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呪われた辺境の入口

「王都から来た貴族なら、帰ってくれ」


 その言葉は、驚くほど冷たかった。


 私たちの馬車の前に立っているのは、四十代後半ほどの大柄な男性。


 短く刈り込まれた灰色の髪に、日に焼けた顔。左の眉から頬にかけて、古い傷跡が走っている。


 粗末な上着を着ているけれど、背筋はまっすぐ伸びていた。


 腰には、使い込まれた剣。


 その立ち姿には、ただの村人とは思えない威圧感(いあつかん)がある。


「……あの」


 私は、ゆっくりと口を開いた。


「私は、エリシア・フォン・アルベルトと申します」


「名前なんざ聞いていない」


 男性は、私の言葉を遮った。


「王都から来たんだろう?」


「……はい」


「なら、帰れ」


 短い言葉だった。


 けれど、その声には、はっきりとした拒絶が込められていた。


 私は思わず、口を閉じてしまう。


 ……困ったわ。


 まさか、領地に入る前から追い返されるとは思っていなかった。


 けれど、よく考えれば当然なのかもしれない。


 ここは、百年前の大災害《黒い冬》によって荒れ果てた土地。


 王国は何度も復興事業を行ったと聞いている。


 それでも、何一つ元には戻らなかった。


 そんな場所に、突然王都から貴族の娘がやってきたのだ。


 警戒されても、仕方がないのだろう。


「おい」


 男性が、低い声で言った。


「聞こえなかったのか?」


「……いえ」


 私は首を横に振る。


「ですが、少しだけお話を聞いていただけませんか?」


「話すことなんざない」


「私は、この土地の――」


「どうせ、また復興だの再建だのと言いに来たんだろう!」


 突然、男性の声が大きくなった。


 後ろに立っていた村人たちが、びくりと肩を震わせる。


「今まで何人も来たさ! 王都から偉そうな連中がやってきて、必ずこの土地を蘇らせるだの、豊かな暮らしを取り戻すだのと綺麗事(きれいごと)を並べやがった!」


「…………」


「だが、どうなったと思う?」


 男性は、私を睨(にら)みつけた。


「何も変わらなかった!」


 その声が、荒れた街道に響いた。


「井戸は枯れたまま! 畑は荒れたまま! 家は崩れ、人は減る一方だ!」


 私は、何も言い返せなかった。


 男性は、怒りを押し殺すように続ける。


「それなのに、あいつらは言ったんだ。復興事業には金がかかった。だから、税を納めろとな!」


「……税を?」


「ああ!」


 男性は吐(は)き捨てるように言った。


「作物も育たない土地で、何を売って金を作れっていうんだ!」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 復興事業。


 それは、本来なら領民を助けるためのものだ。


 なのに。


 助けるどころか、さらに苦しめてしまったというの?


