私の魔法が、人を治した?
――熱い。
身体の奥から、何かが抜け落ちていく。
そんな、不思議な感覚だった。
目の前には、金色の光が広がっている。
私の手のひらから溢れ出した光は、倒れている青年の身体を包み込み、胸元の傷へと吸い込まれていった。
裂けた衣服の下で、傷ついた皮膚がゆっくりと閉じていく。
流れていた血が止まり、傷口が少しずつ塞がっていくのが見えた。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
私の魔法で、人の傷が治っている。
こんなことは初めてだった。
これまで何度も《修復》を使ってきたけれど、生きている人間に魔法が反応したことなんて、一度もなかったのに。
でも。
おかしい。
いつもとは、何かが違う。
「……あ、れ……?」
指先が冷たい。
足元がふらつく。
まるで、身体の中にある大切なものを、少しずつ奪われているような。
そんな感覚があった。
――警告。
――術者の生命力を消費しています。
視界に浮かんだ文字が、赤く明滅する。
生命力。
それが何を意味するのか、今の私には分からない。
けれど、青年の胸元には、まだ深い傷が残っていた。
ここで魔法を止めてしまったら。
きっと、この人は――。
「……あと、少し……」
私は震える手に力を込めた。
金色の光が、一段と強くなる。
青年の身体が、びくりと震えた。
その瞬間。
胸元に残っていた最後の傷が、ゆっくりと閉じていった。
――生命構造の修復、完了。
――対象の生命活動、安定。
――古代禁呪《神喰いの鎖》への干渉、失敗。
――術者の生命力、著しく低下。
最後の文字を読み終えるより早く、視界が大きく揺れた。
「……よかっ、た……」
助かった。
この人は、もう大丈夫。
そう思った途端、身体から力が抜けた。
「お嬢様っ!?」
遠くで、マリアの悲鳴が聞こえる。
倒れそうになった私の身体を、誰かが受け止めた。
温かくて、大きな手。
「……エリシア!」
低い声が、耳元で響いた。
どうして、この人は私の名前を知っているのだろう。
聞かなければ。
そう思ったけれど、もう唇が動かなかった。
私の意識は、そのまま深い闇の中へ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
「お嬢様! お嬢様っ!」
マリアは、目の前の光景が信じられなかった。
つい先ほどまで、死にかけていた青年。
その青年の傷が、眩い金色の光によって消えてしまったのだ。
そして、代わりに。
大切な主人が、まるで糸の切れた人形のように倒れてしまった。
「お嬢様……! しっかりしてください!」
マリアは慌てて駆け寄る。
けれど、先にエリシアの身体を受け止めていたのは、血まみれだったはずの青年だった。
青年は片腕でエリシアを抱え、もう片方の手で地面を支えている。
その顔は青白かったが、先ほどまでの致命的な傷は見当たらない。
「……何が、起きたんですか……?」
マリアが震える声で尋ねた。
青年は答えなかった。
ただ、腕の中のエリシアを見つめていた。
「……馬鹿な」
低く、押し殺したような声が漏れる。
「どうして……また、君は……」
青年の言葉は、そこで途切れた。
彼は何かを堪えるように目を閉じ、それからエリシアの手首に指を当てた。
脈を確認しているらしい。
「……脈はある。呼吸もしている」
「本当ですか!?」
「ああ。だが、ひどく消耗している。すぐに休ませなければ」
青年は自分の胸元に視線を落とした。
衣服は血で染まっている。
けれど、傷は完全に塞がっていた。
あれほど深かった傷が。
跡形もなく。
「……あり得ない」
青年は呟いた。
彼自身、自分の身に何が起きたのか理解できていない様子だった。
それから、青年は慎重にエリシアを抱き上げた。
「近くに宿はあるか?」
「い、いえ。この辺りには何も……。馬車ならございます!」
「なら、まずは馬車へ。日差しと風を避けられる場所が必要だ」
「はいっ!」
マリアは慌てて馬車の扉を開けた。
青年はエリシアの身体を揺らさないよう、ゆっくりと座席へ横たえる。
そして、自分の外套を脱いで彼女に掛けた。
