↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/5

私の魔法が、人を治した?

 ――熱い。


 身体の奥から、何かが抜け落ちていく。


 そんな、不思議な感覚だった。


 目の前には、金色の光が広がっている。


 私の手のひらから溢れ出した光は、倒れている青年の身体を包み込み、胸元の傷へと吸い込まれていった。


 裂けた衣服の下で、傷ついた皮膚がゆっくりと閉じていく。


 流れていた血が止まり、傷口が少しずつ塞がっていくのが見えた。


「……すごい」


 思わず声が漏れた。


 私の魔法で、人の傷が治っている。


 こんなことは初めてだった。


 これまで何度も《修復》を使ってきたけれど、生きている人間に魔法が反応したことなんて、一度もなかったのに。


 でも。


 おかしい。


 いつもとは、何かが違う。


「……あ、れ……?」


 指先が冷たい。


 足元がふらつく。


 まるで、身体の中にある大切なものを、少しずつ奪われているような。


 そんな感覚があった。


 ――警告。


 ――術者の生命力を消費しています。


 視界に浮かんだ文字が、赤く明滅する。


 生命力。


 それが何を意味するのか、今の私には分からない。


 けれど、青年の胸元には、まだ深い傷が残っていた。


 ここで魔法を止めてしまったら。


 きっと、この人は――。


「……あと、少し……」


 私は震える手に力を込めた。


 金色の光が、一段と強くなる。


 青年の身体が、びくりと震えた。


 その瞬間。


 胸元に残っていた最後の傷が、ゆっくりと閉じていった。


 ――生命構造の修復、完了。


 ――対象の生命活動、安定。


 ――古代禁呪《神喰いの鎖》への干渉、失敗。


 ――術者の生命力、著しく低下。


 最後の文字を読み終えるより早く、視界が大きく揺れた。


「……よかっ、た……」


 助かった。


 この人は、もう大丈夫。


 そう思った途端、身体から力が抜けた。


「お嬢様っ!?」


 遠くで、マリアの悲鳴が聞こえる。


 倒れそうになった私の身体を、誰かが受け止めた。


 温かくて、大きな手。


「……エリシア!」


 低い声が、耳元で響いた。


 どうして、この人は私の名前を知っているのだろう。


 聞かなければ。


 そう思ったけれど、もう唇が動かなかった。


 私の意識は、そのまま深い闇の中へ沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


「お嬢様! お嬢様っ!」


 マリアは、目の前の光景が信じられなかった。


 つい先ほどまで、死にかけていた青年。


 その青年の傷が、眩(まばゆ)い金色の光によって消えてしまったのだ。


 そして、代わりに。


 大切な主人が、まるで糸の切れた人形のように倒れてしまった。


「お嬢様……! しっかりしてください!」


 マリアは慌てて駆け寄る。


 けれど、先にエリシアの身体を受け止めていたのは、血まみれだったはずの青年だった。


 青年は片腕でエリシアを抱え、もう片方の手で地面を支えている。


 その顔は青白かったが、先ほどまでの致命的な傷は見当たらない。


「……何が、起きたんですか……?」


 マリアが震える声で尋ねた。


 青年は答えなかった。


 ただ、腕の中のエリシアを見つめていた。


「……馬鹿な」


 低く、押し殺したような声が漏れる。


「どうして……また、君は……」


 青年の言葉は、そこで途切れた。


 彼は何かを堪(こら)えるように目を閉じ、それからエリシアの手首に指を当てた。


 脈を確認しているらしい。


「……脈はある。呼吸もしている」


「本当ですか!?」


「ああ。だが、ひどく消耗している。すぐに休ませなければ」


 青年は自分の胸元に視線を落とした。


 衣服は血で染まっている。


 けれど、傷は完全に塞がっていた。


 あれほど深かった傷が。


 跡形もなく。


「……あり得ない」


 青年は呟(つぶや)いた。


 彼自身、自分の身に何が起きたのか理解できていない様子だった。


 それから、青年は慎重にエリシアを抱き上げた。


「近くに宿はあるか?」


「い、いえ。この辺りには何も……。馬車ならございます!」


「なら、まずは馬車へ。日差しと風を避けられる場所が必要だ」


「はいっ!」


 マリアは慌てて馬車の扉を開けた。


 青年はエリシアの身体を揺らさないよう、ゆっくりと座席へ横たえる。


 そして、自分の外套を脱いで彼女に掛けた。


「……こんなに、冷たいのか」


