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3/9

今度は、あなたが休んでください

「君は、何かを直さなくても、ここにいていいんだ」


 レオン様の言葉が、胸の奥に静かに落ちてきた。


 私は、しばらく何も言えなかった。


 何かを直さなくても。


 ここにいていい。


 そんな当たり前のような言葉が、どうしてこんなにも不思議に聞こえるのだろう。


「……でも」


 ようやく口を開く。


「私には、修復魔法しかありませんから……」


 それしかできない。


 ずっと、そう思って生きてきた。


 王宮では、壊れたものを直すことが私の仕事だった。


 どんなに疲れていても、どんなに眠くても。


 誰かが困っているのなら、助けなければならない。


 だって、それが私にできる唯一のことだから。


 けれど。


「エリシア」


 レオン様が、私の言葉を静かに遮った。


「君は、昨日の朝から何を食べた?」


「……え?」


 突然の質問に、私は目を瞬かせた。


「ええと……昨日の朝は、馬車の中でパンを少し……」


「昼は?」


「……干し肉を、一口ほど」


「夕食は?」


「…………」


 答えられなかった。


 レオン様の金色の瞳が、じっと私を見つめる。


「……食べていないんだな」


「その……少し、忙しくて……」


「では、一昨日は?」


「…………」


「エリシア」


「……はい」


 なぜだろう。


 王太子殿下に叱られていたときよりも、ずっと居心地が悪い。


 しかも、レオン様は怒鳴っているわけではない。


 ただ、心配そうに私を見つめているだけなのに。


「……申し訳ございません」


 思わず頭を下げた。


 すると。


「どうして謝る?」


「……え?」


「食事を取れていなかったのは、君だろう。俺に謝る必要はない」


「で、ですが……」


「それに、君は昨日、命を落としかけた」


 レオン様の声が、わずかに低くなった。


「俺を助けるために、だ」


「……でも、助かったのですから」


「それで君が死んでいたら、どうするつもりだった?」


 その言葉に、私は息を呑んだ。


 死ぬ。


 そんな可能性を、考えたことはなかった。


 ……いいえ。


 正確には。


 考えないように、していたのかもしれない。


 あのとき、目の前には死にかけた人がいた。


 私の魔法が使えるかもしれないと思った。


 だから、使った。


 それだけだった。


「……私は……」


 言葉が出てこない。


 レオン様は、そんな私を責めることなく、小さく息を吐いた。


「君が俺を助けてくれたことには、心から感謝している」


「…………」


「だからこそ、君には無事でいてほしいんだ」


 そう言って、彼は私の前に小さな包みを置いた。


「……これは?」


「薬草だ。身体の消耗を和らげるものを選んだ。宿の主人に頼んで、薬師から分けてもらった」


 包みの中には、乾燥させた葉や小さな木の実が入っていた。


 ほのかに甘い香りがする。


「それから、こちらは水筒だ。保温の魔道具が組み込まれている。温かい飲み物を入れておける」


「まあ……」


 私は思わず目を丸くした。


 銀色の小さな水筒。


 表面には、繊細な模様が刻まれている。


 よく見ると、底の部分に小さな魔石が嵌(は)め込まれていた。


「こんな高価なものを、いただけません!」


 慌てて包みを返そうとする。


 けれど、レオン様は受け取らなかった。


「高価なものではない」


「ですが、保温の魔道具は一般的な水筒よりずっとお値段が……」


「……詳しいんだな」


「え?」


「魔道具について」


