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婚約破棄ですか? では、あの呪われた土地をください

「エリシア・フォン・アルベルト! 君との婚約を、今日この場をもって破棄する!」


 ――ああ、よかった。


 王太子殿下の言葉を聞いて、真っ先に浮かんだのは、そんな感想だった。


 悲しくないと言えば、嘘になる。


 十年間、婚約者として隣に立ってきたのだ。何も感じないはずがない。


 けれど、それ以上に。


 これで、ようやく眠れる。


 そう思ってしまった。


「……何がおかしい?」


 目の前のアレクシス殿下が、不機嫌そうに眉を寄せる。


 どうやら私は、無意識に笑っていたらしい。


「いえ。失礼いたしました」


 私は静かに頭を下げた。


 ここはベルフォード王国の王宮。


 王立学園の卒業を祝う舞踏会の真っ最中だった。


 天井から吊(つ)り下げられた巨大な魔石灯(ませきとう)が、広間を昼間のように照らしている。


 磨き上げられた大理石の床。金糸で刺繍(ししゅう)された豪奢(ごうしゃ)なドレス。きらびやかな宝石を身につけた貴族たち。


 本来なら、三か月後に結婚を控えた私と殿下が、未来の国王夫妻として祝福されるはずの夜だった。


 けれど、殿下の隣に立っているのは私ではない。


 桃色の髪をした、可愛らしい少女。


 ミレーヌ・ロゼッタ男爵令嬢。


 殿下は彼女の肩を抱き寄せ、私を睨(にら)みつけた。


「君には失望した。三年間も王太子妃教育を受けておきながら、何ひとつ成果を出せなかったのだからな!」


「……さようでございますか」


「そのうえ、固有魔法は《修復》などという役立たずの能力だ! そんな女を王妃に迎えるわけにはいかん!」


 広間のあちこちから、忍び笑いが聞こえた。


「まあ、あの公爵令嬢が……」


「当然ですわね。修復魔法なんて、割れたお皿を直す程度でしょう?」


「ミレーヌ様は治癒魔法がお得意だそうですわ」


「やはり王妃には、ああいう方がふさわしいのでしょうね」


 私は黙って、その声を聞いていた。


 私の固有魔法は《修復》。


 壊れたものを、元の状態に戻す力。


 欠けた食器や破れた衣服だけでなく、傷んだ建物や魔道具も直すことができる。


 けれど、この国で尊ばれるのは、攻撃魔法や治癒魔法のような華やかな能力ばかりだ。


 修復魔法は地味で、見栄(みば)えがしない。


 だから、私の魔法が評価されることはほとんどなかった。


「エリシア様……」


 ミレーヌ様が、申し訳なさそうに私を見つめた。


「どうか、わたくしを恨まないでください。わたくし、殿下をお慕いする気持ちを抑えられなくて……」


 その声は、今にも泣き出しそうだった。


「ミレーヌ、君は何も悪くない」


 殿下が優しく彼女を抱き寄せる。


「悪いのは、婚約者としての魅力も能力もないエリシアの方だ」


「殿下……」


 二人は見つめ合った。


 私は、その様子をぼんやりと眺めていた。


 そういえば、今日はまだ何も食べていない。


 朝は北の結界塔の補修。


 昼は王宮の地下水路の点検。


 午後は舞踏会で使用する魔石灯の修復。


 その後、王太子妃教育の最終確認を受け、着替える時間もほとんどないまま、この広間へやってきた。


 昨夜も結界塔の不具合で呼び出され、眠れたのは二時間ほどだった。


 ……お腹(なか)が空いた。


 そんなことを考えた自分に、少し驚いてしまう。


 今まさに婚約を破棄されているというのに。


 けれど、殿下の顔を見るよりも、晩餐(ばんさん)用に並べられた焼き菓子の方が気になってしまった。


「エリシア! 聞いているのか!」


「はい。もちろんでございます」


 私は背筋を伸ばした。


「殿下は私との婚約を解消し、ミレーヌ様を新たな婚約者として迎えたい。そういうことでございますね?」


「そうだ!」


「承知いたしました」


「…………は?」


 殿下が目を丸くする。


 私はドレスの裾を持ち、丁寧に礼をした。


「これまで長い間、お世話になりました。どうぞ、ミレーヌ様とお幸せに」


 そして、その場を去ろうとした。


「待て!」


 背後から鋭い声が飛ぶ。


「それだけか!?」


「……と、おっしゃいますと?」


「十年もの婚約を破棄されたのだぞ! 泣いて縋(すが)るとか、考え直してほしいと懇願(こんがん)するとか、そういうものがあるだろう!」


 なるほど。


 殿下は、私に泣いてほしかったらしい。


 困ってしまった。


