第8章④
「私のお母さんが過保護だったっていうのは、前にも少しだけ話したよね」
「はい……でも、それは澄風さんが小学生の頃の話だと思ってました」
「うん、お母さんの過保護が中学生になってからも続いたのには理由があってね。私が十歳の時に、お父さんが単身赴任に行っちゃったの。だから五年くらい、私はお母さんと二人で暮らしてたんだ。多分そのことが、お母さんをますます過保護にさせちゃったんだと思う。お父さんがいない分、自分が親として二人分頑張らないといけないって」
「……なるほど」
「私が中学生になってもお母さんは自分が知らない子とは遊ぶのを許してくれなくて、結局中学ではほとんど同級生と仲良くなれなかったの。ただ、私自身それをあまり辛いとは思わなかったんだ。一人で過ごすのも好きだったから。その頃は、お母さんの言いつけに従うことに何の疑問も持ってなかった」
澄風さんの中学時代の様子は、なんとなく想像できた。
多分、今の笹内と似たような感じだったんだろう。
「ちょうど私が高校に上がる頃にお父さんは単身赴任から帰ってきたんだけど、それがきっかけで少し問題が起きて……お父さんが、高校では部活に入って友達を作れって言い出したの。学生のうちにそういう経験をしておかないと、将来困るからって。でもお母さんはずっと友達作りよりも勉強の方を優先する方針だったから、いきなり友達を作れって言われても私どうすればいいのか分からなくて。それでお母さんがいくつか部活を選んで私を入部させたんだけど、全然上手く行かなかったんだ」
「……そうですよね」
澄風さんが父親から言われたことは、同じように部活に入っていない僕にも刺さる部分があった。
でも僕はそれを問題だと思ったことはないし、ましてや部活動が将来に繋がるなんて考えたこともなかった。
「そんな私を見て、お母さんはだんだん焦り始めたみたい。日頃からため息の回数が増えたりイライラしがちになっていって、私を怒る回数が増えていったの。秋ぐらいになると、何時間も続けて怒鳴られる日もあった。『なんで周りの子が普通にできることがあなたはできないの』とか『私が育て方を間違えたのかしら』とか言われたりして。私それまで親に怒鳴られたこともほとんどなかったから、すごいショックで。勇気くんも見た通りお母さんは押しの強い性格で、反対にお父さんはどちらかと言うと気の弱い人だからあまり止めてくれなかったんだけど、さすがにお父さんもまずいと思ってお母さんを病院に連れて行ったら、うつ病だと診断されたんだって」
話が深刻な方向へ進んでいくにつれ、僕の動機は次第に大きくなっていった。
窓を打ち付ける雨の音も、気付けば先ほどより大きくなっている。
「二年生に上がる頃には私もだいぶ体調が悪くなってたんだけど、誰にも事情を相談できなかったの。さっきも言ったように学校に友達はいなかったし、お父さんとは単身赴任でずっと離れ離れだったから接し方がよく分からなくて……そうやって行き詰まってた状況で、事件が起きたんだ」
「……事件?」
澄風さんは自分の首にそっと手を当てて、当時を思い出すように続きを話す。
「夜、自分の部屋で眠ってた私は息が苦しくて目が覚めた。最初は頭もボーッとしてたし暗くてよく見えなかったんだけど、よく見たらお母さんが私の上に跨って両手で私の首を絞めてたの。それで驚いた私が逃げようとしたら、二人揃って床へ落ちて…………物音を聞いて駆けつけてきたお父さんがお母さんを私から引き剥がして、それからしばらく部屋の外で口論してたみたい。私はその間ずっとここで呆然としてて、今起きてることが夢なのか現実なのか分からない感じだった。それからお父さんが、車でお母さんを実家に預けに行ったの。だから今は、お父さんと二人で暮らしてるんだ」
澄風さんの話の結末に、僕はどんな反応をすればいいのか分からなかった。
深刻な話なのだろうと覚悟はしていたが、澄風さんの過去は僕の予想を超えるものだった。
「……ここまでが、今日二人に打ち明けるつもりだった話。もしも景くんが私の話を聞いて自分の事情も打ち明けていいって気持ちになってくれてたら、そのまま病院の話もするつもりだった」
「…………昨日の帰り道で話してた病院の話ですか?」
「うん。事件の後、私もうつ病だと診断されて通院することになったの。バスで三十分くらいかかる、遠くの大きな病院にね。一年くらい通院を続けてたその病院の待合室で、景くんと会ったんだ。それが、高校二年生の夏休みの時」
「……え?」
澄風さんの言葉を頭の中で反芻する。
夏休み?
