第1章②
一年生の六月。
帰りのホームルームも終わり、僕はバレー部の友達と廊下で話していた。
さすがに正確な日付までは覚えていないけど、曜日なら分かる。
火曜日だ。
しばらくして部活の始まる時間が近づいてきたので、僕は駒寺達と別れて鞄を取りに一人で教室に戻った。
火曜日はバレー部だけでなく、僕の友達はみんな部活がある日だった。
後ろの扉から教室に入ると、クラスメイトは全員既に帰るか部活へ行っており、残っている生徒は一人だけだった。
それ自体は別に珍しくもないのだけど、僕が驚いたのはその一人というのがあの笹内だったことだ。
普段の休み時間と同じように、僕の後ろの席で静かに本を読んでいる。
いつもは僕が友達と話しているうちにいつの間にかいなくなっているので、こんなふうにホームルームが終わってからしばらく経っても教室に残っているのは初めてだった。
驚いて扉の辺りで数秒立ち止まってしまった後、僕は自分が何をしに教室へ来たのか思い出して自分の席へと向かった。
僕が後ろからすぐ横を通り過ぎた時も、笹内は何の反応もせず本から目を離そうとしなかった。
席に着いた僕は机の中から教科書やプリントを引っ張り出し帰り支度を始める。
しかしそのうちに、ふと好奇心が湧いてきた。
あんな熱心に、一体何を読んでいるんだろう?
ちらりと横目で見てみたが、本には茶色いカバーがかけられていてタイトルは分からない。
教科書を鞄に詰めている間もそれとなく後ろを観察していると、やがて笹内が顔を上げた。
目と目が合う。
気付かれないようにしていたつもりだったけど、バレバレだったらしい。
「……何か用か?」
機嫌が悪いのかそうでないのか判断しづらい、抑揚のない声が僕に問いかける。
僕が笹内に話しかけられたのはこれが初めてだった。
というか笹内が同級生に話しかけること自体、おそらく初めてだったんだと思う。
僕はやや緊張しながら答えた。
「えっと……この後何か用事でもあるのかなって」
「特にないが、どうしてだ?」
「いや、たいした理由じゃないんだけど、笹内が放課後も教室に残ってるのって珍しいから」
僕の疑問に、笹内は視線を本に落とす。
「……別に。この小説がもう少しで読み終わるから残って読んでただけだ」
「……あっ」
「なるほど」という言葉と「しまった」という言葉が同時に頭に浮かんだ。
夏休みの読書感想文を除けば、僕は基本的に小説は読まない。
日頃読むのは漫画がほとんどだ。
でも自分が本を読んでいる時、特にそれが物語のラスト近くであれば、誰にも邪魔されずに最後まで読み切りたいと思うのは漫画でも小説でも同じだろう。
僕も自分の部屋で漫画を読んでいる時にお母さんから呼ばれて「今いいところなのに……」と思った経験は何度かある。
そんなことは少し考えれば分かっていたはずで、逆に言えば僕は少しも考えずに行動していたことになる。
僕が軽く罪悪感を覚えている間に笹内はパタンと本を閉じて鞄にしまい席を立つと、そのままスタスタと早足で教室から出ていってしまった。
ここまで読んでくれた人ならもう分かっているかもしれないけど、僕はあまり察しが良い方ではない。
しかしそんな僕でも、後ろの席の相手との初めての会話がこんな終わり方になるのはよくないと直感的に理解できた。
このままでは、明日から席に座っている間もなんとなく気まずくなりそうな気がする。
そんな高校生活は、僕は望んでいなかった。
残りの荷物を急いで鞄に詰め込むと、僕も教室を出る。
既に笹内は廊下の端の方まで進んでおり、僕は走ってその背中を追いかけた。
階段の前辺りで追い付いて「笹内」と呼び止めたが、笹内はこちらを一瞥して「なんだ」と返事をしただけで、足を止めようとも歩調を緩めようともしなかった。
仕方なく僕もやや早足で歩きながら話す。
「あのさ、僕多分、読書の邪魔しちゃったよね?」
「まあな」
「やっぱりそうだよね。ごめん」
「……それを謝るためにわざわざ追いかけて来たのか?」
「……まあ、うん」
自分でもぎこちないと分かるやり取りを交わしつつ、僕は笹内と階段を降りていく。
やがて踊り場に差しかかった時、笹内はようやく立ち止まって体をこちらへ向けた。
僕の目線よりも高い位置にある薄い唇が、静かに開かれる。
「……別にそんなに気にしてないよ」
「本当? 何かいいところで中断させちゃったのかと思って」