 青年はエリシアの手を握り、眉をひそめた。


 彼女の指先は、驚くほど冷たかった。


 しかも、先ほどまで銀色に輝いていた手のひらの魔法紋が、今はほとんど見えなくなっている。


 青年の表情が険しくなった。


「……まさか、生命力まで……?」


「生命力、ですか?」


 マリアが聞き返す。


 青年はすぐには答えなかった。


 代わりに、自分の胸元へ手を当てる。


 そこには、皮膚の奥深くへ食い込むような、黒い鎖の紋様が刻まれていた。


 普段なら、息をするだけでも鈍い痛みを感じる場所。


 長年、自分を苦しめ続けてきたもの。


 けれど今は。


「……痛みが、ない……?」


 青年は目を見開いた。


 完全に消えたわけではない。


 黒い紋様は、今も胸元に残っている。


 それでも、身体を締めつけていた苦痛が、嘘のように和らいでいた。


 何年も感じたことのなかった、穏やかな呼吸。


 青年は、信じられない思いでエリシアを見下ろした。


「……君は、いったい……」


 その問いに答える者は、いなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ――いい匂い。


 最初に感じたのは、そんなことだった。


 温かい、薬草のお茶の香り。


 それから、薪が爆(は)ぜる小さな音。


 ……あれ?


 私、何をしていたんだっけ。


 確か、馬車でルクシエルへ向かっていて。


 森の入口で、血まみれの人を見つけて。


 それから……。


「……っ!」


 私は勢いよく目を開けた。


 けれど、次の瞬間。


「いたた……」


 頭の奥に、ずきんと痛みが走った。


 身体が、鉛のように重い。


 指先を動かすだけでも、ひどく疲れる。


「……ここは……?」


 見慣れない天井。


 古い木の梁。


 壁には、小さな燭台(しょくだい)が掛けられている。


 私は、寝台の上に横たわっていた。


 窓の外は、すっかり暗くなっている。


 どうやら、夜になってしまったらしい。


「お嬢様っ!」


 突然、横から声がした。


 顔を向けると、マリアが椅子から立ち上がるところだった。


 その目は真っ赤に腫れている。


「よかった……! 本当によかった……!」


「マリア……?」


「もう、目を覚まされないのではないかと……!」


 マリアは私の手を握った。


 その手が、震えている。


「……ごめんなさい。心配をかけてしまったわね」


「本当です!」


 珍しく、強い声だった。


 私は思わず目を瞬かせる。


「お嬢様は、いつもそうです!」


「え?」


「誰かが困っていたら、すぐに助けようとなさって……! ご自分のお身体のことなんて、少しも考えてくださらないんですから!」


「……マリア」


「私……本当に、怖かったんです……」


 最後の言葉は、かすれていた。


 マリアは俯いた。


 その頬を、一粒の涙が伝う。


 私は胸が痛くなった。


 ああ。


 また、心配をかけてしまった。


 王宮でも、何度もマリアに叱られた。


 食事を抜いた日。


 眠らずに仕事をした日。


 魔力を使いすぎて倒れた日。


 そのたびに、彼女は私のために怒ってくれた。


 けれど、私はいつも。


 大丈夫よ。


 もう少しだけだから。


 そう言って、笑って誤魔化(ごまか)してきたのだ。


「……本当に、ごめんなさい」


 今度は、心を込めて謝った。


「でも、あの方は……?」


 そう尋ねると、マリアは少しだけ表情を和らげた。


「あの青年でしたら、ご無事です」


「本当?」


「はい。お嬢様が倒れた後、馬車まで運んでくださったんです」


「……よかった」


 私はほっと息をついた。


 それなら、無理をした甲斐があった。


 そう思った瞬間。


「ですが!」


 マリアが私の手をぎゅっと握る。


「お嬢様のお命まで危険にさらしてよかったとは、私は思いません!」


「……はい」


 思わず、素直に返事をしてしまった。


 マリアは驚いたように目を丸くする。


 それから、少しだけ笑った。


「……お嬢様が素直に聞いてくださるなんて、珍しいですね」


「そんなに、いつも聞いていなかったかしら?」


「はい。とても」


 きっぱりと言われてしまった。


 ……反省しよう。


「ところで、ここはどこなの?」


「街道沿いにある、小さな宿屋です。あの青年が場所を知っていて、案内してくださいました」


「そうだったのね」


「薬草茶も用意してくださいましたし、宿代まで払おうとなさったんですよ」


「まあ……」


 見ず知らずの私たちに、そこまでしてくださったの?