 今まで殿下に命じられたことは、できる限り叶えてきたつもりだ。


 けれど、今回ばかりは難しい。


 なにしろ、涙が出てこないのだから。


「申し訳ございません。殿下のお望みに添えず」


「貴様……!」


「ですが、一つだけ確認してもよろしいでしょうか」


 私は殿下をまっすぐに見つめた。


「婚約が解消されるのであれば、私が王宮で担当していたお仕事も、すべて終了するということでよろしいのですね?」


「当然だ! 貴様のような無能に、王宮での居場所などない!」


「北の結界塔の補修も?」


「当たり前だ!」


「地下水路の管理も?」


「そうだ!」


「魔石灯の点検も、王城西棟の壁面修復も、南の結界塔の保守も?」


「全部だ! 全部、貴様には関係ない!」


 私は思わず胸元に手を当てた。


「……ありがとうございます」


 小さく、そう呟(つぶや)いた。


「何?」


「いえ。何でもございません」


 けれど、それは心からの言葉だった。


 もう、真夜中に呼び出されることもない。


 魔力が尽きるまで働かされることもない。


 直したものが翌日にはまた壊れ、それを当然のように修復する毎日も終わる。


 誰かが壊したものを、私が直し続けなくてもいい。


 ――これで、自由になれる。


 その瞬間。


 不思議なことに、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「ふん。ようやく己の立場を理解したか」


 殿下は得意げに笑った。


「もっとも、王家から一方的に婚約を破棄する以上、相応の慰謝料(いしゃりょう)は支払ってやろう。金貨か? 宝石か? 望みを言ってみろ」


 私は少しだけ考えた。


 金貨。


 確かに、あれば助かる。


 けれど、亡くなった母が残してくれた個人資産がある。


 質素に暮らせば、しばらくは困らないはずだ。


 宝石は……もう十分持っている。


 それよりも。


 もっと欲しいものがあった。


「それでしたら、一つだけお願いがございます」


「何だ?」


「王国北端にある、ルクシエル辺境領をいただけませんか?」


 ――しん。


 広間が静まり返った。


 やがて、誰かが小さく息を呑(の)む音がした。


「……ルクシエル?」


 殿下が眉をひそめる。


「貴様、正気か?」


「はい」


「そこがどんな土地か、分かっているのか!?」


「もちろん存じております」


 ルクシエル辺境領。


 王国の最北端に位置する、広大な土地。


 かつては王国有数の穀倉地帯として知られていたが、百年前の大災害《黒い冬》によって、その大部分が荒れ果ててしまった。


 作物は育たず、井戸は枯れ、魔物が徘徊(はいかい)する。


 復興を試みた領主たちは次々と失敗し、今では王家が直接管理する、名ばかりの領地となっていた。


 人々は、そこをこう呼ぶ。


 ――呪われた土地、と。


「なぜ、そんな場所を欲しがる?」


 殿下が不審そうに私を見る。


 私は一瞬だけ迷った。


 本当のことを話しても、きっと理解してはもらえないだろう。


 だから、正直な気持ちを一つだけ伝えることにした。


「静かな場所で、暮らしたいのです」


「……は?」


「誰にも邪魔されず、朝まで眠れる場所が欲しいのです」


 私がそう言うと、殿下は大声で笑い始めた。


「ははははっ! そうか! ようやく自分の無能を自覚して、辺境に引きこもるつもりか!」


 周囲の貴族たちも笑った。


「お似合いですわね」


「さすがに、あそこを欲しがるなんて……」


「公爵令嬢とは思えない判断ですこと」


 私は何も言い返さなかった。


 あの土地には、壊れたものがたくさんある。


 古い家。


 崩れた橋。


 使われなくなった井戸。


 手入れされていない畑。


 そして、そこで暮らす人々の、苦しい生活。


 もしかしたら。


 私の魔法でも、何かできることがあるかもしれない。


 もちろん、すべてを直せるとは思っていない。


 でも、王宮で誰かの顔色を窺(うかが)いながら働き続けるよりは、ずっといい。


「よかろう!」


 殿下が胸を張った。


「あんな土地、王家にとっても厄介(やっかい)なだけだ! 父上には俺から話を通しておく!」


「殿下、お待ちください!」


 広間の端にいた老齢の宰相が、慌てて口を挟んだ。


「領地の譲渡(じょうと)となれば、国王陛下の正式な裁可(さいか)が必要です。それにルクシエルには、今も領民が――」


「分かっている! だが、これほど安い慰謝料もあるまい!」


