第四話 :『盤上の秘策と、帝の約束』
【一】
鳳凰宮の奥深く、秋風がそよぐ澄んだ庭園を見渡す濡れ縁にて。
帝・紫苑は、黒塗りの重厚な碁盤を挟んで凛玲と対峙していた。
卓の上に置かれたのは、漆黒の碁石と、雲母のように透き通る白碁石。
「劉 凛玲よ。碁は打てるか?」
「はい、主上。……亡き姉の手解きで、嗜む程度には」
凛玲は可憐に伏し目になり、つつましくお辞儀をした。
その可憐な仕草に、紫苑は唇の端を吊り上げて不敵に笑う。
「『嗜む程度』か。くくっ、お前の言う『嗜む』ほど信用ならぬ言葉もないな。……良いか、今から私の相手をせよ。もし私に勝つことができれば……お前の望むものを何でもひとつ、叶えてやる」
一国の頂点に立つ帝からの、破格の約束。
普通の女中であれば、動転して盤に手を伸ばすことすら躊躇する場面だ。
だが——。
「……本当でございますか、主上」
凛玲がゆっくりと顔を上げる。
その瞳から「つつましい女中」の光が消え、フッと細められた冷ややかで鋭い「ジト目」へと変わった。
(……へえ。勝てば『望みを何でも』ね。なら、遠慮なく姉様の死の帳簿を拝見させてもらうわ)
紫苑は凛玲のそのジト目を見て、満足そうに目を細めた。
「構わん、盤上で私を負かしてみせよ。ただし、負けたら相応の罰を受けてもらうぞ」
「……お受けいたします」
パチ、と鋭い音が静寂の座敷に響いた。
凛玲の指先から放たれた一石が、黒盤の真ん中に力強く打ち込まれたのだった。
【二】
序盤から中盤にかけて、紫苑の打つ手は圧倒的だった。
文武両道と名高い帝の碁は、大局を見据えた正攻法にして隙がない。白石が盤上を支配し、凛玲の黒石は次第に包囲され、追いつめられていく。
(ふむ……一見すると可憐な手筋だが、やはり私の相手ではなかったか)
紫苑は黒石の窮地を見下ろし、心の中で少し失望しかけた。
だが、凛玲の顔を見ると——彼女は焦るどころか、底意地の悪いジト目のまま、すました顔で盤面を凝視している。
(……いや、違うな。この娘、追いつめられているのではない。『誘い込まれている』のは私の方か……!?)
「主上、失礼いたします」
凛玲の白く細い指筋が、すっと伸びる。
パチリ——。
凛玲が打ったのは、中央の主戦場から遠く離れた、一見すると何の変哲もない「死に地(無駄な場所)」だった。
「……何だ、その手は? 打ち損じか?」
「いいえ。……打ち損じに見える手ほど、後から効いてくるものにございます」
直後、紫苑が攻撃を仕掛けようとした瞬間、盤上の風景が一変した。
凛玲がこれまで無造作に散らしていた捨て石たちが、まるで密かに巡らされた蜘蛛の巣のように繋がり——紫苑の大石(大集団)の逃げ道を完璧に塞ぎ叩き潰す、恐ろしい連鎖(包囲網)を完成させたのだ。
「な……っ!?」
紫苑は息をのんだ。
盤上の全体図を一瞬で捉え直す。
凛玲は最初から勝とうとして打っていたのではない。
帝である紫苑に「勝てる」と油断させ、懐深くに誘い込んだところで、罠を一気に引き絞ったのだ。
あの第一話で、油の染みを『夜桜の影』に変えた時と同じ——圧倒的な逆転のロジック。
「……『シチョウ』の罠か。序盤に打った無意味に見えた一石が、ここで効いてくるとはな」
【三】
「……参りました、主上」
パチ、と凛玲が最後の石を添え、深々とお辞儀をした。
結果は、わずか『一目』差で凛玲の勝ち。
圧倒的な大差で叩きのめすのではなく、あえて相手に花を持たせつつ、確実に『一目差』で勝ちを拾うという、極めて高度な手加減と計算。
紫苑は呆然とした後、腹の底から「ハハハ!」と大声で笑い出した。
「見事だ! まさかこの私が、後宮の下級女中に碁で一本取られるとはな! ……しかも、ギリギリの一目差とは、実に喰えない女だ」
紫苑は楽しげに目を輝かせると、身を乗り出して凛玲の顔を覗き込んだ。
「約束は約束だ、劉凛玲。お前の勝ちだ。……言ってみよ、お前の望みとは何だ? 金銀財宝か? それとも高い位か?」
凛玲はすっと姿勢を正すと、ジト目を解き、澄み切った瞳で帝をまっすぐに見つめた。
「主上。私が望むのは、財宝でも位でもございません」
「ほう?」
「半年前、御針司にて不審な死を遂げた女中——『劉 鈴華』に関する、当時のすべての記録と検分帳の閲覧。それを私にお与えいただきたいのです」
凛玲の口から出た「死んだ女中」の名に、紫苑の瞳が一瞬で冷たく冴え渡った。
(……なるほど。この娘が奥宮に潜り込んだ真の目的は、それか)
紫苑は静かに腕を組むと、ニヤリと妖しい笑みを浮かべた。
「……面白い。よいだろう、その望み、叶えてやる。ただし——」
紫苑は凛玲の顎をすっと指で持ち上げ、至近距離で見つめ返した。
「お前がその復讐の果てに何を引きずり出すのか……一番特等席で見せてもらうぞ、凛玲」
「……お心遣い、恐悦至極にございます」
凛玲はすました顔で微笑み返したが、その瞳の奥には、いよいよ姉の仇へと手を伸ばす強い決意が冷たく燃え上がっていた。
(第四話・完)