「もう何回も読んでる本だから、そういう心配はいらない」
相変わらず感情の読みづらい声だったけど、正面からそう言われたことで僕は少しホッとした。
「そうなんだ。それならよかった」
と無事に謝罪が済んだところで僕はふと気付く。どうしよう、次の話題が何もない。
急いで追いかけて来たせいで、謝った後どうするかまでは頭が回っていなかった。
「……佐倉も今から帰るのか?」
何を話せばいいのか迷っていると、意外にも笹内の方から会話を続けてきた。
肩越しに僕の鞄を見やって尋ねる。
「ああ、うん。僕帰宅部だから」
内心で驚きつつ僕は答えた。
笹内って、ちゃんとクラスメイトの名前とか覚えてたんだ。
変な感想だけどそれが分かっただけでまた少し緊張が和らいだ気がして、今度は僕の方から質問して会話を繋ぐ。
「笹内も電車通学?」
「ああ」
「そっか、じゃあ駅までは一緒だ」
笹内は肯定も否定もしなかったけど、僕が階段を降り始めると並んで歩きだした。
今度はさっきまでと違って、ちゃんと人と一緒に歩く時の歩調だった。
実を言えば、うちの学校の生徒はほとんどが電車通学なのでわざわざ確認するほどのことではない。
でも、そういう取るに足らない話題でもあえて言葉にするのが世間話ってものじゃないだろうか。
例えば「今日の五時間目の授業ってなんだっけ?」とか「最近流行ってるあの曲なんて名前だったっけ?」とか、調べればすぐ分かることでも友達と話すみたいに。
つまり僕が本当に確認したかったのは笹内の通学手段ではなくて、笹内と普通に世間話ができるのかどうかだった。
とりあえず駅までは一緒に帰ってくれるみたいなので、一応成功と言ってもよさそうだ。
「そんなこと聞いてどうするんだ」とか「わざわざ聞かなくても分かるだろ」とか言われたらどうしようかと思った。
一階で靴を履き替えて昇降口を出ると、校庭には様々な運動部の掛け声やボールの弾む音が響いており、音楽室がある校舎の上の方からは吹奏楽部の練習する音も聞こえてきた。
「こういうの、なんか賑やかでいいよね」
人によってはただの雑音としか感じないのかもしれないけど、このまとまりのない環境音もみんながそれぞれ好きなことを楽しんでいる結果生み出されているものなのだと思うと、それを毎日聞くことができるのも青春の特権という感じがして僕は好きだった。
笹内が雑音と感じるタイプなのは顔を見れば分かった。
憮然とした表情の笹内と並んで校門の方へ歩いて行くうちに、掛け声が校庭側だけではなく学校の外からも聞こえてくることに気付いた。
たくさんの足音と共に、声はだんだんと大きくなってくる。
校門を出て右へ曲がると声の主が見えた。思った通り、二十人くらいの運動部の集団だった。
ランニングから帰ってきたところらしい。
やがて近付いてくると、彼らがバスケ部なのだと分かった。部員達の中には僕と同じクラスの一年生も何人かいたからだ。
ただしどの人も名前を知っている程度で、会話はほとんどしたことがなかった。
校門からしばらく進んだ所で、僕達はすれ違う形になる。
通学中などにもたまに発生するシチュエーションだけど、こういう微妙な距離感の相手と偶然出くわした時、僕は挨拶するべきかどうか迷ってしまう。
そして大抵、迷っている間にタイミングを逃す。
この時もそうだった。
何人か目が合ったクラスメイトがいたのは彼らもこちらに気付いていた証拠だし、迷うような素振りもあったからもしかすると向こうも同じ気持ちだったのかもしれない。
それでも結局、彼らは挨拶することなく僕から目を逸らすと、そのまま学校の方へと走り去って行った。
バスケ部の掛け声が遠ざかり小さくなってきた頃、笹内が口を開いた。
「バレー部じゃなかったんだな」
「うん。あれはバスケ部だね」
「そうじゃなくて、佐倉がって意味だ」
「え?」
「いつもバレー部のやつらと話してるから、お前もバレー部なのかと思ってた」
この発言はかなり意外だった。
僕がバレー部だと思われていたことが、ではない。
笹内が僕や駒寺達の会話を気に留めていたことが、である。
ずっと本とにらめっこしていても、周りの声はちゃんと耳に入っているらしい。
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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