。
力を合わせて。
少しずつ、前へ進む。
こんな時間が、あるなんて。
◇ ◇ ◇
二時間ほど経った頃。
ようやく、扉の周りの土砂が取り除かれた。
「……よし」
ガルド様が、額の汗を拭った。
「これで、何とかなるだろ」
レオン様が、扉の金具を確かめる。
「……金具が完全に錆びついているな」
「……そうですね」
私は、そっと右手を差し出した。
「ここだけなら、直せると思います」
レオン様が、私を見る。
「……大丈夫か?」
「はい。少しだけですから」
私は、小さく頷いた。
そして、扉の金具へ手を当てた。
「……《修復》」
淡い銀色の光が、指先から溢れた。
錆びついた金具が、少しずつ元の形へ戻っていく。
曲がっていた部分がまっすぐになり、外れかけていた留め具が噛み合った。
ただし、金属そのものが失われた部分までは戻らない。
そこには、後で新しい部品を取りつける必要がありそうだった。
「……まあ」
私は、小さく息を吐いた。
……よかった。
思ったより、魔力を使わずに済んだ。
「……おい」
ガルド様が、ぽかんと口を開けている。
「今のは……?」
「金具を修復しました」
「……そんな簡単に?」
「ええ。元の形が残っていましたので」
私は、少しだけ笑った。
「ただ、完全ではありません。長く使うなら、新しい部品が必要です」
「…………」
ガルド様は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……お前の魔法、思ってたより便利なんだな」
そう呟いた。
私は、思わず目を瞬かせた。
……便利。
そんなふうに言われたのは、久しぶりだった。
「……ありがとうございます」
私がそう答えると、ガルド様は慌てたように顔を背けた。
「べ、別に褒めたわけじゃねえ!」
……ふふ。
少しだけ、嬉しい。
◇ ◇ ◇
扉の奥には、狭い石造りの通路が続いていた。
空気はひんやりとしていて、湿った土の匂いがする。
通路の奥からは、かすかな水音が聞こえた。
「……水が流れてる?」
ガルド様が、驚いたように呟く。
「……はい」
私は頷いた。
「完全に枯れているわけでは、なさそうです」
レオン様が魔石灯を掲げた。
淡い光が、通路の奥を照らす。
そこには。
崩れた石壁と、大量の土砂が積み重なっていた。
「……これか」
レオン様が、静かに言った。
「水路を塞いでいるのは」
「……はい」
私は、ゆっくりと頷いた。
思ったとおりだった。
水路は、ここで崩れている。
けれど、その奥から。
確かに、水の流れる音がする。
……つまり。
水は、まだある。
「……ガルド様」
私は、振り返った。
「この土砂を取り除いて、崩れた水路を修復できれば……」
そこで、一度言葉を切った。
そして、微笑んだ。
「井戸に、水が戻るかもしれません」
ガルド様は、何も言わなかった。
ただ、崩れた水路をじっと見つめていた。
その表情には。
疑いと。
不安と。
そして。
ほんの少しだけ。
期待のようなものが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
さらに一時間ほどかけて、村人たちが土砂を取り除いた。
すべてを片づけることはできなかったけれど、崩れた水路の一部が姿を現した。
石の継ぎ目は大きく割れ、そこから水が漏れ出している。
……これなら。
直せるかもしれない。
私は、そっと右手を伸ばした。
「……エリシア」
レオン様が、静かに声をかける。
私は、振り返った。
「……はい」
「本当に、大丈夫か?」
私は、自分の身体の状態を確かめた。
少し疲れている。
けれど、めまいはない。
魔力も、まだ十分に残っている。
少なくとも、あのときの生命修復とは、まったく違う。
「……はい」
私は、ゆっくりと頷いた。
「今度は、無理をしません」
レオン様は、しばらく私を見つめていた。
それから。
「……分かった」
静かに頷いた。
「もし、少しでもおかしいと思ったら、すぐに止めるんだぞ」
「はい」
私は、微笑んだ。
そして、崩れた水路へ手を当てた。
「……《修復》」
銀色の光が、ゆっくりと広がる。
割れた石の継ぎ目。
ずれた水路の形。
崩れかけた内壁。
それらが、少しずつ元の位置へ戻っていく。
ただし。
魔法だけですべてを直すことはできない。
失われた石材は、近くに残っているものを使って補う。
土砂は、村人たちが取り除く。
そして私は、残った構造を修復する。
少しずつ。
本当に、少しずつ。
水路が、本来の形を取り戻していった。
……あと、少し。
私は、呼吸を整えた。
魔力を流しすぎないよう、慎重に。
そして。
最後の亀裂が、静かに閉じた。
「……できました」
私は、小さく呟いた。
その瞬間。
ごぼっ。
水路の奥から、低い音が響いた。
「……ん?」
ガルド様が顔を上げる。
ごぼごぼっ。
さらに、大きな音。
そして。
ざああああっ!