「しかし……」


「決まりだ! エリシア、貴様にはあの呪われた土地がお似合いだ!」


 殿下は勝ち誇ったように笑った。


 私は深く頭を下げる。


「ありがとうございます、殿下」


 もちろん、王太子の口約束だけで領地を手に入れられるわけではない。


 正式な手続きが必要だろう。


 けれど、これで希望ができた。


 私は最後に、もう一つだけ確認する。


「殿下。王宮の修復記録についてですが、次の担当者へお渡しした方がよろしいでしょうか?」


「まだ何かあるのか!」


「結界塔の内部構造は複雑ですので、引き継ぎをしませんと――」


「エリシア様」


 ミレーヌ様が、私の言葉を遮った。


 そして、困ったように微笑む。


「もう、よろしいのではありませんか?」


「……ミレーヌ様?」


「殿下は、あなたを自由にしてくださったのですよ。これ以上、王宮のお仕事に口を出すのは失礼だと思いますわ」


「ですが、結界塔は――」


「大丈夫です!」


 ミレーヌ様は胸元に手を当て、にっこりと笑った。


「これからは、わたくしが殿下をお支えいたしますもの!」


 周囲から拍手が起こった。


「さすがミレーヌ様!」


「なんて健気(けなげ)な!」


「未来の王妃にふさわしい方ですわ!」


 私は静かに口を閉じた。


 ……そうですね。


 もう、私の仕事ではないのだ。


「承知いたしました」


 私は最後にもう一度、丁寧に礼をした。


「それでは皆様。失礼いたします」


 背後から、まだ笑い声が聞こえていた。


 けれど、私は振り返らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 王宮の廊下は、ひどく静かだった。


 舞踏会の音楽が遠ざかり、代わりに自分の靴音だけが響いている。


 窓の外には、丸い月が浮かんでいた。


「……終わったのね」


 ぽつりと呟く。


 十年間の婚約。


 三年間の王太子妃教育。


 そして、数え切れないほどの修復作業。


 全部、終わった。


 私は右手の手袋を外した。


 手のひらには、淡い銀色の魔法紋が浮かんでいる。


 《修復》の紋様だ。


 幼い頃から、ずっと私と一緒にあったもの。


「……もう、頑張らなくていいのかしら」


 自分に問いかける。


 けれど、答えは返ってこない。


 何となく、壁に手を伸ばした。


 白い石壁の向こうには、膨大な魔力が流れている。


 王都全体を守る、大結界の魔法回路。


 何百年も前に造られた、古代の設備だ。


 今の宮廷魔術師たちは、その構造を完全には理解できていない。


 だから、どこかが壊れるたびに、私は呼び出されていた。


 最初は、本当に小さな仕事だった。


 欠けた魔石を一つ、修復するだけ。


 それが、いつの間にか。


 回路の補修。


 魔力の流れの調整。


 結界塔の修繕。


 そして、王都の大結界そのものの保守へと広がっていった。


 私は、そっと壁に触れた。


 すると視界の奥に、青白い線が浮かび上がる。


 魔力回路の構造。


 そして、そのあちこちに生じた、小さな亀裂。


「……あら」


 また、少し傷んでいる。


 いつもなら、ここで修復魔法を使う。


 手のひらから魔力を流し、ひび割れた回路を元に戻す。


 ほんの数分の作業。


 けれど、その数分を何十回、何百回と繰り返してきた。


 今日も直して。


 明日も直して。


 明後日も、また直す。


 誰にも知られず。


 誰にも褒められず。


 それでも、この街で暮らす人々を守れるのなら、それでいいと思っていた。


「…………」


 私は壁から手を離した。


 今日の定期補修は、もう終わっている。


 今見つけた亀裂は、すぐに結界を崩壊させるようなものではない。


 修復記録も、すべて王宮の保管室に残してある。


 それに。


 殿下は、はっきりとおっしゃった。


 ――全部、貴様には関係ない。


 私はゆっくりと息を吐いた。


「……おやすみなさい」


 それは、王宮への最後の挨拶だった。


 私は背を向け、廊下を歩き出す。


 その手のひらで、銀色の魔法紋が一瞬だけ光ったことには、気づかなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 私は、三年ぶりに朝まで眠った。


「…………ん」


 窓から差し込む陽光が、瞼(まぶた)をくすぐる。


 鳥の声が聞こえる。


 遠くで馬車が走る音もする。


 ……あれ?


 もう、朝?