「……申し訳ございません」


 私は、静かに頭を下げた。


 すると。


「……は?」


 男性が、呆気(あっけ)に取られた声を出した。


「何を謝っている?」


「私は、その事業には関わっておりません。ですから、すべてを理解しているわけではありませんが……」


 私は顔を上げた。


「この土地で暮らす方々が、どれほど苦労なさってきたのか。今のお話だけでも、少し分かりました」


「…………」


「だから、まずはお話を聞かせていただきたいのです」


 男性は、じっと私を見つめた。


 その目には、まだ深い不信感が浮かんでいる。


「……口だけなら、何とでも言える」


「はい」


「どうせ、お前も同じだ」


「……そう思われても、仕方がないと思います」


 私は、静かに頷いた。


「ですが、私は――」


「お嬢様」


 そのとき。


 背後から、マリアが小さく声をかけた。


 振り返ると、彼女は心配そうな顔をしている。


「まだ、お身体が万全ではございません。あまり無理をなさらないでください」


「あ……」


 そうだった。


 私は、つい昨日まで寝込んでいたのだ。


 身体の奥には、まだ重たい疲労が残っている。


 けれど。


「大丈夫よ、マリア」


 私は小さく笑った。


「お話をするだけだから」


 すると。


「……エリシア」


 今度は、レオン様の声がした。


 彼は私の隣に立ち、前方の男性を静かに見つめていた。


「無理をする必要はない」


「……でも」


「相手の話を聞くことと、君が倒れるまで立ち続けることは別だ」


 そう言って、彼は馬車の方へ視線を向ける。


「まずは、座って話した方がいい」


「…………」


 私は、少しだけ考えた。


 ……そうね。


 確かに、ここで倒れてしまっては意味がない。


 私は、男性に向き直った。


「申し訳ございません。少し体調を崩しておりまして……」


「……は?」


「もしよろしければ、あちらの木陰でお話をさせていただけませんか?」


 男性は、しばらく黙っていた。


 それから、深いため息をつく。


「……勝手にしろ」


 それだけ言って、近くの枯れ木を指さした。


 私は、ほっと息をついた。


「ありがとうございます」


 ……どうやら。


 少しだけ、話を聞いていただけそうだ。


 ◇ ◇ ◇


 木陰に移動すると、レオン様が馬車から小さな折り畳み椅子を持ってきてくださった。


「……座ってくれ」


「ですが、レオン様は……」


「俺は立っていられる」


「……ありがとうございます」


 私は、素直に椅子へ腰を下ろした。


 すると、マリアが保温の水筒を差し出してくれる。


「お嬢様。お茶をどうぞ」


「ありがとう、マリア」


 ……何だか、二人にずいぶん心配されている気がする。


 でも、昨日のことを考えれば当然なのだろう。


 私は温かいお茶を一口飲んでから、男性に向き直った。


「改めまして、エリシア・フォン・アルベルトと申します」


「…………」


「このたび、国王陛下よりルクシエル辺境領を拝領(はいりょう)いたしました」


 そう告げた瞬間。


 男性の表情が、ぴたりと止まった。


「……何だと?」


「こちらが、正式な譲渡証書(じょうとしょうしょ)です」


 私は、鞄から書類を取り出した。


 国王陛下の署名と王印が押された、正式な文書。


 男性は訝(いぶか)しげにそれを受け取った。


 そして、書類を読み始める。


 最初は疑わしそうだった表情が、次第に険しくなっていった。


「……本物、なのか?」


「はい」


「ルクシエルの……新しい領主?」


「そうなります」


「…………」


 男性は、長い沈黙の後。


 大きく息を吐いた。


「……冗談じゃねえ」


 その声には、先ほどとは違う疲れが滲(にじ)んでいた。


「また、王都の貴族が領主になったっていうのか……」


 後ろにいた村人たちも、ざわめき始める。


「新しい領主……?」


「また税を上げられるのか?」


「今度こそ、村を追い出されるんじゃ……」


 そんな声が聞こえてきた。


 私は、胸が苦しくなった。


 ……この人たちは。


 新しい領主が来たことを、喜んでいない。


 それどころか。


 恐れているのだ。


「……あの」


 私は、静かに口を開いた。


「まず、お名前を伺(うかが)ってもよろしいでしょうか?」


 男性は、しばらく私を見つめていた。


 それから、低い声で答える。


「……ガルド・ヴェインだ」


「ガルド様」


「この先にあるルクシアの村長をしている」


「村長様でしたか」


 私は小さく頭を下げた。


「どうぞ、よろしくお願いいたします」


「……まだ、よろしくするとは言ってねえ」


「……そうでしたね」


 私は、少しだけ笑った。


 ガルド様は、何とも言えない顔をした。


 ◇ ◇ ◇


「……それで」


 ガルド様が、腕を組んだ。


「新しい領主様は、こんな辺鄙(へんぴ)な土地で何をするつもりなんだ?」


 私は、少しだけ考えた。


