第9章②
結局眠りに就いたのは五時を過ぎてからで、僕は目覚ましによって二時間足らずの睡眠から叩き起こされた。
そして目が覚めても、まぶたと身体は重いままだった。
普段よりものろのろと支度をしてから家を出ると、蒸し暑い初夏の空気が僕を包んだ。
今朝寝る前に見た朝日が予告していたように、今日の天気は雲一つない快晴だった。
頭上の太陽は、僕の気持ちなど知ったことではないと言わんばかりに輝いている。
普段よりも何本か遅い電車に乗って、僕は学校の最寄り駅に着いた。
時刻を確認すると、始業のチャイムまではあと七分だった。
これなら走れば間に合う。
そう分かってはいたけれど、今日の僕はどうしても走る気になれなかった。
昨日の帰り道と同じく、駅から教室まで歩いた間のこともよく覚えていない。
周りの情報が僕の耳に入ったのは二回だけだ。
一度目は、赤信号に気付かずに横断歩道を渡ろうとしてしまった時。
すぐ目の前を車が横切り、僕は自分の不注意さに心臓が縮む思いがした。
そして二度目は、学校に着いて靴箱で上履きに履き替えていた時。
校舎のどこかから、パァンという大きく鋭い音が聞こえてきた。
何の音だろうと少し不思議に思ったが、すぐにどうでもよくなって階段を昇った。
扉の前で一瞬立ち止まってから教室に入ると、笹内の姿はどこにもなかった。
机に鞄も提げられていない。
正直に言って、ホッとした。どんな顔であいつと会えばいいのか分からなかった。
僕は自分の席に座り、ぼんやりと教室の中を見回す。
そういえば、今日は笹内以外にもやけに空席が多い。
駒寺も教室にいない。
もっとも笹内以外の席には鞄が提げられているので、みんな休んでいるわけではなくどこかへ行っているだけらしい。
ちょうどいい。
今は誰とも話したくない気分だ。
僕は授業中に居眠りする時のように机に突っ伏して、そのまま時間が経つのを待った。
「お、佐倉! 来てたのか!」
しかしうるさいくらい元気のいい声で、僕はすぐ現実に引き戻された。
顔を上げると、前の席に江口が座っていた。
「休みじゃなくて遅刻しただけだったんだな」
その隣に立っていた駒寺も僕に声をかける。
いつの間にか他のクラスメイト達も戻ってきており、教室はガヤガヤと騒がしくなっていた。
「……うん」
僕は短く答えてまた腕に顔を埋めようとしたが
「実は、お前が遅刻してる間に事件があってさ。それも翠山に関係する話で」
「え……」
江口の一言に動きを止める。
「ほら、前に翠山に告白した男子がいたって話しただろ? あいつがうちのクラスに来て、翠山を呼び出したんだよ。『今から一緒に中庭に来てくれ』って。当然クラス中の注目になってさ」
「しかも江口がわざわざ伝えにきたから、うちのクラスからも結構野次馬に行くやつがいてな。まあ俺もその一人だったんだが」
「……それで、どうなったの」
江口と駒寺は冗談交じりの口調だったが、僕は気が気でなく先を促した。
「他のクラスからも野次馬が結構来て、みんなして廊下に集まって二人が話すのを見てたんだよ。まあ会話の内容は全然聞き取れなかったんだけどな。で、しばらくしたら翠山の方が怒ったような感じで帰ろうとしたんだけど、相手のやつは無理やり翠山の腕を掴んで引き止めようとしてさ」
江口が語る事件の顛末に、僕は息を呑んで耳を傾ける。
「そうしたら翠山が、振り返りながら相手の顔をビンタしたんだよ。こう、思いっきり」
江口はビンタを再現するようにジェスチャーをしながら話した。
「あれは強烈だったな。見てたやつは全員忘れられないんじゃないか」
駒寺の言う通り、確かにうちのクラスもみんなその話題で持ちきりのようだった。
そしてその多くは、どちらかと言うと興奮した表情をしている。
「……みんなやけに楽しそうだね」
「まあ、どう見ても相手のやつが強引だったからな。スカッとしたやつも多いんじゃねーの?」
「俺達も助けに行くべきか迷ったくらいだしな。結局翠山さんが文字通り自力で解決したから必要なかったんだが」
「…………そうだね」
やっぱり澄風さんは強い人だ。