 私は寝台の上で体を起こした。


 いつもなら、夜明け前に侍女が起こしに来る。


 あるいは、夜中に王宮から使いが来て、どこかの設備を直しに行く。


 それなのに。


 今日は、誰も来なかった。


 私はしばらく窓の外を眺めていた。


 それから、思わず笑ってしまった。


「……本当に、終わったのね」


 こんなに清々しい朝は、いつ以来だろう。


 そのとき。


「お嬢様!」


 扉の向こうから、慌ただしい声が聞こえた。


 侍女のマリアだ。


「王宮から、正式な書状が届いております!」


「書状?」


 私は慌てて寝台から降りた。


 扉を開けると、茶色い髪をきっちりまとめたマリアが立っていた。


 彼女は私の顔を見るなり、目を見開く。


「お嬢様……!」


「どうしたの?」


「お顔の色が、いつもと全然違います!」


「え?」


「昨日まであんなにお疲れだったのに……! 今日はとてもお元気そうです!」


 私は自分の頬に手を当てた。


 そうなのだろうか。


 確かに、身体は驚くほど軽かった。


「よく眠れたからかしら」


「……三年間、ほとんどまともにお休みになれませんでしたものね」


 マリアはそう言って、少しだけ目を伏せた。


 私は彼女から封筒を受け取る。


 封には、ベルフォード王家の紋章が押されていた。


 慎重に開くと、中には二通の書類が入っていた。


 一通は、婚約解消を正式に認める通達。


 そして、もう一通は。


「……まあ」


 思わず声が漏れた。


 ルクシエル辺境領の譲渡証書(じょうとしょうしょ)だった。


 そこには、国王陛下の署名と王印が捺(お)されている。


 ただし、いくつかの条件も記されていた。


 領地の管理責任は、私個人が負うこと。


 王家から追加の財政支援は行わないこと。


 領内の治安と領民の生活について、領主として責任を果たすこと。


 そして、三年以内に領地経営が立ち行かなくなった場合は、王家が領地を回収すること。


 ……随分と厳しい条件だ。


 きっと、私が失敗すると思われているのだろう。


 けれど。


「……ふふっ」


 私は思わず笑ってしまった。


「お、お嬢様?」


「マリア」


「はい」


「私、領主になったみたい」


「…………え?」


 マリアが固まった。


「ですから、引っ越しをするわ」


「お、お引っ越し、ですか?」


「ええ。王国の北端にある、ルクシエル辺境領へ」


「ルクシエル……!?」


 マリアの顔が青くなった。


 当然だろう。


 あそこは、誰も行きたがらない土地なのだから。


「危険な場所だそうよ。魔物も出るし、冬はとても寒いみたい」


「そ、それは存じておりますが……」


「それに、お給金も今までと同じようには払えないかもしれないわ」


 私はマリアの手を取った。


「だから、無理について来なくてもいいのよ。あなたには、もっと安全で条件のいいお仕事を紹介できると思うの」


 すると。


 マリアは、私の手をぎゅっと握り返した。


「お嬢様」


「……マリア?」


「私も、参ります」


「え?」


「どこへでも、お供いたします」


 迷いのない声だった。


「でも、本当に危険なのよ?」


「はい」


「立派なお屋敷もないかもしれないわ」


「存じております」


「美味しいお菓子だって、今までみたいには食べられないかも……」


「それは少し残念ですが、お嬢様と一緒なら構いません」


 マリアが笑った。


 そして、静かに頭を下げる。


「お嬢様。私は、あなたに救われました」


「……え?」


「三年前、母が病気になったことを覚えていらっしゃいますか?」


 私は頷(うなず)いた。


 確か、治療費が足りず、マリアが困っていたのだった。


「お嬢様は、私のために治療費を出してくださいました。それだけでなく、看病のためにお休みまで取らせてくださった」


「そんなこと……当然でしょう?」


「当然ではありません」


 マリアは首を横に振った。