 何をするつもりなのか。


 それは、王都を出る前から考えていたことだった。


 壊れた家を直す。


 枯れた井戸を調べる。


 荒れた畑を、少しずつ使えるようにする。


 けれど、それだけでは足りない。


 この土地には、人が暮らしている。


 だから。


「まずは、皆様のお話を聞きたいと思っております」


「……話?」


「はい。今、何に一番困っていらっしゃるのか。何が必要なのか。それを、教えていただきたいのです」


 ガルド様は、眉をひそめた。


「……それを聞いて、どうする?」


「私にできることがあれば、お手伝いしたいと思います」


「……お手伝い?」


「はい」


 私は、静かに頷いた。


「私の固有魔法は《修復》です」


 その瞬間。


 村人の一人が、鼻で笑った。


「……修復魔法?」


「おいおい、皿でも直しに来たのか?」


「そんな魔法で、この土地がどうにかなるわけねえだろ」


 ……ああ。


 この反応は、慣れている。


 王宮でも、何度も聞いた言葉だった。


 役立たず。


 意味がない。


 そんな魔法しか使えないのか。


 けれど。


 不思議と、今はそれほど悲しくなかった。


「……そうですね」


 私は、素直に頷いた。


「私の魔法だけで、すべてを解決できるとは思っておりません」


 村人たちが、少し驚いたように私を見る。


「ですが、壊れた建物や道具を直すことはできます」


「…………」


「水路が崩れているのであれば、修復できるかもしれません。古い魔道具も、状態によっては直せます」


 私は、ゆっくりと続けた。


「もちろん、材料や魔力が必要ですし、私一人でできることには限界があります」


 ガルド様が、じっと私を見つめている。


「……だから」


 私は、少しだけ微笑んだ。


「皆様と一緒に、できることから始めたいのです」


 しばらく、沈黙が流れた。


 やがて。


「……ふん」


 ガルド様が、鼻を鳴らした。


「口では、何とでも言える」


「……はい」


「俺たちは、何度もそういう言葉を聞いてきた」


「……そうですね」


「だから、簡単には信用しねえぞ」


 私は、静かに頷いた。


「もちろんです」


「……何?」


「信じていただけるように、これから行動で示したいと思います」


 ガルド様は、少しだけ目を見開いた。


 それから、何とも言えない顔で私を見つめた。


「……変な嬢ちゃんだな」


「……そうでしょうか?」


「ああ。普通の貴族なら、ここで怒鳴るか、身分を振りかざすところだ」


 私は、少しだけ笑った。


「それでは、皆様のお話を聞けませんから」


「…………」


 ガルド様は、また黙り込んでしまった。


 ◇ ◇ ◇


 それから、私たちは村へ案内していただくことになった。


 ただし。


「……勘違いするなよ」


 ガルド様は、馬車の前を歩きながら言った。


「領主だと認めたわけじゃねえ。王印がある以上、追い返すわけにもいかねえだけだ」


「はい。承知しております」


「……本当に分かってんのか?」


「ええ」


 私は笑った。


 ガルド様は、深いため息をついた。


「……まったく」


 どうやら、少し呆れられてしまったらしい。


 けれど、私はほっとしていた。


 少なくとも。


 この土地に入ることは、許していただけたのだから。


 ◇ ◇ ◇


 馬車が進むにつれて、周囲の景色はますます荒れ果てていった。


 石畳は割れ、ところどころ地面が剥(む)き出しになっている。


 街道の脇には、枯れた木々。


 遠くには、崩れかけた石造りの建物が見えた。


 ……ひどい。


 思っていた以上だった。


 私は窓の外を見つめながら、胸が締めつけられるような気持ちになった。


 これが、本当に。


 百年前まで、王国有数の穀倉地帯だった場所なの?


「……お嬢様」


 マリアが、小さく声をかけた。


「大丈夫ですか?」


「……ええ」


 私は頷いた。


「でも、想像していた以上ね」


「……はい」


 マリアの顔にも、不安が浮かんでいる。


 私は、そっと彼女の手を握った。


「……一緒に来てくれて、ありがとう」


「……お嬢様?」


「マリアがいてくれて、心強いわ」


 そう言うと、マリアは少し驚いたように目を丸くした。


 それから。


「……当然でございます」


 優しく笑ってくれた。


 私は、その笑顔に少しだけ勇気をもらった。


 ◇ ◇ ◇


 やがて。


 馬車は、小さな集落へと辿り着いた。


 そこが、ルクシエル辺境領の中心集落。


 ルクシアだった。


 ……けれど。


「…………」


 私は、言葉を失った。


 村の入口には、崩れかけた木の柵。


 家々の屋根はところどころ剥(は)がれ、壁には大きな亀裂が走っている。


 道には深い轍(わだち)が刻まれ、雨が降れば泥だらけになるだろう。


 広場の中央には、大きな井戸があった。


 けれど、その周囲には誰もいない。


 井戸の上には、古い板が打ちつけられていた。


 ……使われていないの?


