第6章⑦
唯一の逃げ道である階段を駆け下りるストーカーは、その先に立っていた笹内とぶつかりそうになる
「笹内くん!」
翠山さんが、これまで聞いたことのない焦りを感じさせる声色で叫んだ。
「どけっ!」
先ほどまでとはうってかわって乱暴な口調になったストーカーが、笹内を押しのけようと腕を突き出す。
笹内はその腕を両手で掴むと、くるりと身体の軸を捻った。
一瞬の静寂の後、ビタン! と大きな音が辺りに響き渡った。
床に倒れるストーカーと、それを見下ろす笹内。
数秒の間に全ては終わっていた。
「笹内くん大丈夫!?」
翠山さんが笹内の元へ駆け寄り怪我がないか確認する。
遅れて僕も近づくと、笹内の手のひらからは微かに血が出ていた。
それを見た翠山さんは表情を曇らせる。
「……ごめん、怪我させちゃった」
「こいつの爪が当たって少し切れただけです」
近くに居合わせた人達は、ザワザワとどよめきながら僕達を見つめている。
騒ぎに気が付いて駆けつけてきたホテルのフロントマンに翠山さんが簡単に事情を説明し、僕達は警察へ行くことになった。
警察に着いてから、翠山さんはもう一度、今度は詳しく事情を説明した。
その間、笹内は傷口の消毒をしてもらっていた。
お巡りさんが別室でストーカーから聞き出した話によると、動機は先週の日曜日以来翠山さんと笹内が付き合っているという噂が学校で広まったことらしい。
ただ、ストーカーは今日僕達の後を付けていたことは認めたものの、翠山さんが学校からの帰り道でたまに感じていた視線については全く身に覚えがないと言って譲らなかった。
その後、僕達はお巡りさんにストーカー関係の法律について教えてもらった。
まず誰かに付きまとわれたりしても、一度だけでは法的にストーカーとは認定できないらしい。
しかしそういった行為を繰り返さないように警察から警告を出すことは可能で、今後も嫌がらせが続いた場合には反省していないと見なして罪に問えるようになるとのことだった。
翠山さんは警告を出すことを選び、その為にいくつかの書類に記入していた。
こうした一連の流れの中でも僕は時々相槌を打ったり同意したりするだけで、詳しい経緯の説明は翠山さんに任せきりだった。
まだ、平常心が取り戻せなかった。
怖いというのとは少し違う。
ただ今まで、こんなふうに明確に悪意を持った人間と対峙した経験が僕にはなかった。
突然人から悪意をぶつけられた時には頭も身体も普段のようには動かなくなるのだと、僕はこの時初めて知った。
ストーカーに狙われていた本人である翠山さんの方が、僕よりもずっとしっかりしていて勇気があった。
事態の成り行きをただ見ていることしかできなかった自分が情けなかった。
警察を出る頃、時刻は既に八時を回っていた。
「二人とも手伝ってくれてありがとう……それから、ごめんね笹内くん。私のせいで怪我させちゃって」
絆創膏が貼られた笹内の手を見ながら、翠山さんは再度謝罪する。
「ただのかすり傷ですし、別に翠山さんのせいだとは思ってないです」
「逃げ道を塞いだうえで言い訳できないように証拠を突きつければ、あの人も大人しく諦めると思ったんだけど……考えが甘かったみたい」
笹内の怪我に対する責任を引きずっているらしく、翠山さんの声には元気がなかった。
「……それよりも、服買わなくていいんですか。ショッピングモール、九時で閉まりますよ」
この笹内の一言で、僕は今日ここへ来た本来の目的を思い出した。
そうだ、肝心の翠山さんの買い物がまだ済んでいない。
不器用ながらも笹内が気遣う言葉をかけてくれたことが嬉しかったのか、翠山さんは一度目を丸くしてから、安心したように微笑んだ。
「……うん、そうだね。じゃあ二人とも、あと少しだけ私に付き合ってくれる?」
ショッピングモールへ戻ると既に人影はまばらになっており、閉館時間が近いのを感じさせた。
翠山さんは迷う素振りもなく、建物の中を真っ直ぐに進んでいく。
「どのお店で買うのかもう決まってるんですか?」
エスカレーターに乗って立ち止まったタイミングで、僕は翠山さんに尋ねた。
「実は、買いたい服は晩ごはんの前に決まってたんだ」
「その時に買わなかったのも、やっぱりストーカーのせいですか?」
「うん。誰かに付けられてるかも、って思いながら試着するのは嫌だったし。せっかく新しい服に袖を通すなら、良い気分の時にしたかったから」
翠山さんはあっけらかんとして言う。
どこか浮世離れしているというか、あんなことがあった後にも関わらず買い物を楽しもうとする意思を失わないでいるのには、単純に感心させられた。
翠山さんが足を止めた場所は二階の隅にある小さな服屋の前だった。
入口の両脇には、男女のマネキンが一体ずつ置かれている。
店に入ると、翠山さんは女性の方のマネキンを指さして店員さんに言った。
「すみません。これと同じ服を一式買いたいんですけど、試着していいですか?」
店員さんはやや面食らいつつも、すぐに同じ服を一式揃えて持ってきてくれた。
翠山さんはそれを受け取ると、店の奥の試着室に入って着替え始めた。
「…………」
僕も笹内も無言だった。
店内は狭いし外の通路を歩く人もほとんどいないから辺りはとても静かで、試着室の中の衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。
やがて音が止み、カーテンが静かに開かれる。
「どうかな?」
翠山さんが選んだ服は、上が襟のない緑色のジャケットで、下は明るい茶色を基調としたロングスカートだった。
マネキンが同じ服を着ているのを見た時よりも、鮮やかで綺麗に見える。
今まで翠山さんが着ていた服と比べてずっとオシャレになったのが、ファッションに疎い僕でも一目で分かった。
「……似合ってます」
「……綺麗だと思います」
笹内も僕も、素直に感想を述べた。笹内の感想が素直なものだと分かったのは、僕より先に口を開いたからだ。
誰かの意見に合わせたのではなく、本当に自分が感じたままの言葉だったんだと思う。
「よかった。笹内くんと同じようにマネキンと同じ服を選んでみたんだけど、自分に似合うかどうかは分からなかったから。二人にそう言ってもらえたら自信出たよ」
翠山さんは鏡でもう一度自分の姿を確認してから、店員さんに質問した。
「すみません。この服、買った後はそのまま着て帰っても大丈夫ですか?」
店員さんは快く了承してくれた。
会計のために一度元の服に着替えようと試着室へ戻る翠山さんに、僕は戸惑いつつ尋ねる。
「新しい服を着て帰るんですか?」
「うん。だって私、今すごくいい気分なんだ」
翠山さんは試着室のカーテンを閉めながら、僕と笹内に笑って見せた。
※第6章は8話編成となっております
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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