勢いよく、水が流れ始めた。
「……っ!」
私は、思わず目を見開いた。
冷たい水が、修復された水路を通って流れていく。
濁りを含んだ水。
けれど、その流れは確かに力強かった。
「……水だ」
誰かが、呟いた。
「……水が、流れてる……!」
ガルド様は、信じられないものを見るように、水路を見つめていた。
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
……よかった。
本当に。
よかった。
◇ ◇ ◇
広場へ戻ると、村人たちが井戸の周りに集まっていた。
けれど、すぐに水を飲むわけにはいかない。
最初に流れてくる水には、長年溜まった泥や汚れが混じっているからだ。
ガルド様の指示で、村人たちは古い水を汲み出し始めた。
何度も。
何度も。
桶を下ろして、水を汲む。
最初は茶色く濁っていた水が、少しずつ澄んでいく。
そして。
「……おい!」
村人の一人が、声を上げた。
「見ろ! 水が……!」
桶の中には、透き通った水が揺れていた。
私は、思わず息を呑んだ。
……綺麗。
太陽の光を受けて、水面がきらきらと輝いている。
ただし、飲み水として使うには、もう少し確認が必要だろう。
私はガルド様へ声をかけた。
「しばらくは、煮沸してからお使いください。水質の確認も必要です」
「……ああ」
ガルド様は、頷いた。
けれど。
その目は、井戸から離れなかった。
まるで、夢でも見ているような顔だった。
そのとき。
「……お水?」
小さな声が聞こえた。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
十二歳くらいだろうか。
少し痩せた身体に、継ぎはぎだらけの服。
栗色の髪を二つに結び、大きな瞳で井戸を見つめている。
「……お水、出たの?」
少女が、もう一度尋ねた。
ガルド様が、ゆっくりと頷く。
「……ああ」
「……ほんと?」
「ああ。本当だ」
その瞬間。
少女の顔が、ぱっと輝いた。
「やったああああっ!」
広場に、明るい声が響いた。
「お水が出た! お水が出たよ!」
少女は、井戸の周りを飛び跳ねる。
その声につられるように、他の子どもたちも集まってきた。
「本当!?」
「もう、遠くまで行かなくていいの!?」
「お母さんに教えてくる!」
子どもたちが、次々と走り出す。
広場には、久しぶりなのだろう。
明るい笑い声が響いていた。
私は、その光景を眺めながら。
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。
……ああ。
よかった。
たった一つの井戸。
それを直しただけ。
けれど。
こんなにも、喜んでもらえるなんて。
◇ ◇ ◇
「……あの!」
突然、先ほどの少女が私の前へ駆け寄ってきた。
「……はい?」
私は、少し驚いて顔を向けた。
少女は、目をきらきらと輝かせている。
「お姉ちゃんが、直してくれたの?」
「……ええと」
私は、少し考えた。
「私だけではありませんよ」
「……え?」
「ガルド様や、村の皆様が手伝ってくださったんです」
私は、微笑んだ。
「皆様のおかげで、井戸を直すことができました」
少女は、少しだけ考えるような顔をした。
そして。
「……でも!」
元気よく言った。
「お姉ちゃんが来るまで、ずっと直らなかったんだよ!」
「…………」
「だから、ありがとう!」
その言葉に。
私は、息を呑んだ。
ありがとう。
たった、それだけの言葉。
けれど。
どうしてだろう。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような気がした。
王宮では、何かを直しても。
当然だ。
次も頼む。
もっと早くできないのか。
そんな言葉ばかりだった。
けれど、今。
目の前の少女は。
ただ、嬉しそうに笑っている。
私が何かを直したことを。
心から、喜んでくれている。
「……どう、いたしまして」
私は、ようやくそう答えた。
すると、少女はさらに嬉しそうに笑った。
「あたし、リリィ!」