「あ……はい。王宮で、修復のお仕事をしておりましたので」


 そう答えると、レオン様は少しだけ考えるような表情を浮かべた。


「……なるほど」


「レオン様?」


「いや。何でもない」


 彼は小さく首を振った。


「とにかく、受け取ってくれ。俺の命を救ってもらった礼としては、安すぎるくらいだ」


「……でも」


「どうしても気になるなら、貸したことにしておこう」


「お借りする、ということですか?」


「ああ。必要なくなったら、返してくれればいい」


 私は少し考えた。


 それなら、お言葉に甘えてもいいのかもしれない。


「……では、お借りいたします」


 そう言って、水筒を両手で受け取った。


「ありがとうございます、レオン様」


 すると、彼はほんの少しだけ微笑んだ。


「どういたしまして」


 ……あら。


 その言葉が、何だかとても嬉しかった。


 誰かに助けてもらう。


 誰かから何かを受け取る。


 そんなことに、まだ少し慣れないけれど。


 悪いものではないのかもしれない。


 ◇ ◇ ◇


「さて、お嬢様」


 そのとき。


 それまで黙っていたマリアが、にっこりと微笑んだ。


 ……あ。


 これは、あまりよくない笑顔だ。


 長年一緒に過ごしてきた私は、よく知っている。


 マリアがこの顔をするときは、たいてい私に何かを言い聞かせようとしているときなのだ。


「本日のご予定について、ご相談がございます」


「ええと……何かしら?」


「本日は、この宿でお休みいただきます」


「……はい?」


 私は目を瞬かせた。


「でも、マリア。ルクシエルまでは、もうそれほど遠くないでしょう?」


「はい。馬車で進めば、明日には領地へ入れると伺っております」


「でしたら、今日のうちに少しでも進んで――」


「お嬢様」


「……はい」


 マリアの笑顔が、さらに深くなる。


「昨日、倒れられたばかりですよね?」


「……そうね」


「今朝も、まだお顔の色が悪いですよね?」


「……そうかもしれないわ」


「では、お休みください」


 きっぱりと言われてしまった。


 私は困ってしまう。


 確かに身体は重い。


 立ち上がろうとすると、まだ少し目が回る。


 けれど。


 新しい領地が、もうすぐそこにあるのだ。


 どんな場所なのか、早く見てみたい。


 それに、領主としてやらなければならないことも、たくさんある。


「……でも、領地の皆様がお待ちかもしれないでしょう?」


「到着予定は、もともと明後日でございます」


「……そうだったかしら?」


「はい。お嬢様が早く進みたいとおっしゃるので、予定より少し急いでおりました」


「…………」


 ……そういえば、そんなことを言った気がする。


「でしたら、予定どおりでも問題ありませんね」


 マリアは満足そうに頷いた。


 私は、何も言い返せなくなってしまった。


 そのとき。


「俺も、彼女に賛成だ」


 レオン様が口を開いた。


「……レオン様まで」


「君の身体は、まだ十分に回復していない。長時間の移動は避けた方がいい」


「ですが……」


「エリシア」


 彼は、私をまっすぐ見つめた。


「今度は、あなたが休んでください」


「…………」


 その言葉に。


 私は、胸の奥がきゅっと締めつけられるような気がした。


 今度は、あなたが。


 ……そうか。


 私は今まで、誰かにそう言ってもらったことがあっただろうか。


 王宮では、いつも逆だった。


 誰かが困っていれば、私が直す。


 誰かが疲れていれば、私が代わりに働く。


 誰かが失敗すれば、私が後始末をする。


 でも。


 私が疲れたときは?


 私が倒れそうになったときは?


