第9章③
澄風さんは右手を開いて僕に見せる。
「さっき勇気くんの教室に行く前に水で洗ったんだけど、まだ少しヒリヒリする」
よほどの強さで叩いたのだろう。
澄風さんの手のひらは真っ赤に染まっていた。
自分の手のひらを見つめながら、澄風さんは僕に尋ねる。
「……勇気くんはどう? これを見て、私が危険な人間だって思う?」
いつか笹内がこの場所で見せたのと同じ、不安の混じった表情だった。
「……全然、思わないです」
僕は首を横に振る。
澄風さんを危ない人だと思ったことなんて、一度もない。
「心の病気になった人達の中には危ない人もいるってことは、私も知ってるよ。それこそ、あのストーカーなんかより全然詳しいと思う…………でも、だからって全員が危ない人じゃないんだよ。景くんだって違うでしょ? 逆に病気じゃなくても、あのストーカーみたいに人を傷付ける人はいるし……」
迸る感情を抑えきれないように訴える澄風さんの声には、悲しみと共に悔しさが滲んでいた。
きっと澄風さんの言葉には、僕が感じているより何倍も重い意味が込められているはずだ。
自分も精神科に通っていた澄風さんだからこそ、同じ立場の笹内が差別されたことへの憤りも人一倍強いのだろう。
その心中を慮って、僕は胸を締め付けられる。
あのストーカーが笹内の過去について嗅ぎ回っていることを、僕は睦から聞いて知っていた。
僕がそれを笹内に伝えていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「……私、今から景くんのお見舞いに行ってくる」
やがて顔を上げた澄風さんは、強い決意を感じさせる声で宣言した。
「……今から、ですか?」
「さっき景くんに電話をかけたんだけど繋がらなかったの。休んでる理由を知った以上、放課後までじっとしてなんていられないよ。景くんがあのストーカーに事情を盗み聞きされたのも、元はと言えば私をお母さんから守ろうとしてくれたからなんだし」
笹内の力になりたいと意気込みを語る澄風さんを見て、僕はさっきの答えが間違っていなかったことを確信した。
やはり澄風さんは危険な人間なんかじゃない。
自分と同じ病気で苦しんでいる友達のために行動できる人だ。
僕と違って、笹内の力になってあげられる人だ。
「だから、勇気くんにも一緒に来てほしいの」
まさに今考えていたことと真逆の頼みをされ、僕は言葉に詰まる。
「…………ごめんなさい。僕は行けません」
僕が笹内にストーカーがまだ諦めていないことを警告できなかったのは、笹内の事情を本人の口からは何一つ聞かされてなかったからだ。
「僕が行っても、笹内は喜ばないと思います…………笹内は、僕のことを友達だと思ってないでしょうから」
僕が断った理由を述べると、澄風さんはハッとした表情になった。
「……もしかして、昨日私が言ったことが原因?」
「僕は今まで、笹内本人から何も事情を打ち明けられてなかったんです。だから……」
「違う、違うよ勇気くん。あれはむしろ、私が友達って言葉の意味を難しく考えすぎてたっていうか……」
澄風さんが珍しく狼狽した口調で僕に言葉を被せる。
「でも、笹内が澄風さんと同じ意見だとは限らないじゃないですか。相手の気持ちを無視して行動したって、迷惑になるだけですし」
「それは……」
僕の脳裏に浮かんでいたのは、澄風さんの母親やあのストーカーのことだ。
その意図が伝わったのか、澄風さんは反論を途中で飲み込んだ。
「笹内だけじゃなくて、僕は他の誰からも人生に関わるような相談をされたことないんです。僕が自分に友達がたくさんいると勘違いしてたのは、友達って言葉の意味を単純に考えすぎてただけで…………みんなは僕のことを友達だとは思ってなくて、友達だと思ってたのは僕の方だけだったんですよ」
笹内のことだけ話せばいいのに、何故か僕は他の人間関係についての鬱憤まで澄風さんにぶつけていた。
「…………」
しばらく待っても澄風さんからの返答はなかった。
八つ当たりに近い僕の感情の吐露に困惑しているのか、あるいは呆れて愛想を尽かしたのか。
そう思った僕が恐る恐る視線を上げると、澄風さんは僕の顔すら見ていなかった。
