第8章③
鞄を二つ抱えながら傘をさすという慣れない体勢で僕は走る。
公園と農園の間の通りまで来ると、公園の入り口に澄風さんの母親と笹内の姿が見えた。
距離が遠いため声までは聞こえないものの、やはり何か言い争っているようだ。
駆け寄る途中で澄風さんの母親が僕に気が付いてこちらを見たが、構わず走り続けた。
やがて笹内の声が僕の耳に届き始める。
最初はおぼろげにしか聞き取れなかったそれは、次第にはっきりとした文章へ変わる。
「……ですから、親子でも相手の気持ちが分かるなんて限らないんですよ。俺もお母さんが自殺するまでは……」
しかしその内容があまりに衝撃的だったために、僕の足は勝手に止まってしまった。
そして僕が立ち止まったのと同時に、笹内も口を止めた。
僕の足音に気付いたのか、それとも澄風さんの母親の視線が自分の背後に向けられていることに気付いたのか。
どちらが理由なのかは分からない。
いずれにしても、僕の存在を感じ取った笹内はこちらを振り返った。
「…………佐倉……」
笹内の口から僕の名前が零れる。
「聞いてたのか?」口には出さなくても、笹内の茫然とした表情からはそんな言葉が読み取れた。
そして笹内の目に映った僕の顔も、きっと同じくらい分かりやすかったはずだ。
もし聞こえていなかったのなら、僕はこんなに驚いた顔をしていないはずだから。
僕と笹内は、お互いに無言の答え合わせをしていた。
笹内が打ち明けた過去に意表を突かれたのか、澄風さんの母親もそれを黙って見つめていた。
結局三人とも自分からは動かずに、相手の出方を伺うことになった。
以前にも体験した、誰から話し始めればいいのか分からないあの気まずい空気。
もっとも、今回のそれは前回とは比べ物にならないほど重苦しかった。
前回、僕は自分の鼓動と呼吸の音がやけに大きく聞こえたと説明した。
あれは正確に言えば、音を含めた周囲の情報がシャットアウトされていたのだ。
だから道の向こうから走ってくる一台の自転車にも、まるで意識が向いていなかった。
「二人とも大丈夫!?」
場の静寂を破ったのは、聞き慣れた声と急ブレーキの音だった。
澄風さんの母親と笹内の間に割り込む形で自転車が止まる。
黒いレインコートを纏った澄風さんは、相当急いできたらしく肩で息をしていた。
澄風さんの質問に対し、僕と笹内は何も答えなかった。
答えが自分でも分からなかった。
僕達は大丈夫なんだろうか。
自転車から降りた澄風さんは、改めて問いかける。
「……何を話してたの?」
「あのね、澄風がストーカーに襲われたって聞いて心配だったから、その二人に話を聞いてたのよ」
澄風さんは僕と笹内の方を向いて尋ねたのだが、答えたのは母親だった。
「そうしたらその笹内って子が、私が澄風の気持ちを無視してるだとか、自分も前に同じ失敗をしたことがあるとか知ったふうな口を聞くから……」
「お母さん」
自分の母親が早口でまくしたてるのを、澄風さんは背を向けたまま静かに遮った。
「……お願いだから、何も言わずにそのまま帰って」
決して大きくはないものの、強い意思の込められた声だった。
「だけど私、あなたのことが心配なのよ」
相変わらず笑顔を貼り付けたまま、澄風さんの母親は同じ台詞を繰り返す。
「…………お母さんには、もう私を心配する権利なんてないでしょ」
そう言いながら、澄風さんは母親の方をゆっくりと振り返った。
「……どうして? これまでずっと、小さい頃から私が澄風のこと守ってきてあげたじゃない」
「…………じゃあ私、これから先も一生お母さんの言うこと聞いて、お母さんに守られながら生きていかなきゃいけないの?」
「……嫌なの?」
「……絶対嫌」
こちらに背を向けていたから、そう答えた時の澄風さんがどんな表情をしていたのかは僕には分からない。
しかし娘からの強い拒絶に澄風さんの母親が狼狽の色を浮かべたのは、僕の位置からでもはっきりと確認できた。
「…………でも、もしまたストーカーに付き纏われたりしたらどうするの? あなた一人じゃ……」
「一人じゃないよ」