 ……誰が、助けてくれたのだろう。


「……分かりました」


 私は、小さく頷いた。


「今日は、お休みします」


 すると。


 マリアが、ぱっと顔を輝かせた。


「お嬢様……!」


「そんなに驚かなくてもいいでしょう?」


「いえ! お嬢様が自分からお休みになるなんて、夢のようです!」


「もう……」


 少し恥ずかしくなってしまう。


 けれど、レオン様も安心したように微笑んでいた。


 その顔を見ていると、何だか私まで嬉しくなってくる。


 ……不思議な人。


 まだ出会って二日しか経っていないのに。


 この人の前では、少しだけ素直になれる気がする。


 ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ。


 私は寝台の上で、窓の外を眺めていた。


 外では、柔らかな風が木々を揺らしている。


 遠くから、鳥の鳴き声が聞こえた。


 ……静かだわ。


 王宮では、こんな時間を過ごしたことがほとんどなかった。


 何もしなくていい。


 誰にも呼ばれない。


 ただ、窓の外を眺めているだけ。


 それだけなのに。


「……落ち着かないわね」


 思わず呟いてしまった。


 何か、仕事をした方がいいのではないか。


 壊れているものはないだろうか。


 そんな考えが、頭の中に浮かんでしまう。


 ……いけない。


 今日は休むと約束したばかりなのに。


 私は小さくため息をついた。


 そのとき。


 こんこん。


 扉が叩かれた。


「エリシア。入ってもいいだろうか」


 レオン様の声だった。


「はい。どうぞ」


 扉が開く。


 レオン様は、小さなお盆を持っていた。


 その上には、温かいお茶と焼き菓子が載っている。


「……まあ!」


 私は思わず身を乗り出した。


「焼き菓子ですか?」


「ああ。宿の主人が焼いたものだそうだ」


 レオン様は、お盆を小さな机に置いた。


「甘いものは、好きか?」


「はい! とても!」


 思わず元気よく答えてしまった。


 ……あ。


 少し、はしゃぎすぎただろうか。


 慌てて口元を押さえる。


 すると、レオン様が小さく笑った。


「……そうか。よかった」


「……え?」


「君が喜ぶかと思って、持ってきたんだ」


「…………」


 私は、焼き菓子を見つめた。


 小さな丸い焼き菓子。


 表面には、粉砂糖がまぶされている。


 決して豪華なものではない。


 王宮の晩餐会で並ぶような、きらびやかな菓子でもない。


 けれど。


 私が喜ぶと思って。


 この人が、わざわざ持ってきてくれた。


 そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


「……ありがとうございます」


 私は、一つ手に取った。


 口に運ぶと、ほろりと崩れる。


 優しい甘さが、口いっぱいに広がった。


「……美味しい」


 思わず、頬が緩んだ。


 レオン様が、じっと私を見ている。


「……あの?」


「いや」


 彼は少しだけ目を細めた。


「美味しそうに食べるんだな、と思って」


「……っ!」


 私は、急に恥ずかしくなってしまった。


「も、申し訳ございません……!」


「どうして謝る?」


「その……はしたないところを、お見せしてしまって……」


「そんなことはない」


 レオン様は、はっきりと言った。


「美味しいものを食べて、嬉しそうにする。それの何が悪い?」


「……ですが、貴族の令嬢としては……」


「今、ここにいるのは俺と君だけだ」


 そう言って、彼は柔らかく微笑んだ。


「少しくらい、好きにしてもいいんじゃないか?」


「…………」


 私は、手の中の焼き菓子を見つめた。


 ……そうね。


 もう、王太子妃ではないのだもの。


 誰かに見られて、評価されることもない。


 好きなものを食べて。


 美味しいと笑って。


 それくらい、してもいいのかもしれない。


「……では、もう一ついただいても?」


「ああ。もちろん」


 レオン様が笑った。


 私も、つられて笑ってしまった。


 ◇ ◇ ◇


「ところで、エリシア」


 お茶を飲み終えた頃、レオン様が口を開いた。


「君は、これからどこへ向かうつもりなんだ?」


「ルクシエル辺境領です」


 私は、少し誇らしい気持ちで答えた。


「実は、私……つい先日、あの土地の領主になったんです」


「……ルクシエル?」


 レオン様の表情が、わずかに変わった。


「……あの、北の辺境領か?」


「はい」


「……なぜ、あそこへ?」


 もっともな質問だった。


 ルクシエルは、百年前の大災害《黒い冬》によって荒れ果てた土地。


 今でも多くの人が、呪われた場所として恐れている。


 そんな土地へ、わざわざ行こうとする貴族はほとんどいないだろう。


「……少し、事情がありまして」


 私は苦笑した。


「実は、婚約を破棄されたんです」


「…………何?」


 レオン様の声が、急に低くなった。


 私は慌てて手を振る。


「あっ、でも、大丈夫です! もう気にしておりませんから!」


「……婚約破棄、だと?」