 私は、胸の奥がざわつくのを感じた。


 そのとき。


 小さな子どもたちが、遠くからこちらを見ていることに気づいた。


 痩せた身体。


 継(つ)ぎはぎだらけの服。


 けれど、その瞳には、強い好奇心が浮かんでいた。


 私は、思わず微笑んだ。


 すると。


 子どもたちは、慌てて建物の陰へ隠れてしまった。


「……あら」


 少し、残念だわ。


 けれど、無理もないのだろう。


 突然やってきた、知らない貴族の娘。


 警戒されても、仕方がない。


 私は、ゆっくりと馬車を降りた。


 すると。


「……おい」


 ガルド様が、私を見た。


「何をするつもりだ?」


「少し、村を見せていただけませんか?」


「……勝手にしろ」


 私は、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 そして、ゆっくりと広場へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 広場の中央にある井戸。


 近づいてみると、思っていた以上に古いものだった。


 石造りの井戸枠(いどわく)には、大きな亀裂が走っている。


 滑車(かっしゃ)は錆びつき、縄も切れかけていた。


 そして、井戸の口には、分厚い板が打ちつけられている。


「……この井戸は、使われていないのですか?」


 私は、ガルド様に尋ねた。


「ああ」


 短い答えだった。


「……どうしてでしょう?」


「水が出ねえからだ」


「……水が?」


「十年ほど前から、ほとんど枯れちまった」


 ガルド様は、吐(は)き捨てるように言った。


「今は、村の外れにある小さな泉まで、水を汲みに行ってる」


「……毎日、ですか?」


「ああ。片道一時間はかかる」


 私は、息を呑んだ。


 毎日、一時間かけて水を汲みに行く。


 それだけでも、大変な仕事だ。


 しかも、ここにはお年寄りも子どももいる。


 冬になれば、道が凍ることもあるだろう。


「……それは、大変ですね」


 私は、井戸を見つめた。


 壊れた井戸。


 枯れた水。


 使われなくなった設備。


 ……もしかしたら。


「……あの」


 私は、静かに口を開いた。


「少しだけ、調べさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 ガルド様が、眉をひそめた。


「……何を?」


「この井戸です」


「……井戸?」


「はい」


 私は、右手を見つめた。


 淡い銀色の魔法紋。


 まだ、完全には回復していない。


 けれど。


 これなら、何か分かるかもしれない。


 そう思って、井戸へ手を伸ばしかけた、そのとき。


「……エリシア」


 背後から、レオン様の声がした。


 私は振り返る。


 彼は、静かに私を見つめていた。


「……約束しただろう」


「……あ」


 そうだった。


 しばらく魔法を使わない。


 そう、約束したばかりだった。


 私は、少しだけ困ってしまった。


「……でも、調べるだけなら……」


「君は、まだ十分に回復していない」


 レオン様は、穏やかに言った。


「それに、今すぐ直さなければならないわけではないだろう?」


「……そう、ですね」


 私は、井戸を見つめた。


 ……でも。


 この井戸が直れば。


 村の人たちは、毎日遠くまで水を汲みに行かなくてもよくなる。


 子どもたちも、お年寄りも。


 少しだけ、楽になるはずだ。


 私は、そっと唇を噛んだ。


 レオン様は、そんな私の気持ちを察したのだろう。


「……まずは、話を聞こう」


「……え?」


「井戸がいつから使えなくなったのか。どういう故障が起きたのか。昔はどのくらい水が出ていたのか」


 彼は、ゆっくりと続けた。


「それを確認してからでも、遅くはない」


「…………」


 私は、思わず目を見開いた。


 ……そうだわ。


 そのとおりだ。


 魔法を使う前に、できることがある。


 私は、少し恥ずかしくなってしまった。


「……ありがとうございます、レオン様」


「いや」


 彼は、ほんの少しだけ笑った。


「君が、無理をしないでくれればいい」


 その言葉に、胸の奥が温かくなった。


 私は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


 ◇ ◇ ◇


「……何なんだ、お前らは」


 ガルド様が、呆れたように呟いた。


「王都から来た貴族の娘が、枯れた井戸を直すだの、調べるだの……」


 私は、少しだけ笑った。


「変でしょうか?」


「……変だな」


 即答されてしまった。


 けれど。


 その声には、最初ほどの怒りは感じられなかった。


 ガルド様は、井戸を見つめる。


「……あの井戸は、昔はよく水が出たんだ」


「……そうなのですか?」


「ああ。村の誰もが、あの水で暮らしていた」


 その声が、少しだけ柔らかくなる。


「子どもたちは、あの井戸の周りで遊んでいた。夏には、冷たい水を汲んで飲んだりもした」