 ……いえ。


 見ず知らず、というのは少し違うかもしれない。


 あの青年は。


 私の名前を、知っていた。


 どうしてだろう。


 考えようとしたとき。


 こんこん。


 扉が静かに叩かれた。


「失礼する。目を覚ましたと聞いたが、入っても構わないだろうか」


 低く、落ち着いた男性の声。


 マリアが私を見る。


 私は小さく頷いた。


「はい。どうぞ」


 扉が開いた。


 そこに立っていたのは、あの青年だった。


 ◇ ◇ ◇


 ……綺麗な人。


 最初に浮かんだ感想は、それだった。


 あのときは血まみれで、顔色もひどく悪かったから、よく分からなかったけれど。


 改めて見ると、驚くほど整った顔立ちをしている。


 少し長めの黒髪。


 まっすぐ通った鼻筋。


 そして、夕暮れの太陽のような金色の瞳。


 背が高く、肩幅も広い。


 身につけているのは簡素(かんそ)な旅装だが、不思議と気品を感じさせる人だった。


「……気分はどうだ?」


 青年が尋ねる。


「え、ええ。少し身体が重いですが、大丈夫です」


「そうか」


 青年は短く答えた。


 けれど、その表情は少しも安心していないように見えた。


「……本当に、大丈夫なのか?」


「はい。少し休めば、きっと――」


「顔色が悪い」


「……え?」


「それに、まだ手が震えている」


 私は思わず、自分の手を見た。


 確かに、指先が小さく震えていた。


 青年は寝台のそばまで歩いてくると、少し迷ったように足を止めた。


「……近くに座っても?」


「あ、はい。もちろんです」


 青年は椅子に腰を下ろした。


 そして、私をまっすぐ見つめる。


「まずは、礼を言わせてほしい」


「……お礼、ですか?」


「ああ」


 青年は、深く頭を下げた。


「命を救ってくれて、ありがとう」


「…………」


 私は、ぽかんとしてしまった。


 命を救ってくれて、ありがとう。


 そんなふうに言われたことが、あっただろうか。


 王宮では、何かを直しても。


 当然だ。


 次も頼む。


 もっと早くできないのか。


 そんな言葉ばかりだった。


 だから。


 たった一言の感謝が、胸の奥に深く染み込んでいくような気がした。


「……いえ」


 私は慌てて首を振った。


「そんな、大したことはしておりません」


「大したことではない?」


 青年が眉を上げる。


「君は、俺の命を救ったんだ」


「でも、私にできることをしただけですし……」


「それでもだ」


 静かな声だった。


 けれど、不思議と強く心に響いた。


「君がいなければ、俺は確実に死んでいた」


「…………」


「だから、ありがとう」


 青年はもう一度、そう言った。


 私は視線を落とした。


 なんだろう。


 胸の奥が、むずむずする。


 嬉しい。


 けれど、どう答えればいいのか分からない。


「……どう、いたしまして」


 ようやく、そう返した。


 すると青年は、ほんの少しだけ笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 なぜだか、胸が小さく跳ねた。


「……あの」


「何だ?」


「お名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 青年は一瞬だけ、言葉を詰まらせた。


 そして。


「……レオン」


「レオン様?」


「ああ。それでいい」


 短い答えだった。


 私は頷く。


「私はエリシアと申します。エリシア・フォン・アルベルトです」


「……知っている」


「…………え?」


 思わず顔を上げた。


 今。


 知っている、とおっしゃった?