「……こんなに、冷たいのか」
青年はエリシアの手を握り、眉をひそめた。
彼女の指先は、驚くほど冷たかった。
しかも、先ほどまで銀色に輝いていた手のひらの魔法紋が、今はほとんど見えなくなっている。
青年の表情が険しくなった。
「……まさか、生命力まで……?」
「生命力、ですか?」
マリアが聞き返す。
青年はすぐには答えなかった。
代わりに、自分の胸元へ手を当てる。
そこには、皮膚の奥深くへ食い込むような、黒い鎖の紋様が刻まれていた。
普段なら、息をするだけでも鈍い痛みを感じる場所。
長年、自分を苦しめ続けてきたもの。
けれど今は。
「……痛みが、ない……?」
青年は目を見開いた。
完全に消えたわけではない。
黒い紋様は、今も胸元に残っている。
それでも、身体を締めつけていた苦痛が、嘘のように和らいでいた。
何年も感じたことのなかった、穏やかな呼吸。
青年は、信じられない思いでエリシアを見下ろした。
「……君は、いったい……」
その問いに答える者は、いなかった。
◇ ◇ ◇
――いい匂い。
最初に感じたのは、そんなことだった。
温かい、薬草のお茶の香り。
それから、薪が爆ぜる小さな音。
……あれ?
私、何をしていたんだっけ。
確か、馬車でルクシエルへ向かっていて。
森の入口で、血まみれの人を見つけて。
それから……。
「……っ!」
私は勢いよく目を開けた。
けれど、次の瞬間。
「いたた……」
頭の奥に、ずきんと痛みが走った。
身体が、鉛のように重い。
指先を動かすだけでも、ひどく疲れる。
「……ここは……?」
見慣れない天井。
古い木の梁。
壁には、小さな燭台が掛けられている。
私は、寝台の上に横たわっていた。
窓の外は、すっかり暗くなっている。
どうやら、夜になってしまったらしい。
「お嬢様っ!」
突然、横から声がした。
顔を向けると、マリアが椅子から立ち上がるところだった。
その目は真っ赤に腫れている。
「よかった……! 本当によかった……!」
「マリア……?」
「もう、目を覚まされないのではないかと……!」
マリアは私の手を握った。
その手が、震えている。
「……ごめんなさい。心配をかけてしまったわね」
「本当です!」
珍しく、強い声だった。
私は思わず目を瞬かせる。
「お嬢様は、いつもそうです!」
「え?」
「誰かが困っていたら、すぐに助けようとなさって……! ご自分のお身体のことなんて、少しも考えてくださらないんですから!」
「……マリア」
「私……本当に、怖かったんです……」
最後の言葉は、かすれていた。
マリアは俯いた。
その頬を、一粒の涙が伝う。
私は胸が痛くなった。
ああ。
また、心配をかけてしまった。
王宮でも、何度もマリアに叱られた。
食事を抜いた日。
眠らずに仕事をした日。
魔力を使いすぎて倒れた日。
そのたびに、彼女は私のために怒ってくれた。
けれど、私はいつも。
大丈夫よ。
もう少しだけだから。
そう言って、笑って誤魔化してきたのだ。
「……本当に、ごめんなさい」
今度は、心を込めて謝った。
「でも、あの方は……?」
そう尋ねると、マリアは少しだけ表情を和らげた。
「あの青年でしたら、ご無事です」
「本当?」
「はい。お嬢様が倒れた後、馬車まで運んでくださったんです」
「……よかった」
私はほっと息をついた。
それなら、無理をした甲斐があった。
そう思った瞬間。
「ですが!」
マリアが私の手をぎゅっと握る。
「お嬢様のお命まで危険にさらしてよかったとは、私は思いません!」
「……はい」
思わず、素直に返事をしてしまった。
マリアは驚いたように目を丸くする。
それから、少しだけ笑った。
「……お嬢様が素直に聞いてくださるなんて、珍しいですね」
「そんなに、いつも聞いていなかったかしら?」
「はい。とても」
きっぱりと言われてしまった。
……反省しよう。
「ところで、ここはどこなの?」
「街道沿いにある、小さな宿屋です。あの青年が場所を知っていて、案内してくださいました」
「そうだったのね」
「薬草茶も用意してくださいましたし、宿代まで払おうとなさったんですよ」
「まあ……」
見ず知らずの私たちに、そこまでしてくださったの?