高校二年生の夏休み?
話の中の時系列が、現在を追い越していた。
「つまりね、私留年してるの」
僕の表情から困惑を読み取ったのか、澄風さんが率直に答えを明かした。
「二年生の二学期から一年半休学して、今年の春からもう一度二年生をやり直してるんだ。だから本当は勇気くんと景くんより二歳年上なの」
澄風さんのカミングアウトに僕は衝撃を受ける。
大人っぽい雰囲気だとは思っていたけど、まさか本当に年上だったとは。
「私が『エデンの東』と出会ったのも、景くんが病院で読んでるのをこっそり覗いた時なの。この病院にいるってことは私と同じような問題を抱えてたのかなって思って。私もその本を買って読んでみて、やっぱりあの男の子も家族のことで悩んでたんだって確信した。読み進めていくうちにどんどん主人公に共感するようになって、何度も読み直してたんだ。その頃はまだうつ病の症状が重くて、一日のほとんどはベッドの上で寝たきりだったから」
知らなかった。
あの本が澄風さんにとってそれほど大事な意味を持っていたなんて。
「そうやって読み返してるうちに、だんだん景くんのことが気になり始めたの。あの男の子は、どんな気持ちでこの本を読んでたんだろうって。もう一度会って感想を話し合ってみたかったんだけど、その頃にはもう景くんは病院に来なくなってて。だから高校に復学して同じ学年に景くんの姿を見つけた時は、本当にびっくりしたよ」
「…………そう、だったんですか」
「うん。でも一番驚いたのは勇気くんのことだった」
「……僕ですか?」
話の核心とも言える部分で突然自分の名前が出てきたことに僕は戸惑う。
「復学した後も、私は友達とか全然作れなかったの。元々できてなかったし、病気のせいで余計にハードルが高くなっちゃったから。でも似た境遇のはずの景くんの様子を見てたら、いつもは誰とも話さないのに一人だけ一緒に帰る人がいるのに気付いたんだ。病気から立ち直った後にどうやってそういう相手を作れたのか、私には分からなくて。きっとその人──勇気くんが、景くんにとって家庭や人生についての事情を打ち明けられる相手なんだと思った」
澄風さんは僕の目を真っ直ぐに見つめる。
「私も景くんとそういう関係になりたくて、あの日公園に呼び出して友達になってくださいって伝えたの。できれば、景くんと勇気くんが具体的にどういう経緯で友達になったのかも聞いて参考にしたかったし」
澄風さんの物語の時系列が、ようやく僕の知っている時系列と繋がる。
でも、僕の心は全く追い付けていないままだった。
「さすがに初対面だから詳しい事情までは話せなかったけど、私がうつ病で精神科に通ってたことと、それが理由で留年してることはあの時もう景くんには話してたの。それから景くんや勇気くんと少しずつ仲良くなって、いつか詳しい事情を打ち明けられる関係になれればいいなって思ってたんだ。それで今日、二人を呼んだんだけど……」
澄風さんは、そこでまた少しうつむく。
「……勇気くんもごめんね。まさかこんなことになるとは思わなくて」
「……いや、僕は大丈夫です」
澄風さんの母親の一件には確かに驚かされたものの、それ自体で僕が傷付いたりしたわけではない。
僕がショックを受けたのは笹内の口から聞いた「自殺」という言葉だ。
そしておそらく、笹内も僕にそれを聞かれたせいでショックを受けている。
もはや知らないふりをすることも、聞かなかったふりをすることもできない。
僕は大丈夫だけど、僕達は大丈夫なんだろうか。
「私の話したかったことは、これで全部。まだ雨は止みそうにないし、うちで雨宿りしていく?」
「…………いえ、もう帰ります」
「…………そっか。ありがとう。私の話聞いてくれて」
それ以上他の話をする雰囲気になどなるはずもなく、澄風さんの話が終わると僕はそのまま帰ることになった。
玄関まで僕を見送りにきた澄風さんは、最後に一つ頼みごとをした。
「明日学校で景くんと会ったら、なるべく普段と同じように接してあげてくれないかな。本当は私がそうするべきなんだけど、学校では話しかけないように言われてるから」
「…………分かりました」
口ではそう承諾したものの、正直に言って挨拶すらできる自信がなかった。
公園からここまで歩いてきた時よりもはるかに重たいものを胸の内に抱えて、僕は一人、未だ降り止まぬ雨の中へ歩き出した。
家まで帰る間も、僕は明日どう笹内と話せばいいのか、そればかり考えていた。
この時、まだ僕は笹内が明日も学校へ来ると信じていたのだ。
※8月16日の日曜日に完結の予定です。
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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