どんな困難に直面しても、自分の力で前へ進むことができる。
誰かに相談する必要があるとしても、それは同じように現実と向き合っている笹内のような相手だ。僕は必要ない。
「でもさ、佐倉にとってはいいニュースだったよな」
「ああ、これで安心したんじゃないか?」
僕の憂鬱をよそに、江口と駒寺はこちらを見てニヤニヤしていた。
「……安心って何が?」
言われている意味が分からずに僕は聞き返す。
「何がって。ほら、この間お前が笹内と……」
そこで突然、江口の言葉が途切れた。
どうしたのかと顔を上げると、江口はポカンとした表情で僕の後ろを見つめていた。
その隣の駒寺も同じように固まっている。
いや、二人だけじゃない。
いつの間にかクラス中が静まり返って、全員が一様に僕の後ろの席を見つめていた。
高鳴る鼓動を抑えつつ、僕はゆっくりと振り返った。
「おはよう。勇気くん」
学年中の話題の中心になっている澄風さんが、笹内の席の側に立っていた。
「……っ……おはようございます」
僕は呆気にとられて、つい少しどもってしまう。
「よかった。学校来てくれて」
澄風さんは僕の顔を見て安心したように微笑んだ後、笹内の席に視線を移す。
「……やっぱり、景くんは来てないんだね」
意味深に呟いて、澄風さんは左手で笹内の机に触れる。
そして再びこちらに視線を戻すと、今度は右手を差し伸べて僕の手を握った。
「勇気くん、今から一緒に来てもらえるかな? 大切な話があるの」
「……はい」
澄風さんの真剣な雰囲気に、僕はただうなずくことしかできなかった。
僕が席を立つと、澄風さんは僕の手を握ったまま僕を教室の外へ連れ出した。
廊下を歩く間も大勢の同級生からの視線を感じたが、澄風さんは構わずに僕を引っ張っていく。
澄風さんが僕を連れて入ったのは、以前澄風さんから手紙をもらった日に笹内と話したのと同じ、廊下の端にある空き教室だった。
澄風さんは扉を閉めると、僕に向き合い用件を切り出した。
「さっきね、あのストーカーから中庭に呼び出されたの。これはもう知ってたかな?」
「……はい」
「そっか……実はあの人、昨日の放課後景くんと勇気くんの後を付けてたらしいんだ」
こう告げられても、僕はあまり驚けなかった。
あのストーカーがまだ諦めていないことは、睦の話から予感していたからだ。
「お母さんが私に会おうとするのを景くんが止めようと説得してた時も、あの人はずっと公園の茂みに隠れて話を聞いてたんだって。それで景くんが精神科に通ってたって話と…………あと、これは本当か分からないけど、景くんのお母さんが自殺してるって話を聞いたらしいの」
情報を教えてきた相手が相手だけに、澄風さんは信じていいのかどうか迷っているらしかった。
「…………多分、それは本当だと思います。僕も昨日、笹内がそう言ってるのを聞いたので」
「…………そうなんだ。じゃあやっぱり、景くんが今日休んでるのはそれが原因か」
「……どういうことですか?」
「これもあのストーカーから聞いたんだけど、景くんが中学生の時に学校で居眠りをして、寝言でお母さんに謝ったことがあるらしいの。あの人は、景くんのお母さんが自殺したって話を聞いてそれと結びつけたみたい。それで昨日、公園から駅へ帰る途中の景くんを待ち伏せて…………『母親が自殺したのはお前のせいなんじゃないのか』って問い詰めたんだって」
そこまで言って、澄風さんは口を閉じた。
僕も言葉を失う。
怒りや悲しさよりも、どうしてそんなことを平気で言える人間がいるんだろうという気持ちの悪さが胸の中に込み上げてきた。
「私は怒って帰ろうとしたんだけど、ストーカーが私の腕を掴んで『あいつは精神病院に通ってた危険な人間だからそれくらいやりかねない』なんて言ってきたから……私、思わずあの人の顔をひっぱたいちゃった」
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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