最終章①
「幸せな人生だったんだな」
駅のホームに立ちながら、僕はぽつりと呟いた。
色々な人から教えてもらった情報を整理して笹内景の人生について考えてみた時、自然と出てきたのはそんな感想だった。
笹内だけではない。
澄風さんと比べてもそうだ。僕の人生は恵まれている。
恵まれているという自覚がないこと自体が、恵まれていたのだ。
もちろん、まだ小さかった頃にお父さんを亡くしたことは不幸だと思う。
でも僕は、今の日常を不幸なものだと感じたことはない。
もちろん僕だって、それがお母さんのおかげだということくらいは認識していた。
遅刻しそうな時に走ったりするの、一応感謝の意識を持っているからだ。
だけど、親が一人で子供を育てるという行為の重みを僕は十分に認識できていただろうか。
小さい頃から、やりたいことは大抵させてもらえた。
遠くの公園で遊びたいと言えば連れて行ってもらえたし、ショッピングモールに行って職業体験もさせてもらえた。
周りの友達が持っているおもちゃやゲームを僕だけ買ってもらえなかったという記憶もない。
今だってこうして進学校に通わせてもらっている。
学費は世間の平均以上にかかっているはずだ。
それらは全て、お母さんの努力の上に成り立っている。
その努力の重みについても、僕はろくに知らない。
一人で子供を育てるのがどれだけ大変なのか。
働いてそのためのお金を稼ぐのがどれだけ大変なことなのか。
小学生の時の職業体験は、どれも楽しいものばかりだった。
澄風さんが言っていたように、出かける先で目にする仕事はどれもキラキラして見えた。
でも本当はそうじゃない。
子供だった僕にニコニコしながら接してくれていた大人達もきっと実際は大変な思いをしていたはずなのに、それを子供達に気付かせないように笑ってくれていたのだ。
それを一番たくさん、一番身近で僕にしてくれていたのがお母さんだった。
そして僕が自分の人生を幸せだと思った理由は、もう一つある。
そちらはお母さんではなくお父さんのことだ。
小学生の頃は、周りの友達が父親に遊んでもらったという話を聞く度に「僕もお父さんが生きていれば一緒に遊んだ思い出がたくさんできたのに」と羨ましくなることがよくあった。
しかし逆に言えば「お父さんが生きていても一緒に遊んでくれなかったかもしれない」と考えたことは一度もない。
つまり僕は、お父さんからの愛情を疑ったことがなかった。
普通はみんなそうだと思う。
「自分は親から愛されているんだろうか」なんて意識しながら生活している人は少ないだろう。
何か、特別なきっかけでもない限りは。
「お父さんが生きていればたくさん一緒に遊んでもらえたのに」と僕が思っていられたのも、親というのは子供を愛してくれるものだと無条件に信じていたからだ。
でも澄風さんは、もう二度と母親との思い出を作れない。
新しく作れないというだけではない。
小さい頃から中学を卒業するまでの母親との記憶も、もはや綺麗な思い出として振り返ることはできないのだ。
僕にはそれが許されている。
そうだ。僕はお父さんを失ったけれど、お父さんからの愛情まで失ったわけじゃない。
たとえ相手が手の届かないような遠い所へ行ってしまっても、気持ちが繋がっていれば残された方もまた前を向ける。
大事なのは物理的な距離ではなく心理的な距離だ。
そんな当たり前のことすら、僕は最近まで知らずに生きてきた。
笹内はどうだったのだろう。
笹内は今でも、お母さんが自分を愛してくれていると感じられているのだろうか。
笹内がお母さんを亡くした事情を、僕はまだ詳しく知らない。
断片的に知っているだけだ。
しかも、本来なら知ってはいけなかったはずのものだ。
そもそも笹内は、お祖母さんとお祖父さんにすら事情を話していない。
つまり笹内は、母親の死について家族にも話せない重大な秘密を一人で抱えているということになる。
ずっと独りで、それに耐えてきた。
そのことを思うと、これまでの笹内との関係を振り返らずにはいられなかった。
僕はあいつとどう接してやればよかったのか。
どうすればあいつから信頼されて、事情を打ち明けてもいいと思ってもらえるような友達になれたのか。
いや、仮に笹内が全てを打ち明けてくれていたとしても、僕はきっと受け止めることができずに逃げていただろう。
だから僕には、あいつに文句を言う資格はない。
父親を亡くして、母親の人一倍の努力のお陰で何不自由なく生きてこれたのに、今日まで親のありがたさをまるで認識してこなかったのだ。
そんな僕が、母親を自殺で亡くした人間に何かをしてあげられるだろうか。
澄風さんが僕にしてくれたように、自分なりに人生について考えた答えを伝えて何かの希望を与えることができるだろうか。
…………無理だ。
澄風さんが自分の過去から何を学んできたのかをあれだけ冷静に、理路整然と話せるのは、問題から逃げずに向き合ってきたからだ。
僕はずっと逃げてきた。
何か嫌なことがあったら、すぐに他の楽しいことを考えて忘れてしまう。
問題と向き合ってこなかった人間に、答えを出せるはずがない。
澄風さんは自分の方が二つ年上だからと慰めてくれたけど、歳だけでは説明できない。
僕が澄風さんに出会わないままもう二年経って十八歳になっていたとしても、今の澄風さんと同じ境地に辿り着くことは不可能だっただろうし、そもそも笹内とは同い年だ。
僕は、二人よりもずっと下にいる。
どうすれば僕は二人に追いつけるのだろうか。
「はい、これ勇気くんの分」
僕が自分の頭の中に引きこもっていると、唐突に澄風さんの声がした。
それと同時にキラキラした物が視界に入る。
「勇気くんも喉乾いてるでしょ?」
澄風さんが手に持っていたのは、水の入ったペットボトルだった。
電車から降りた後、澄風さんは喉が渇いたと言って飲み物を買いに行っていた。
自動販売機はすぐ近くにあったが、澄風さんはそのままぐるりとホームを一周してきたらしい。
「ありがとうございます」
僕はペットボトルを受け取り、澄風さんと並んでベンチに座った。
「いくらでしたか?」
「いいよ。百円くらいだったし」
「じゃあ、僕も今度何か奢りますよ」
「ふふ、そうだね。じゃあそうしてもらおうかな」
なんの約束もしていないのに、僕達はごく自然にまた一緒に出かける前提で会話していた。
澄風さんは嬉しそうに目を細めながら、駅の外に広がる風景を眺める。
「電車の中でも言ったけど、やっぱり綺麗な街だね。近くに観光地もあるみたいだし」
「はい。海も山もあって……なんだか、見ていて落ち着く場所って感じがします」
僕は澄風さんの感想に同意しながら蓋を開け、ペットボトルに口を付けた。
冷たい水が身体に染み込んでくる。
「でもそれにしては、私達の他にこの駅で降りた人いなかったね」
「平日の昼間ですし、みんな学校とか仕事に行ってるんじゃないですか」
「あ……そっか。私この間まで平日も休んでるのが普通だったから気付かなかったよ」
残り半分ほどになったペットボトルを口から離し、澄風さんが冗談交じりに笑う。
それを見て僕も頬が緩んだ。
本当はあまり笑ってはいけない類の冗談なのだろうけど、もうそういう遠慮は僕と澄風さんの間にはなくなっていた。
「……それじゃあ、そろそろ行く?」
「……そうですね」
まだ迷いの残っている僕の背中を押すためか、澄風さんはあえて会話を切り上げて立ち上がった。
僕もぐっと足に力を込めて立ち上がる。
こうして僕達は、ホームからの景色に別れを告げて駅を出た。
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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