……いえ。
見ず知らず、というのは少し違うかもしれない。
あの青年は。
私の名前を、知っていた。
どうしてだろう。
考えようとしたとき。
こんこん。
扉が静かに叩かれた。
「失礼する。目を覚ましたと聞いたが、入っても構わないだろうか」
低く、落ち着いた男性の声。
マリアが私を見る。
私は小さく頷いた。
「はい。どうぞ」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、あの青年だった。
◇ ◇ ◇
……綺麗な人。
最初に浮かんだ感想は、それだった。
あのときは血まみれで、顔色もひどく悪かったから、よく分からなかったけれど。
改めて見ると、驚くほど整った顔立ちをしている。
少し長めの黒髪。
まっすぐ通った鼻筋。
そして、夕暮れの太陽のような金色の瞳。
背が高く、肩幅も広い。
身につけているのは簡素な旅装だが、不思議と気品を感じさせる人だった。
「……気分はどうだ?」
青年が尋ねる。
「え、ええ。少し身体が重いですが、大丈夫です」
「そうか」
青年は短く答えた。
けれど、その表情は少しも安心していないように見えた。
「……本当に、大丈夫なのか?」
「はい。少し休めば、きっと――」
「顔色が悪い」
「……え?」
「それに、まだ手が震えている」
私は思わず、自分の手を見た。
確かに、指先が小さく震えていた。
青年は寝台のそばまで歩いてくると、少し迷ったように足を止めた。
「……近くに座っても?」
「あ、はい。もちろんです」
青年は椅子に腰を下ろした。
そして、私をまっすぐ見つめる。
「まずは、礼を言わせてほしい」
「……お礼、ですか?」
「ああ」
青年は、深く頭を下げた。
「命を救ってくれて、ありがとう」
「…………」
私は、ぽかんとしてしまった。
命を救ってくれて、ありがとう。
そんなふうに言われたことが、あっただろうか。
王宮では、何かを直しても。
当然だ。
次も頼む。
もっと早くできないのか。
そんな言葉ばかりだった。
だから。
たった一言の感謝が、胸の奥に深く染み込んでいくような気がした。
「……いえ」
私は慌てて首を振った。
「そんな、大したことはしておりません」
「大したことではない?」
青年が眉を上げる。
「君は、俺の命を救ったんだ」
「でも、私にできることをしただけですし……」
「それでもだ」
静かな声だった。
けれど、不思議と強く心に響いた。
「君がいなければ、俺は確実に死んでいた」
「…………」
「だから、ありがとう」
青年はもう一度、そう言った。
私は視線を落とした。
なんだろう。
胸の奥が、むずむずする。
嬉しい。
けれど、どう答えればいいのか分からない。
「……どう、いたしまして」
ようやく、そう返した。
すると青年は、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間。
なぜだか、胸が小さく跳ねた。
「……あの」
「何だ?」
「お名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
青年は一瞬だけ、言葉を詰まらせた。
そして。
「……レオン」
「レオン様?」
「ああ。それでいい」
短い答えだった。
私は頷く。
「私はエリシアと申します。エリシア・フォン・アルベルトです」
「……知っている」
「…………え?」
思わず顔を上げた。
今。
知っている、とおっしゃった?