「他の方なら、仕事を休む侍女など必要ないとおっしゃったかもしれません。でも、お嬢様は違いました」


 その声が、少し震える。


「それなのに、私は何もお返しできませんでした。毎晩遅くまで働くお嬢様に、温かいお茶を用意することくらいしか……」


「マリア」


「だから、今度は私に、お嬢様のお手伝いをさせてください」


 私は、何も言えなくなった。


 誰かの役に立ちたい。


 そう思って、ずっと頑張ってきた。


 でも、誰かに必要とされていると感じたことは、あまりなかった。


 私が仕事を終えても、次の仕事が待っている。


 壊れたものを直しても、それが当たり前。


 感謝の言葉なんて、ほとんど聞いたことがない。


 だから。


 今、こんなふうに言ってもらえることが。


 どうしようもなく、嬉しかった。


「……ありがとう、マリア」


 ようやく、それだけ言えた。


 マリアは目元を拭いながら、明るく笑った。


「さあ、お嬢様! そうと決まれば、お引っ越しの準備でございます!」


「ええ!」


 私は大きく頷いた。


 窓の外には、どこまでも青い空が広がっている。


 新しい土地。


 新しい暮らし。


 そして、自分で選んだ人生。


 きっと、楽なことばかりではないだろう。


 でも。


 今までとは違う未来が、待っている気がした。


 ◇ ◇ ◇


 同じ頃。


 王宮の地下深く。


 普段は誰も立ち入らない、古代の結界制御室。


 そこには、王都全体を守る巨大な魔法設備が眠っていた。


 幾重にも重なった魔力回路。


 青白く輝く無数の魔石。


 そして、部屋の中央に浮かぶ、巨大な結晶。


 その結晶が。


 ぴしり。


 小さな音を立てた。


 表面に、一本の細い亀裂が走る。


 続いて、壁に刻まれた古代文字が、赤く明滅し始めた。


 ――定期修復、未実施。


 ――第三補助回路、損耗率上昇。


 ――補助魔力供給、停止。


 ――修復担当者、確認。


 そこで、文字の動きが止まった。


 やがて、一つの名前が浮かび上がる。


 ――エリシア・フォン・アルベルト。


 その名前が、ゆっくりと赤く染まった。


 ――担当者との魔力接続、確認できず。


 ――自動保全機能、起動失敗。


 ――王都大結界、維持可能時間を再計算。


 結晶の奥で、赤い光が明滅する。


 ――警告。


 ――警告。


 ――警告。


 けれど、その異変に気づく者は、誰もいなかった。


 ◇ ◇ ◇


 それから七日後。


 王都の北門から、一台の小さな馬車が出発した。


 乗っているのは、私とマリアの二人だけ。


 豪華な馬車ではない。


 立派な護衛もいない。


 荷物は衣服と本、それから必要最低限の生活用品。


 母が残してくれた宝石箱も、大切に荷台へ積んである。


 公爵家の父は、最後まで私を引き止めなかった。


 ただ、出発の朝。


「……身体には気をつけなさい」


 そう言って、少しだけ寂しそうに笑った。


 私は父に礼をして、馬車に乗り込んだ。


 これまでずっと暮らしてきた王都。


 その白い城壁が、ゆっくりと遠ざかっていく。


「お嬢様」


 向かいに座るマリアが、私を見た。


「楽しみですね」


「ええ」


 私は笑った。


「まずは、住める家を探さなくちゃ」


「お屋敷が崩れていたら、どうなさるのですか?」


「直せばいいわ」


「井戸が枯れていたら?」


「原因を調べてみましょう。壊れた水路が原因なら、きっと直せるはずよ」


「畑も荒れ果てているそうですよ」


「それは少し大変ね。土壌を調べて、農家の方たちと相談しないと」


 マリアがくすくすと笑った。


「お嬢様は、本当に何でも直してしまいそうですね」


「そんなことはないわ」


 私は苦笑した。


「私にできることなんて、ほんの少しよ」


 壊れたものを直す。


 ただ、それだけの魔法。


 けれど、もしも。


 その小さな力で、誰かの暮らしを少しでも良くできるのなら。