絡みついてくる執念を振り切るように、澄風さんは母親から視線を外した。
そして隣に立っている笹内の方へ顔を向ける。
「もう私には、ちゃんと他に相談できる相手ができたから」
そう言って、澄風さんは笹内の手を握った。
澄風さんの母親にとって娘のその行動は信じられないものだったらしく、目と口を大きく開けたまま、今度こそ何も言わなくなった。
「……帰って、お母さん。じゃないと、今度こそ警察を呼ばなきゃいけなくなるよ」
澄風さんは再び強い言葉で促す。
それを聞いた母親は呆然とした表情のまま何歩か後ずさりして、ようやく自分の立場を思い出したように立ち去った。
「……ごめんなさい、景くん」
母親がいなくなった後、澄風さんはまず笹内に謝った。
「…………今日は、もう帰ります」
しかし笹内は澄風さんの言葉には答えず、憔悴した声で短くそう言っただけだった。
「……分かった…………本当にごめん」
澄風さんが悲痛な顔をしながら握っていた手を離すと、笹内はこちらに背を向けたまま僕の名前を口にした。
「……澄風さんの事情を佐倉に話すなら、病院で俺と会ったことも話していいですよ」
「えっ……でも……」
「……もう俺も、その方が気が楽なので」
「…………分かった」
澄風さんと話し終えた笹内は、こちらへ歩いてきて僕の前で立ち止まる。
「…………」
「…………」
僕は無言で笹内の鞄を差し出し、笹内も何も言わずにそれを受け取った。
笹内が僕のすぐ横を通り過ぎていく時も、僕達はほとんど目を合わせられなかった。
笹内の足音が雨に混じって消えた辺りで、澄風さんは僕に声をかける。
「……どうしようか。勇気くんも今日は帰る?」
「…………いや、僕は今日でもいいです」
正直に言うと僕も帰ろうか迷った。
でもこのまま駅へ向かえば、笹内と一緒に歩くことになる。
今の僕はとてもその空気に耐えられそうになかった。
こうして僕は、澄風さんの家へ行くことを選んだ。
澄風さんが自転車を押しながら歩き出し、僕はその後ろを付いていく。
歩いている間はお互いに一言も喋らず、ただ雨音だけが僕達を包んでいた。
澄風さんの家には五分ほどで着いた。
家に入ると澄風さんはまずコートを脱いで洗濯機へ入れた。
下に着ていたのはあの日買った服だった。
次に澄風さんは、僕を自分の二階の部屋へと案内する。
「どこか適当な所に座っててくれるかな。私、濡れた靴下だけ替えてくるから」
そう言い残して澄風さんは再び一階ヘ降りていった。
言われた通り適当な場所に腰を下ろし、僕は部屋の中を見回す。
途中に通ってきたリビングは、片付けられてはいたが生活感があった。
それと比べて、澄風さんの部屋は明らかに殺風景な空間だった。
部屋にあるのはベッド、勉強机、タンス、ゴミ箱といった必要最低限の物だけで、普段の部屋での過ごし方が伺えるものは小説の並んだ本棚くらいだ。
以前本人が言っていたように、小物や飾り物の類もほとんど置かれていない。
唯一、本棚の上に置かれたあの大きなフクロウのぬいぐるみだけが異様な存在感を放っていた。
薄暗い部屋の中でじっとこちらを見つめ続けている。
僕がその視線に落ち着かないものを感じていると、やがて澄風さんが戻ってきた。
「おまたせ……あれ、電気点いてない」
澄風さんが部屋の照明を点ける。
もう一度本棚の上に視線を移すと、フクロウはもう普通のぬいぐるみに見えた。
澄風さんはベッドを背にして僕に向き合う形で床に座る。
「えーと……どこから話せばいいのかな。ごめんね、私も少し混乱してて……」
しばらく悩んだ澄風さんは、床を見つめて小さくため息をついた。
「やっぱり、まずはお母さんのことから話した方がいいよね。あんなことがあったんだし」
僕は無言でうなずく。
僕としても、今一番聞きたいのはそのことだった。
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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