 レオン様は、しまったというように口を閉じた。


 けれど、もう遅い。


「あの……」


 私は少しだけ身を乗り出した。


「もしかして、以前どこかでお会いしたことがございますか?」


 レオン様の金色の瞳が、わずかに揺れた。


「……どうして、そう思う?」


「私が倒れる前、名前を呼んでくださったような気がして……」


 あのとき。


 確かに聞こえた。


 エリシア、と。


 初めて会ったはずの人が、私の名前を知っていた。


 それが、ずっと気になっていたのだ。


 レオン様は、しばらく黙っていた。


 窓の外で、風が木の枝を揺らしている。


「……君は」


 やがて、彼が口を開いた。


「昔、誰かを助けたことがあるか?」


「……え?」


「ずっと前のことだ。今よりも、もっと幼かった頃に」


 私は首を傾げた。


 幼い頃。


 誰かを助けたこと。


 ……どうだろう。


 壊れたものを直したことなら、何度もある。


 近所の子どもが壊した玩具。


 使用人が割ってしまった花瓶。


 庭師が使っていた古い道具。


 でも、人を助けたこととなると……。


「申し訳ございません。あまり、覚えていなくて……」


「……そうか」


 レオン様は、少しだけ寂しそうに笑った。


 その表情が、なぜか気になった。


「……レオン様?」


「いや。何でもない」


 彼は小さく首を振る。


「今は、ゆっくり休んでくれ。話は、君が元気になってからにしよう」


 その口調は優しかった。


 けれど。


 私は、どうしても気になってしまった。


 この人は、何かを知っている。


 私の知らない、何かを。


 ◇ ◇ ◇


「ところで、エリシア」


 レオン様が、ふと真剣な表情になった。


「一つ、聞いてもいいだろうか」


「はい」


「君の魔法は、治癒魔法なのか?」


「……いいえ」


 私は首を振った。


「私の固有魔法は《修復》です」


「修復?」


「はい。壊れたものを直す魔法でございます」


 そう答えると、レオン様は驚いたように目を見開いた。


「……修復魔法で、人間の身体を?」


「私も、驚いております」


 私は自分の右手を見つめた。


 いつもなら、淡い銀色の魔法紋が浮かぶはずの手のひら。


 けれど今は、ぼんやりとした痕跡しか見えない。


「今まで、人の傷を治せたことはなかったんです」


「……そうなのか」


「はい。ですから、あのとき何が起きたのか、私にも分からなくて……」


 私は小さく笑った。


「もしかしたら、私の魔法にも、まだ知らない使い方があるのかもしれませんね」


 レオン様は何も答えなかった。


 ただ、私の手をじっと見つめている。


 その表情は、なぜかひどく苦しそうだった。


「……エリシア」


「はい?」


「もう一つだけ、聞かせてくれ」


「何でしょう?」


「俺を治したとき、何か異変はなかったか?」


 私は少し考えた。


 異変。


 そういえば。


「……不思議な文字が、見えました」


「文字?」


「はい。目の前に、光る文字が浮かんだんです」


 レオン様の表情が変わった。


「何と書かれていた?」


「確か……生命構造に損傷があるとか、修復できるとか……」


 私は記憶を辿(たど)った。


 あのときは必死だったから、すべてを覚えているわけではない。


 けれど。


 一つだけ、妙にはっきりと覚えている言葉があった。


「それから……《神喰いの鎖》という文字が……」


「…………!」


 レオン様の肩が、ぴくりと動いた。


 私は驚いて顔を上げる。


「レオン様?」


「……いや」


 彼は一瞬だけ目を伏せた。


「続けてくれ」


「はい。確か、古代禁呪と書かれていたと思います」


 沈黙。


 レオン様は、しばらく何も言わなかった。


 ただ、無意識なのだろう。


 右手が、胸元へ伸びていた。


 まるで、そこに何かがあるのを確かめるように。


「……それだけか?」


「ええと……」


 私はもう一度、記憶を探った。


 ああ、そうだ。


 もう一つ、気になることがあった。


「魔法を使っている間、身体から何かが抜けていくような感じがしました」


「……何?」


「魔力を使いすぎたときとは、少し違う感じで……」


 私は困ったように笑った。


「不思議ですよね。こんなこと、初めてで……」


 レオン様の顔色が、さっと変わった。


「……まさか」


 低い声。


 それから彼は、私の手を見つめたまま動かなくなった。


「レオン様?」


 呼びかけても、返事がない。


 やがて彼は、深く息を吐いた。


「……エリシア」


「はい」


「お願いがある」


 私は首を傾げた。


「何でしょう?」


 レオン様は、まっすぐに私を見つめた。


「しばらく、その魔法を使わないでほしい」


「……え?」


 予想していなかった言葉だった。


「どうして、ですか?」


「危険だからだ」


「でも……」


 私は戸惑った。


 修復魔法は、私の唯一の取り柄だ。


 これまで、ずっと使ってきた。


 壊れたものを直す。