 それは、きっと幸せなことなのだろう。


 私は窓の外に目を向けた。


 街道の向こうに、青い山々が見える。


 あの山を越えれば、ルクシエルだ。


 誰も行きたがらない、呪われた土地。


 でも、私には。


 何か素敵なことが待っているような気がしてならなかった。


 ――だから、そのときの私は知らなかった。


 私が王都を離れた翌日から、王宮の魔道具が次々と故障していたことを。


 北の結界塔が停止し、魔物の侵入が増え始めていたことを。


 そして、私を役立たずと呼んだ王太子殿下が、ほどなくして顔を青くしながら、私の名前を叫ぶことになるなど。


 もちろん。


 そんなことを知る由(よし)もない私は。


 この三日後。


 新しい領地へ向かう街道の途中で、とんでもないものを発見することになる。


 それは。


 森の入口に倒れていた、一人の青年だった。


「マリア! 馬車を止めて!」


「お、お嬢様!?」


 馬車が止まるより早く、私は扉を開けた。


 地面に倒れていたのは、黒い髪の青年だった。


 年齢は二十代半ばくらいだろうか。


 整った顔立ちをしているが、その顔色は蒼白(そうはく)だった。


 上質な旅装は大きく裂け、胸元が血に染まっている。


「大変……!」


 私は慌てて駆け寄った。


「しっかりしてください! 聞こえますか!?」


 青年の瞼(まぶた)が、わずかに動いた。


 金色の瞳。


 夕暮れの太陽のように、美しい色だった。


「……君、は……」


「お話は後です! 今、助けを呼びますから!」


 私は青年の傷を確認した。


 深い。


 あまりにも、深い。


 こんな状態では、近くの村まで運ぶことすら難しいだろう。


 私は唇を噛んだ。


 私の魔法は《修復》。


 物を直すための魔法だ。


 人間の傷を治したことなんて、一度もない。


 けれど。


 このままでは、この人が死んでしまう。


「……何か、できることは……」


 そう呟いた瞬間。


 右手の魔法紋が、突然熱を帯びた。


「……え?」


 銀色の紋様が、淡く輝き始める。


 そして。


 私の目の前に、見たこともない文字が浮かび上がった。


 ――対象を確認。


 ――生命構造に重大な損傷を検出。


 ――修復可能。


「…………え?」


 思わず、息を呑んだ。


 修復可能?


 この人の、身体が?


 そんなこと、今まで一度も――。


 しかし、文字はさらに続いた。


 ――警告。


 ――対象の生命構造に、古代禁呪《神喰いの鎖》を検出。


 ――修復には、術者の生命力を消費します。


 ……生命力?


 それに、古代禁呪?


 どういうこと?


 分からない。


 何も、分からない。


 けれど、目の前の青年は今にも息が止まりそうだった。


 私は震える手を、そっと彼の胸元へ伸ばす。


「……大丈夫です」


 自分に言い聞かせるように、そう呟いた。


「私が、直しますから」


 その瞬間。


 銀色だった魔法紋が、眩(まばゆ)い金色へと変わった。


 温かな光が、青年の身体を包み込む。


 青年の金色の瞳が、大きく見開かれた。


「……まさか……」


 掠(かす)れた声が、漏れる。


「……エリ、シア……?」


 私は動きを止めた。


 ……え?


 どうして?


 どうして、初めて会ったはずのこの人が。


 私の名前を、知っているの?


 問いかけようとした、その瞬間。


 金色の光が、私たちを包み込んだ。


 そして私の意識は、そこで途切れた。


 ――これは、役立たずと呼ばれた一人の令嬢が。


 滅びるはずだった土地と、呪われた皇太子と、そして世界そのものを救うことになる物語。


 けれど、このときの私は、まだ知らなかった。


 私が本当に取り戻すことになるのは。


 誰かのために失い続けてきた、私自身の幸せなのだということを。


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