「はい。王太子殿下から、役立たずだと言われてしまいまして……」


 そう言った瞬間。


 レオン様の金色の瞳が、すっと細められた。


「……役立たず?」


「ええ。私の魔法は、壊れたものを直すだけですから」


「…………」


「攻撃魔法も使えませんし、治癒魔法も……昨日までは使えないと思っておりましたし……」


 私は困ったように笑った。


「王妃には、向いていなかったのでしょうね」


 すると。


 レオン様は、しばらく黙っていた。


 何かを必死に堪(こら)えているような表情だった。


「……その王太子は」


「はい?」


「君が、どれほどの仕事をしていたのか……知っていたのか?」


「……さあ」


 私は首を傾げた。


「王宮の設備を直すのは、私の担当でしたけれど……殿下が詳しくご存じだったかどうかは……」


「…………」


「でも、きっと大したお仕事ではなかったのでしょうね」


 そう言うと。


「……違う」


 レオン様が、低い声で呟いた。


「……え?」


「いや。すまない」


 彼は小さく首を振った。


 けれど、その表情はまだ険しいままだった。


「……エリシア」


「はい」


「君は、本当にその土地へ行きたいのか?」


 私は、少しだけ考えた。


 ……本当に、行きたいのか。


 王太子殿下に言われたからではない。


 誰かに命じられたからでもない。


 自分で選んだ土地。


 自分で決めた未来。


「……はい」


 私は、ゆっくりと頷いた。


「行きたいです」


「…………」


「きっと、大変なことがたくさんあると思います。荒れ果てた土地ですし、領民の皆様も苦労なさっているでしょうし……」


 私は窓の外を見つめた。


「でも、私の魔法で、何かお役に立てるかもしれません」


「……そうか」


「それに……」


 私は、少しだけ笑った。


「今度こそ、自分のために生きてみたいんです」


 その言葉を聞いた瞬間。


 レオン様の表情が、柔らかくなった。


「……いいと思う」


 静かな声だった。


「君が、自分で選んだ道なら」


「……ありがとうございます」


 私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 この人は、私を止めない。


 危険だからやめろとも。


 無理だから諦めろとも言わない。


 ただ、私の決めたことを尊重してくれる。


 ……それが、こんなにも嬉しいなんて。


 ◇ ◇ ◇


「……実は」


 少しの沈黙の後、レオン様が口を開いた。


「俺も、北へ向かうところだった」


「……え?」


「ルクシエルの周辺で、少し調べたいことがあってな」


「まあ! そうでしたの?」


「ああ」


 レオン様は頷いた。


「だから、もし君が嫌でなければ……」


 そこで、彼は一度言葉を切った。


 そして、まっすぐ私を見つめる。


「しばらく、同行させてもらえないだろうか」


「……同行、ですか?」


「ああ。君の体調もまだ万全ではない。それに、北の街道は魔物が出ることもある」


 レオン様は、少しだけ笑った。


「これでも、剣の腕には自信がある」


「……まあ」


 確かに。


 あの立派な体格なら、剣術もお得意なのかもしれない。


 けれど。


「……よろしいのですか?」


 私は、思わず尋ねた。


「何がだ?」


「私たちと一緒では、旅の速度も遅くなってしまいますし……」


「構わない」


「それに、私の領地は、本当に何もないところで……」


「知っている」


 レオン様は即答した。


「それでも、行くつもりだった」


「…………」


「だから、気にする必要はない」


 私は、少し考えた。


 レオン様は、命を助けた相手。


 けれど、まだ出会ったばかりの人でもある。


 本当なら、もう少し慎重になるべきなのかもしれない。


 私は、マリアの方を見た。


 すると。


「私は、よろしいかと思います」


 マリアが静かに頷いた。


「昨夜も、レオン様はお嬢様のことを気にかけてくださいました。それに、北の街道に詳しい方がいてくださるのは心強いです」


「……そうね」


 確かに、そのとおりだ。


 私たちは、ほとんど土地勘がない。


 それに、危険な場所へ向かうのだから、護衛がいてくれるのはありがたい。


「……では」


 私は、レオン様に向き直った。


「もしご迷惑でなければ、ぜひご一緒してください」


 その瞬間。


 レオン様の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……ありがとう」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 私は、笑顔で頭を下げた。


 こうして。


 私たちの旅に、一人の青年が加わることになった。


 このときの私は、まだ知らなかった。


 彼が、ただの旅人ではないことを。


 そして。


 彼との出会いが、私の人生を大きく変えることになるのだということを。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 私たちは、宿屋を出発した。