 それが、私にできることだから。


「もし、また誰かが怪我をしていたら……」


「そのときは、医者を呼ぶ」


「でも、間に合わなかったら……」


「俺が運ぶ。必要なら、他の治癒魔術師も探す」


「ですが……」


「君一人が、すべてを背負う必要はない」


 その言葉に。


 私は、何も言えなくなった。


 ……どうして。


 どうして、この人は。


 そんなことを言うのだろう。


 王宮では、誰も言ってくれなかった。


 私にしかできない仕事だから。


 私がやらなければ困る人がいるから。


 だから、頑張らなければいけない。


 ずっと、そう思ってきた。


 けれど、この人は。


 私が誰かを助けようとすることよりも。


 私自身が傷つくことを、心配している。


「……変わった方ですね」


 思わず、そう言ってしまった。


 レオン様が目を瞬かせる。


「俺が?」


「はい」


 私は小さく笑った。


「私の魔法を使わないでほしいなんて、初めて言われました」


「…………」


「皆様、もっと使ってほしいとおっしゃるので……」


 そこまで言って。


 しまった、と思った。


 何だか、愚痴のようになってしまった。


「……申し訳ございません。変なことを言ってしまいましたね」


「いや」


 レオン様は、静かに首を振った。


「変なのは、君ではない」


「……え?」


 彼は少しだけ眉を寄せた。


 その表情には、怒りに似たものが浮かんでいた。


 けれど、私に向けられたものではないようだった。


「……君に、そんなことを言わせてきた連中の方だ」


「レオン様……?」


「すまない。気にしないでくれ」


 彼はそう言って立ち上がった。


「もう遅い。今夜はゆっくり休んだ方がいい」


「……はい」


「何か必要なものがあれば、すぐに言ってくれ」


 私は頷いた。


 レオン様は一度だけ私を振り返り、それから部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 私は、しばらくその扉を見つめていた。


 ……不思議な人。


 優しいけれど、どこか寂しそうで。


 何か大きな秘密を抱えているような。


 そんな気がした。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。


 宿屋の廊下で、レオンは一人、窓の外を眺めていた。


 月明かりが、黒い髪を銀色に照らしている。


「……エリシア」


 小さく、名前を呟く。


 八年前。


 あの日のことを、彼は今でも覚えていた。


 暗い部屋。


 壊れた魔道具。


 身体を蝕(むしば)む、激しい痛み。


 そして。


 小さな手を差し伸べてくれた、銀色の髪の少女。


 ――大丈夫です。


 ――私が、直しますから。


 あのときと、同じ言葉だった。


「……何も、変わっていないんだな」


 レオンは苦笑した。


 誰かが困っていれば、迷わず手を伸ばす。


 自分が傷つくことなど、少しも考えずに。


 そんなところまで、八年前と同じだった。


 レオンは胸元に手を当てる。


 そこには今も、黒い鎖の紋様が刻まれている。


 《神喰いの鎖》。


 生まれたときから、彼の身体を蝕(むしば)んできた古代の呪い。


 これまで、何人もの高位治癒魔術師が治療を試みた。


 帝国中の研究者たちが、解呪の方法を探してきた。


 けれど、誰一人として。


 この呪いを弱めることすらできなかった。


 それなのに。


「……痛みが、消えている」


 レオンは小さく息を吐いた。


 いや、完全に消えたわけではない。


 胸の奥には、まだ冷たい鎖の感触が残っている。


 だが、これほど穏やかに呼吸できるのは、いつ以来だろう。


 何年ぶりかも分からない。


 彼女の魔法が、この呪いに何らかの影響を与えたことは間違いない。


 しかし。


 その代償が、彼女の生命力だとしたら。


「……二度と、使わせるわけにはいかない」


 レオンは、きつく拳を握った。


 エリシアが倒れたとき。


 彼は、自分の心臓が止まるかと思った。


 腕の中で、彼女の身体が冷たくなっていく。


 呼吸が浅くなり、顔色が失われていく。


 その光景は、八年前の記憶と重なった。


 あの日も。


 彼女は、自分を助けるために無理をしたのだ。


「……今度こそ」


 レオンは、静かに呟いた。


「今度こそ、俺が……」


 そこまで言って、言葉を止める。


 彼女は、まだ何も知らない。


 自分が何者なのか。


 どうして彼女の名前を知っていたのか。


 そして、この呪いが何を意味するのかも。


 今すべてを話せば、きっと彼女は責任を感じてしまうだろう。


 また、自分を助けようとしてしまう。


 それだけは、避けたかった。


「……すまない、エリシア」


 レオンは目を閉じた。


「もう少しだけ、時間をくれ」


 窓の外では、冷たい風が吹いていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 私は、妙な音で目を覚ました。