「…………」


「だが、今じゃ……」


 ガルド様は、言葉を切った。


 私は、静かに井戸を見つめた。


 板で塞がれた井戸。


 ひび割れた石。


 錆びついた滑車。


 けれど、そこには。


 かつて、人々の暮らしがあったのだ。


「……ガルド様」


「……何だ?」


「明日、もう一度、この井戸を調べさせてください」


「…………」


「今すぐ直せるとは、申し上げられません」


 私は、静かに続けた。


「ですが、もし原因が分かれば……何かできるかもしれません」


 ガルド様は、じっと私を見つめた。


 その目には、まだ疑いが残っている。


 けれど。


「……勝手にしろ」


 そう言って、視線を逸らした。


「ただし、期待はしねえぞ」


 私は、微笑んだ。


「はい。それで十分です」


 ◇ ◇ ◇


 夕方。


 私たちは、村の外れにある古い建物へ案内された。


 かつて領主の管理人が使っていたという、小さな屋敷。


 ……屋敷、と呼んでいいのかしら。


 石壁には大きな亀裂が走り、屋根の一部は崩れていた。


 窓ガラスも割れている。


 庭には雑草が生い茂り、門は片方の蝶番(ちょうつがい)が外れて、斜めに傾いていた。


「……ここが、領主様のお屋敷ですか?」


 マリアが、呆然と呟いた。


 私は、しばらく建物を見つめた。


 ……まあ。


 これは、なかなか。


「……直し甲斐《がい》がありそうね」


 思わず、そう言ってしまった。


 すると。


「お嬢様!」


 マリアが、慌てて振り返る。


「今は、魔法を使ってはいけませんからね!」


「……分かっているわ」


「本当ですか?」


「……本当よ」


 少しだけ、自信がなかった。


 けれど、今日はもう休むと決めている。


 私は、静かに頷いた。


「まずは、寝られる場所を探しましょう」


 すると。


「……こっちだ」


 ガルド様が、建物の脇を指さした。


「裏手に、まだ使える小屋がある。昔の管理人が寝泊まりしていた場所だ」


「……まあ!」


 私は、思わず顔を輝かせた。


「ありがとうございます!」


「……礼を言うほどのもんじゃねえ」


 ガルド様は、そっぽを向いた。


 けれど、その耳が少しだけ赤くなっているように見えた。


 ……気のせいかしら。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。


 小さな小屋の中で、私たちは簡単な夕食を取った。


 パンと、温かいスープ。


 それだけの食事だった。


 けれど。


「……美味しい」


 私は、思わず微笑んだ。


 マリアが、嬉しそうに笑う。


「お嬢様。今日も、ちゃんと召し上がってくださいましたね」


「ええ。約束したもの」


 私は、小さく頷いた。


 食事をきちんと取る。


 無理をしない。


 疲れたら休む。


 ……たった、それだけのこと。


 けれど、今までの私には難しかった。


「……少しずつ、慣れていかないとね」


 そう呟くと。


「……何に?」


 レオン様が尋ねた。


 私は、少しだけ考えた。


 それから、微笑んだ。


「……自分を、大切にすることです」


 レオン様は、一瞬だけ目を見開いた。


 そして。


「……そうだな」


 優しく、笑った。


 ◇ ◇ ◇


 夜が更けた頃。


 私は、小さな窓から外を眺めていた。


 空には、たくさんの星が輝いている。


 王都では、魔石灯の光が強くて、こんなにはっきり見えなかった。


 ……綺麗。


 私は、そっと微笑んだ。


 明日から、いよいよ領主としての仕事が始まる。


 何から手をつければいいのか。


 まだ、分からないことばかりだ。


 けれど。


 今日、見たものを思い出す。


 荒れた街道。


 崩れた家。


 枯れた井戸。


 そして、私を睨(にら)んでいたガルド様の顔。


 あの人たちは、何度も期待して。


 何度も裏切られてきたのだろう。


 だからこそ。


 今度こそ。


 少しでも、役に立ちたい。


 そう思った。


 そのとき。


 ふと、右手の魔法紋が目に入った。


 淡い銀色の光。


 昨日より、少しだけ強くなっている。


 ……明日なら。


 きっと、井戸を調べるくらいはできるはず。


 私は、そっと手を握りしめた。


 そして。


 小さく、呟いた。


「……待っていてくださいね」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 けれど。


 きっと。


 この土地には、まだ何かが残っている。


 壊れてしまったもの。


 失われたもの。


 そして。


 もう一度、取り戻せるかもしれないものが。


 私は、静かに目を閉じた。


 明日は、あの井戸を調べよう。


 そこから、始めよう。


 小さな一歩でもいい。


 私にできることを、一つずつ。


 そう決意しながら、私は眠りについた。

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