レオン様は、しまったというように口を閉じた。
けれど、もう遅い。
「あの……」
私は少しだけ身を乗り出した。
「もしかして、以前どこかでお会いしたことがございますか?」
レオン様の金色の瞳が、わずかに揺れた。
「……どうして、そう思う?」
「私が倒れる前、名前を呼んでくださったような気がして……」
あのとき。
確かに聞こえた。
エリシア、と。
初めて会ったはずの人が、私の名前を知っていた。
それが、ずっと気になっていたのだ。
レオン様は、しばらく黙っていた。
窓の外で、風が木の枝を揺らしている。
「……君は」
やがて、彼が口を開いた。
「昔、誰かを助けたことがあるか?」
「……え?」
「ずっと前のことだ。今よりも、もっと幼かった頃に」
私は首を傾げた。
幼い頃。
誰かを助けたこと。
……どうだろう。
壊れたものを直したことなら、何度もある。
近所の子どもが壊した玩具。
使用人が割ってしまった花瓶。
庭師が使っていた古い道具。
でも、人を助けたこととなると……。
「申し訳ございません。あまり、覚えていなくて……」
「……そうか」
レオン様は、少しだけ寂しそうに笑った。
その表情が、なぜか気になった。
「……レオン様?」
「いや。何でもない」
彼は小さく首を振る。
「今は、ゆっくり休んでくれ。話は、君が元気になってからにしよう」
その口調は優しかった。
けれど。
私は、どうしても気になってしまった。
この人は、何かを知っている。
私の知らない、何かを。
◇ ◇ ◇
「ところで、エリシア」
レオン様が、ふと真剣な表情になった。
「一つ、聞いてもいいだろうか」
「はい」
「君の魔法は、治癒魔法なのか?」
「……いいえ」
私は首を振った。
「私の固有魔法は《修復》です」
「修復?」
「はい。壊れたものを直す魔法でございます」
そう答えると、レオン様は驚いたように目を見開いた。
「……修復魔法で、人間の身体を?」
「私も、驚いております」
私は自分の右手を見つめた。
いつもなら、淡い銀色の魔法紋が浮かぶはずの手のひら。
けれど今は、ぼんやりとした痕跡しか見えない。
「今まで、人の傷を治せたことはなかったんです」
「……そうなのか」
「はい。ですから、あのとき何が起きたのか、私にも分からなくて……」
私は小さく笑った。
「もしかしたら、私の魔法にも、まだ知らない使い方があるのかもしれませんね」
レオン様は何も答えなかった。
ただ、私の手をじっと見つめている。
その表情は、なぜかひどく苦しそうだった。
「……エリシア」
「はい?」
「もう一つだけ、聞かせてくれ」
「何でしょう?」
「俺を治したとき、何か異変はなかったか?」
私は少し考えた。
異変。
そういえば。
「……不思議な文字が、見えました」
「文字?」
「はい。目の前に、光る文字が浮かんだんです」
レオン様の表情が変わった。
「何と書かれていた?」
「確か……生命構造に損傷があるとか、修復できるとか……」
私は記憶を辿った。
あのときは必死だったから、すべてを覚えているわけではない。
けれど。
一つだけ、妙にはっきりと覚えている言葉があった。
「それから……《神喰いの鎖》という文字が……」
「…………!」
レオン様の肩が、ぴくりと動いた。
私は驚いて顔を上げる。
「レオン様?」
「……いや」
彼は一瞬だけ目を伏せた。
「続けてくれ」
「はい。確か、古代禁呪と書かれていたと思います」
沈黙。
レオン様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、無意識なのだろう。
右手が、胸元へ伸びていた。
まるで、そこに何かがあるのを確かめるように。
「……それだけか?」
「ええと……」
私はもう一度、記憶を探った。
ああ、そうだ。
もう一つ、気になることがあった。
「魔法を使っている間、身体から何かが抜けていくような感じがしました」
「……何?」
「魔力を使いすぎたときとは、少し違う感じで……」
私は困ったように笑った。
「不思議ですよね。こんなこと、初めてで……」
レオン様の顔色が、さっと変わった。
「……まさか」
低い声。
それから彼は、私の手を見つめたまま動かなくなった。
「レオン様?」
呼びかけても、返事がない。
やがて彼は、深く息を吐いた。
「……エリシア」
「はい」
「お願いがある」
私は首を傾げた。