「リリィちゃん?」
「うん! リリィ・フェルン!」
私は、自然と微笑んだ。
「私は、エリシアです」
「エリシアお姉ちゃん!」
「……ふふ」
何だか、くすぐったい呼び方だった。
リリィちゃんは、私の手をぎゅっと握った。
「ねえ、エリシアお姉ちゃん!」
「なあに?」
「この井戸が直った日、お祭りにしようよ!」
「……お祭り?」
「うん!」
リリィちゃんは、満面の笑みで頷いた。
「だって、十年ぶりにお水が出たんだもん!」
私は、思わず笑ってしまった。
「……素敵ですね」
「でしょ!?」
リリィちゃんは、嬉しそうに飛び跳ねた。
そして、ガルド様の方へ駆けていく。
「村長! お祭りしよう!」
「……気が早え!」
ガルド様が、呆れたように言う。
けれど。
その口元には。
ほんの少しだけ、笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
夕方。
村人たちが井戸の周りで話し合う声を聞きながら、私は広場の端に座っていた。
さすがに、少し疲れてしまった。
けれど。
不思議と、気持ちは軽かった。
「……エリシア」
隣から、レオン様の声がした。
「……はい?」
「身体は、大丈夫か?」
「……はい。少し疲れましたけれど」
私は、正直に答えた。
「でも、もう今日は魔法を使いません」
すると。
レオン様が、少し驚いたように目を見開いた。
それから。
「……そうか」
優しく、微笑んだ。
「それなら、安心した」
私は、少しだけ笑った。
……本当に。
この人は、いつも私の身体を心配してくださる。
けれど。
そのことが、今はとても嬉しかった。
「……レオン様」
「何だ?」
「今日は、ありがとうございました」
「……俺が?」
「はい。皆様と一緒に、作業をしてくださったでしょう?」
レオン様は、小さく首を振った。
「俺は、できることをしただけだ」
その言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
……あら。
それは。
いつも、私が言っていた言葉だ。
「……ふふっ」
思わず、笑ってしまった。
「……どうした?」
「いえ」
私は、微笑んだ。
「何だか、私みたいなことをおっしゃるので」
レオン様は、少しだけ考えるような顔をした。
それから。
「……そうだな」
静かに、笑った。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
……不思議。
まだ、出会って数日しか経っていないのに。
この人と一緒にいると。
何だか、安心する。
◇ ◇ ◇
その夜。
私は、小さな屋敷の窓から広場を眺めていた。
井戸の周りには、まだ何人かの村人が集まっている。
水を汲みながら、楽しそうに話している人たち。
笑っている子どもたち。
それを見守る、ガルド様。
……よかった。
本当に。
よかった。
私は、そっと右手を見つめた。
淡い銀色の魔法紋。
これまで、ずっと役立たずと呼ばれてきた力。
けれど。
今日、この魔法は。
誰かの暮らしを、少しだけ変えることができた。
そして。
誰かの笑顔を、生み出すことができた。
「……ありがとう」
私は、小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
けれど。
きっと。
この土地には、まだまだ壊れたものがたくさんある。
家も。
道も。
畑も。
そして、人々の暮らしも。
全部を、一度に直すことはできない。
でも。
一つずつなら。
少しずつなら。
きっと、何かを変えられる。
私は、窓の外に広がる星空を見上げた。
明日も、頑張ろう。
ただし。
今度は、ちゃんと休みながら。
そう思って、私は小さく笑った。
――このときの私は、まだ知らなかった。
私が直した井戸の地下で。
長い間、誰にも気づかれずに眠っていた古い魔力回路が。
ほんの一瞬だけ。
淡い銀色の光を放っていたことを。
そして、その光が。
百年前から止まっていた何かを、少しずつ動かし始めていたことを。