その視線は、空き教室の扉に向いていた。
虚を突かれて目を丸くする僕に、澄風さんは人差し指を唇に当てて「静かに」と目配せをした。
そして足音を立てずに素早く扉に駆け寄ったかと思うと、それをサッと開け放った。
「「「あっ……」」」
扉の向こうに立っていた人物と僕は、同じ反応をして驚いた。
正確に言えば、扉の向こうにいた人物は二人。
江口と駒寺だった。
「よ……よう佐倉」
江口は誤魔化すようにそう挨拶したが、どう見ても取り繕える状況ではなかった。
「……何してるの?」
「いや、その……あんな騒ぎがあった後に友達が突然呼び出されたら、やっぱり気になるじゃんか。駒寺もそうだろ?」
「あ、ああ……さっきは体調も悪そうだったしな。でも佐倉、先に様子を見に行こうって言い出したのは江口だからな」
「あっ、ずりーぞ。駒寺もすぐに賛成したじゃねーか」
先ほどまでの張り詰めた緊張感とはうってかわった緩い空気に、僕は半ば呆然としながら二人のやり取りを眺めていた。
「いや、とにかく。ごめんな佐倉。悪気はなかったんだよ」
「翠山さんも、どうも失礼しました」
二人は僕と澄風さんに頭を下げると、そそくさと退散していった。
それを見送った後、澄風さんはゆっくりと扉を閉めてこちらを振り返った。
「……ね? みんな勇気くんのこと、ちゃんと友達だと思ってるよ。もちろん、私もね」
「…………そうみたい、ですね」
あれだけ悩んでいた問題があまりにもあっけなく解決されて、まだ実感が湧かない。
けれどとにかく、僕が一晩中ベッドでうなされ続けた悩みはたった今解決したらしかった。
……なんだか、ずっとすぐ近くにいてくれた答えに気付かずに一人で迷っていたような感じがする。
「……確かに勇気くんの言う通り、自分の勝手な独りよがりで行動しちゃう人はいるよ。もしかしたら、これから私が景くんに会いに行くのだってそうなのかもしれないし。結局、人の気持ちなんて簡単には分からないよね」
澄風さんは僕の方へ歩いてきながら、さっき途中で飲み込んだ僕への反論を再開する。
「でも、だからこそ確かめに行こうよ。もしも景くんが私達には事情を話したくないって言ったら、その時は私も大人しく帰るつもり。でももしも景くんが話してもいいって言ってくれたら、勇気くんも行ってよかったって思うでしょ?」
僕の前まで歩いてきた澄風さんは真っ直ぐな眼差しで訴えて、最後にこう付け加えた。
「それに、こんなこと勇気くんにしか頼めないんだ」
その一言が、今は無性に嬉しかった。少なくともここに一人、僕を信頼して必要としてくれる人がいる。
昨夜から引きずっていた心の陰が、どんどん晴れていくのを感じた。
確かに笹内が僕のことをどう思っているのかは未だに分からない。
会いに行けば問題が解決するという保証もない。
だけど、行かなければ解決しないのは間違いない。
「分かりました。僕も一緒に行きます」
「……ありがとう」
「……こちらこそ、ありがとうございます」
僕もお礼を言って、今日始めての笑顔を浮かべる。
しばらく笑ってなかった気がするから、上手く笑えているか不安だけど。
「それじゃあ、私は職員室に行って早退の申請してくるよ」
「はい、でも急いだ方がいいですね。もうすぐ授業が始まりますし」
「仮病を使うことになるけど、仕方ないよね。先生、信じてくれるかな」
「澄風さんは多分大丈夫ですよ。僕は信じてもらえるか怪しいから、他の方法でこっそり出ますけど」
「そうだね。勇気くんはもう調子が悪そうには見えないし」
僕は普段の授業態度など先生からの評価について言ったつもりだったのだが、澄風さんは顔色の話だと解釈したらしい。
まあ今はどっちでも同じことか。
「お互いに学校を出たら、校門の辺りで合流しよう」
「はい、じゃあまた後で」
どちらからともなく握手を交わすと、僕と澄風さんは廊下へと駆け出した。
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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