 レオン様は馬車の御者台に座り、周囲を警戒してくれている。


 私はマリアと一緒に、車内から景色を眺めていた。


「……本当に、よろしかったのかしら」


 ぽつりと呟く。


「何がですか?」


「レオン様に、同行していただくことよ」


 マリアは、少しだけ笑った。


「お嬢様」


「なあに?」


「あの方、お嬢様のことを、とても心配していらっしゃいましたよ」


「……そうなの?」


「はい。昨夜も、お嬢様のご様子を何度も確認なさって……」


「…………」


 私は、思わず頬に手を当てた。


 ……どうしてだろう。


 何だか、顔が熱い。


「……きっと、命を助けたお礼のつもりなのでしょうね」


「ふふ。そうかもしれませんね」


 マリアは、意味ありげに笑った。


「……マリア?」


「いえ。何でもございません」


 絶対に、何か考えている顔だった。


 私は小さくため息をつく。


 けれど。


 不思議と、嫌な気持ちはしなかった。


 ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ。


 馬車は、北へ続く街道を進んでいた。


 周囲の景色は、少しずつ変わり始めている。


 青々としていた木々が減り、代わりに乾いた草地が広がっていた。


 遠くには、灰色の山々が見える。


 空気も、少し冷たくなった気がする。


「……そろそろだな」


 御者台から、レオン様の声が聞こえた。


「……え?」


 私は窓から顔を出した。


「何がですか?」


「もう少し進めば、ルクシエルの領境だ」


「……まあ!」


 私は、思わず身を乗り出した。


 ついに。


 ついに、新しい領地へ辿り着くのだ。


 どんな場所なのだろう。


 どんな人たちが暮らしているのだろう。


 私は、胸を高鳴らせながら前方を見つめた。


 そのとき。


 レオン様が、少しだけ表情を険しくした。


「……エリシア」


「はい?」


「一つ、覚えておいてほしいことがある」


「……何でしょう?」


 彼は、遠くの山々を見つめた。


「ルクシエルは、ただの荒れた土地ではない」


「……え?」


「百年前の災害以来、あの土地では不可解なことが起き続けている」


 私は、息を呑んだ。


「……不可解なこと、ですか?」


「ああ」


 レオン様は、小さく頷いた。


「魔物の異常な出現。突然枯れる井戸。そして、理由もなく失われる土地の魔力」


「…………」


「だから、あの土地は呪われていると呼ばれている」


 私は、遠くの山々を見つめた。


 ……呪われた土地。


 誰もが恐れる場所。


 けれど。


「……それなら」


 私は、静かに口を開いた。


「なおさら、行ってみたいです」


 レオン様が、驚いたように振り返る。


「……怖くないのか?」


「少しは、怖いです」


 私は正直に答えた。


「でも……」


 窓の外に広がる、乾いた大地。


 その向こうにある、新しい領地。


 私は、小さく微笑んだ。


「もし、その土地が本当に壊れているのなら……」


 そっと、自分の右手を見つめる。


 淡い銀色の魔法紋。


 まだ完全には回復していないけれど、確かにそこにある。


「私の魔法で、直せるものがあるかもしれませんから」


 その言葉を聞いて。


 レオン様は、しばらく黙っていた。


 それから。


「……そうだな」


 静かに、そう答えた。


 けれど、その表情には。


 どこか、複雑なものが浮かんでいた。


 ◇ ◇ ◇


 さらにしばらく進んだ頃。


 馬車の車輪が、小さな石を踏んだ。


 がたん。


「きゃっ!」


 私は思わず座席にしがみついた。


「大丈夫か?」


 レオン様が振り返る。


「は、はい!」


 私は慌てて返事をした。


 けれど、窓の外を見て、少し驚いた。


 道が、ひどく荒れている。


 石畳はあちこちで崩れ、雑草が伸び放題になっていた。


 街道の両側には、枯れた木が並んでいる。


 遠くには、崩れかけた石造りの建物も見えた。


 ……ここが。


 ルクシエル。


 私の、新しい領地。


「……すごいところね」


 思わず呟いてしまった。


 マリアが、不安そうに窓の外を見る。


「お嬢様……本当に、ここで暮らしていくのですか?」


 私は、少しだけ考えた。


 確かに、想像していた以上に荒れ果てている。


 何から手をつければいいのかも、分からない。


 けれど。


 ここは、私が自分で選んだ場所だ。


「……ええ」


 私は、ゆっくりと頷いた。


「ここから、始めましょう」


 新しい暮らしを。


 新しい人生を。


 そして、誰かのためだけではない。


 私自身の、幸せを。


 そう思った、そのときだった。


「……待て」


 レオン様が、突然馬車を止めた。


「……え?」


 私は顔を上げる。


 彼は、前方をじっと見つめていた。


 その金色の瞳が、わずかに細められている。


「……人がいる」


「……人?」


 私は窓から顔を出した。


 すると。


 荒れた街道の先に、数人の人影が見えた。


 粗末な服を着た男たち。


 その中心には、背の高い、がっしりとした体格の男性が立っている。


 男性は、私たちの馬車を見るなり、険しい表情を浮かべた。


「……止まれ」


 低い声が響いた。


「ここから先は、ルクシエル領だ」


 私は、思わず背筋を伸ばした。


 いよいよ。


 新しい領地の人たちとの、初めての出会い。


 けれど。


 男性が次に口にした言葉は、私の予想とはまったく違うものだった。


「……王都から来た貴族なら、帰ってくれ」


 ――え?


 私は、目を瞬かせた。


 男性は、冷たい目で私たちを見つめていた。


「俺たちは、もう……王都の貴族なんざ、信用しない」


 その声には、深い怒りと。


 そして、長い年月をかけて積み重なった、悲しみが込められていた。


 私は、ゆっくりと馬車を降りた。


 ……どうやら。


 私の新しい領地での暮らしは。


 思っていたよりも、ずっと大変なものになりそうだった。


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