 ……ぐう。


「…………」


 ……ぐうう。


「…………あら」


 どうやら、お腹が鳴っているらしい。


 そういえば、昨日は何も食べていなかった。


 その前も、馬車の中で干し肉とパンを少し口にしただけだった気がする。


「……お腹が空いたわ」


 ぽつりと呟く。


 すると。


「お目覚めですか、お嬢様!」


 扉が開き、マリアが入ってきた。


 その手には、温かそうなスープが載ったお盆がある。


「ちょうど朝食をお持ちしたところです!」


「まあ……!」


 私は思わず身を乗り出した。


 小さな器に入った、野菜たっぷりのスープ。


 焼きたてのパンも添えられている。


 なんて美味しそうなのだろう。


「いただいてもいい?」


「もちろんです!」


 私は嬉しくなって、スプーンを手に取った。


 温かなスープを、一口。


「……美味しい」


 思わず、目を閉じた。


 優しい塩味。


 柔らかく煮込まれた野菜。


 身体の隅々まで、温かさが広がっていく。


「こんなに美味しい朝食、久しぶりだわ……」


 そう呟いた瞬間。


 マリアの表情が、少しだけ曇った。


「……お嬢様」


「なあに?」


「これからは、毎日きちんと朝食を召し上がってくださいね」


「ええ。もちろんよ」


「お昼もです」


「……はい」


「夕食も、です」


「……努力します」


「お嬢様!」


 マリアに叱られてしまった。


 私は慌てて笑う。


「分かったわ。ちゃんと食べます」


 すると、マリアはようやく満足そうに頷いた。


 ……何だか、少しだけ幸せだ。


 誰かと一緒に朝食を食べること。


 温かいスープを飲むこと。


 そんな当たり前のことが、こんなにも嬉しいなんて。


 王宮にいた頃は、考えもしなかった。


 私はもう一口、スープを飲んだ。


 そのとき。


「……ところで、マリア」


「はい?」


「レオン様は、どちらに?」


 何気なく尋ねると、マリアは少しだけ目を細めた。


「まあ。もう、あの方のことが気になるのですか?」


「えっ!?」


 私は思わずスプーンを落としかけた。


「ち、違うわ! ただ、お礼をきちんとお伝えできていなかったから……!」


「ふふ。分かっておりますよ」


 絶対に分かっていない顔だった。


 私は少しだけ頬を膨らませた。


「もう、マリアったら……」


 すると、扉の向こうから声がした。


「……朝から、ずいぶん賑やかだな」


「…………!」


 私は驚いて振り返った。


 そこには、レオン様が立っていた。


 昨日とは違い、すっきりとした旅装に着替えている。


 そして、その手には。


 薬草の入った小さな袋と、新しい水筒が握られていた。


「……レオン様?」


「起きられたようだな」


 彼は私の顔を見ると、少しだけ安心したように微笑んだ。


 それから、ゆっくりと近づいてくる。


「ちょうどよかった。君に、話しておきたいことがある」


「……お話、ですか?」


「ああ」


 レオン様は、私の前で足を止めた。


 そして、真剣な表情で言った。


「エリシア。まず、一つ約束してほしい」


「……何でしょう?」


「俺を助けたときのような魔法は、もう使わないでくれ」


「…………え?」


 私は目を瞬かせた。


 昨日も同じことを言われたけれど、どうしてそこまで心配なさるのだろう。


 だって。


 私の魔法は、壊れたものを直すためにある。


 それを使わないなんて。


「……でも、レオン様」


 私は困ったように笑った。


「壊れたものを直すことしか、私にはできないんです」


 その瞬間。


 レオン様の表情が、悲しそうに歪(ゆが)んだ。


 そして。


 私が今まで、誰からも言われたことのない言葉を口にした。


「……エリシア」


 低く、優しい声だった。


「君は、何かを直さなくても、ここにいていいんだ」


 ――え?


 私は、息を呑んだ。


 その言葉の意味が、すぐには分からなかった。


 何かを直さなくても。


 ここにいていい。


 そんなことを、言ってもらったのは。


 生まれて初めてだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。