「何でしょう?」
レオン様は、まっすぐに私を見つめた。
「しばらく、その魔法を使わないでほしい」
「……え?」
予想していなかった言葉だった。
「どうして、ですか?」
「危険だからだ」
「でも……」
私は戸惑った。
修復魔法は、私の唯一の取り柄だ。
これまで、ずっと使ってきた。
壊れたものを直す。
それが、私にできることだから。
「もし、また誰かが怪我をしていたら……」
「そのときは、医者を呼ぶ」
「でも、間に合わなかったら……」
「俺が運ぶ。必要なら、他の治癒魔術師も探す」
「ですが……」
「君一人が、すべてを背負う必要はない」
その言葉に。
私は、何も言えなくなった。
……どうして。
どうして、この人は。
そんなことを言うのだろう。
王宮では、誰も言ってくれなかった。
私にしかできない仕事だから。
私がやらなければ困る人がいるから。
だから、頑張らなければいけない。
ずっと、そう思ってきた。
けれど、この人は。
私が誰かを助けようとすることよりも。
私自身が傷つくことを、心配している。
「……変わった方ですね」
思わず、そう言ってしまった。
レオン様が目を瞬かせる。
「俺が?」
「はい」
私は小さく笑った。
「私の魔法を使わないでほしいなんて、初めて言われました」
「…………」
「皆様、もっと使ってほしいとおっしゃるので……」
そこまで言って。
しまった、と思った。
何だか、愚痴のようになってしまった。
「……申し訳ございません。変なことを言ってしまいましたね」
「いや」
レオン様は、静かに首を振った。
「変なのは、君ではない」
「……え?」
彼は少しだけ眉を寄せた。
その表情には、怒りに似たものが浮かんでいた。
けれど、私に向けられたものではないようだった。
「……君に、そんなことを言わせてきた連中の方だ」
「レオン様……?」
「すまない。気にしないでくれ」
彼はそう言って立ち上がった。
「もう遅い。今夜はゆっくり休んだ方がいい」
「……はい」
「何か必要なものがあれば、すぐに言ってくれ」
私は頷いた。
レオン様は一度だけ私を振り返り、それから部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は、しばらくその扉を見つめていた。
……不思議な人。
優しいけれど、どこか寂しそうで。
何か大きな秘密を抱えているような。
そんな気がした。
◇ ◇ ◇
その夜。
宿屋の廊下で、レオンは一人、窓の外を眺めていた。
月明かりが、黒い髪を銀色に照らしている。
「……エリシア」
小さく、名前を呟く。
八年前。
あの日のことを、彼は今でも覚えていた。
暗い部屋。
壊れた魔道具。
身体を蝕む、激しい痛み。
そして。
小さな手を差し伸べてくれた、銀色の髪の少女。
――大丈夫です。
――私が、直しますから。
あのときと、同じ言葉だった。
「……何も、変わっていないんだな」
レオンは苦笑した。
誰かが困っていれば、迷わず手を伸ばす。
自分が傷つくことなど、少しも考えずに。
そんなところまで、八年前と同じだった。
レオンは胸元に手を当てる。
そこには今も、黒い鎖の紋様が刻まれている。
《神喰いの鎖》。
生まれたときから、彼の身体を蝕んできた古代の呪い。
これまで、何人もの高位治癒魔術師が治療を試みた。
帝国中の研究者たちが、解呪の方法を探してきた。
けれど、誰一人として。
この呪いを弱めることすらできなかった。
それなのに。
「……痛みが、消えている」
レオンは小さく息を吐いた。
いや、完全に消えたわけではない。
胸の奥には、まだ冷たい鎖の感触が残っている。
だが、これほど穏やかに呼吸できるのは、いつ以来だろう。
何年ぶりかも分からない。
彼女の魔法が、この呪いに何らかの影響を与えたことは間違いない。
しかし。
その代償が、彼女の生命力だとしたら。
「……二度と、使わせるわけにはいかない」
レオンは、きつく拳を握った。
エリシアが倒れたとき。
彼は、自分の心臓が止まるかと思った。
腕の中で、彼女の身体が冷たくなっていく。
呼吸が浅くなり、顔色が失われていく。
その光景は、八年前の記憶と重なった。
あの日も。
彼女は、自分を助けるために無理をしたのだ。
「……今度こそ」
レオンは、静かに呟いた。
「今度こそ、俺が……」
そこまで言って、言葉を止める。
彼女は、まだ何も知らない。
自分が何者なのか。
どうして彼女の名前を知っていたのか。
そして、この呪いが何を意味するのかも。
今すべてを話せば、きっと彼女は責任を感じてしまうだろう。
また、自分を助けようとしてしまう。
それだけは、避けたかった。
「……すまない、エリシア」
レオンは目を閉じた。
「もう少しだけ、時間をくれ」
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
私は、妙な音で目を覚ました。
……ぐう。
「…………」
……ぐうう。
「…………あら」
どうやら、お腹が鳴っているらしい。
そういえば、昨日は何も食べていなかった。
その前も、馬車の中で干し肉とパンを少し口にしただけだった気がする。
「……お腹が空いたわ」
ぽつりと呟く。
すると。
「お目覚めですか、お嬢様!」
扉が開き、マリアが入ってきた。
その手には、温かそうなスープが載ったお盆がある。
「ちょうど朝食をお持ちしたところです!」
「まあ……!」
私は思わず身を乗り出した。
小さな器に入った、野菜たっぷりのスープ。
焼きたてのパンも添えられている。
なんて美味しそうなのだろう。
「いただいてもいい?」
「もちろんです!」
私は嬉しくなって、スプーンを手に取った。
温かなスープを、一口。
「……美味しい」
思わず、目を閉じた。
優しい塩味。
柔らかく煮込まれた野菜。
身体の隅々まで、温かさが広がっていく。
「こんなに美味しい朝食、久しぶりだわ……」
そう呟いた瞬間。
マリアの表情が、少しだけ曇った。
「……お嬢様」
「なあに?」
「これからは、毎日きちんと朝食を召し上がってくださいね」
「ええ。もちろんよ」
「お昼もです」
「……はい」
「夕食も、です」
「……努力します」
「お嬢様!」
マリアに叱られてしまった。
私は慌てて笑う。
「分かったわ。ちゃんと食べます」
すると、マリアはようやく満足そうに頷いた。
……何だか、少しだけ幸せだ。
誰かと一緒に朝食を食べること。
温かいスープを飲むこと。
そんな当たり前のことが、こんなにも嬉しいなんて。
王宮にいた頃は、考えもしなかった。
私はもう一口、スープを飲んだ。
そのとき。
「……ところで、マリア」
「はい?」
「レオン様は、どちらに?」
何気なく尋ねると、マリアは少しだけ目を細めた。
「まあ。もう、あの方のことが気になるのですか?」
「えっ!?」
私は思わずスプーンを落としかけた。
「ち、違うわ! ただ、お礼をきちんとお伝えできていなかったから……!」
「ふふ。分かっておりますよ」
絶対に分かっていない顔だった。
私は少しだけ頬を膨らませた。
「もう、マリアったら……」
すると、扉の向こうから声がした。
「……朝から、ずいぶん賑やかだな」
「…………!」
私は驚いて振り返った。
そこには、レオン様が立っていた。
昨日とは違い、すっきりとした旅装に着替えている。
そして、その手には。
薬草の入った小さな袋と、新しい水筒が握られていた。
「……レオン様?」
「起きられたようだな」
彼は私の顔を見ると、少しだけ安心したように微笑んだ。
それから、ゆっくりと近づいてくる。
「ちょうどよかった。君に、話しておきたいことがある」
「……お話、ですか?」
「ああ」
レオン様は、私の前で足を止めた。
そして、真剣な表情で言った。
「エリシア。まず、一つ約束してほしい」
「……何でしょう?」
「俺を助けたときのような魔法は、もう使わないでくれ」
「…………え?」
私は目を瞬かせた。
昨日も同じことを言われたけれど、どうしてそこまで心配なさるのだろう。
だって。
私の魔法は、壊れたものを直すためにある。
それを使わないなんて。
「……でも、レオン様」
私は困ったように笑った。
「壊れたものを直すことしか、私にはできないんです」
その瞬間。
レオン様の表情が、悲しそうに歪んだ。
そして。
私が今まで、誰からも言われたことのない言葉を口にした。
「……エリシア」
低く、優しい声だった。
「君は、何かを直さなくても、ここにいていいんだ」
――え?
私は、息を呑んだ。
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
何かを直さなくても。
ここにいていい。
そんなことを、言ってもらったのは。
生まれて初めてだった。




