第5章①
十二時前という僕にしては比較的早い時間に寝たにも関わらず、翌朝僕は寝坊した。
普段なら一階へ降りるとお母さんが朝ごはんを食べている頃なのだけど、今朝はもうお母さんの姿は家にはなかった。
放任主義。
お母さんの性格を一言で表すならそうなる。
昨夜のように成績についてはたまに注意されるものの、こうして僕が寝坊しても起こしてはくれないし、その代わり後で叱られたりもしない。
僕が部活に入っていないことについても「人から言われて入るものじゃないし自分がやりたいと思わないなら入らなくていい」と言っていた。
中学生の時に受験のため塾に入らされたことを除けば、これまで習い事をさせられたこともない。
僕の呑気な性格は、きっとそうした育て方の賜物だろう。
とはいえ流石に今は呑気にしている場合ではないので、僕は急いで支度を済ませて家を出る。
そのまま駅まで走り続け、いつもより何本か遅い電車に乗り込んだ。
電車が学校の最寄り駅に到着するまでの時間を利用して、乱れた呼吸を整える。
電車を降りる直前にスマホで時刻を確認すると、始業のチャイムまであと七分だった。
大丈夫だ、これなら走れば間に合う。
入学以来何度か同じ状況を繰り返してきた経験からそう判断して、僕は電車を降りるのと同時に再び走り出した。
授業中に居眠りしたり復習を忘れたりする僕でも、遅刻しそうな時にはこうして全力疾走する。
でないと学費を払ってくれているお母さんに失礼だ、という意識くらいは持っていた。
そもそも寝坊して遅刻しそうになるなと言われたら返す言葉もないが。
途中の信号に運よく引っ掛からなかったおかげもあり、僕は予想通りチャイムが鳴る寸前でなんとか教室にすべり込むことができた。
「お、佐倉。ギリギリセーフだったな」
他の友達と喋っていた駒寺が笑いながら声をかけてきたが、息が上がっていた僕には喋る余裕はなく、代わりに疲れた笑顔とピースサインで応えた。
続いて自分の席に目を向ければ、自然と後ろの席も視界に入る。
机の上には普段と同じように文庫本が広げられていたが、普段と違い持ち主の視線は本ではなくこちらを向いていた。
「おはよう」
「……ああ」
僕が息を整えながら挨拶すると、笹内は小さく返事をしてまた本を読み始めた。
昨夜レストランで僕と翠山さんが会話をしたことや、僕も週末一緒に遊びに行く予定になったことについては、なんとも思っていないんだろうか。
と尋ねようか迷っているうちに担任の先生が入ってきて、ホームルームが始まってしまった。
昨日色々と変わった出来事があったせいでなんとなく今日も何か起こりそうな予感がしていたのだけど、蓋を開けてみるとこれといって変化のないいつも通りの一日だった。
強いて変化があったとすれば、僕の授業態度かもしれない。
レストランでお母さんから注意されたのが効いたのか、この日の僕は授業によく集中していた。
昨日の午後の授業のノートも、休み時間に駒寺から借りて写させてもらった。
科目は物理で、宇宙は暗いのに空が青く見えるのは太陽光の中の青い光が空気中の粒子にぶつかって云々、という内容だった。
少し遅れはしたものの、お母さんとの約束もこれでよし。
ちなみに最初は笹内から借りようとしたのだけど、なんと笹内もノートを取っていなかったらしい。
それだけ昨日はあの手紙が気がかりだったのだろう。
僕としてはその時一緒に翠山さんとの件についても話そうかと思ったのだが、ちょうど今日は火曜日なので放課後まで我慢することにした。
そんなわけで放課後がやってくるまでの間、僕の話し相手は普段と同じようにバレー部の友達が中心だった。
そのほとんどは漫画や音楽などのありふれた世間話なので、わざわざ語るほどの内容ではない。
しかし昼休みの駒寺と江口との会話についてだけは、ここで触れておく必要がある。
「あーあ、早くスマホ帰ってこねーかなぁ……」
学食で昼ごはんを食べ終えた江口が、つまらなさそうにため息をついた。
食事中は楽しそうに僕達と談笑していたのに、両手が空いたことで不満が甦ってきたらしい。
「スマホが使えないとちょっとした合間も時間を無駄にしてる感ハンパねーんだよなぁ」
「気持ちは分かるけど、その調子でよく昨日の放課後は耐えられたね」
僕がそう言うと、江口に代わって駒寺が事情を説明した。
「昨日は部活が終わった後、江口に付き合ってみんなで遅くまでカラオケにいたからな」
「ああ、なるほど」
僕はふと、去年江口が振られた時のことを思い出した。
落ち込んでいる友達を励ます時は、カラオケのようにみんなで騒げる場所が合っているのだろう。
「でも家に帰ってからはずっと退屈だったわ」
「退屈してる暇があったら勉強しろお前は」
「そうだそうだ」
江口の発言に駒寺がツッコみ、僕もそれに乗っかる。
江口の成績はお世辞にもいいとは言えない。
赤点を取ったことも一度や二度ではなかった。
ちなみに僕は毎回ちゃんと平均点くらいは取っている。
という話をすると、何故か決まって驚いた顔をされる。
なんでだろう。
「次の期末でも赤点だったらどうするつもりだ」
「赤点が怖くて学生が務まるかよ」
「赤点が怖くない方が学生務まらないと思うよ」
頬杖をつきながら開き直る江口に、今度は僕がツッコむ。
うちの高校は一応進学校なので、赤点が多いと普通に留年する。
毎年そうして一人二人は進級できない生徒がいると先生が言っていた。
江口も結果的にはこうして無事二年生になれたものの、一時は進級が危ぶまれるほどの状況だった。
「あまり成績が悪いとまた補習になるぞ。お前が欠けたらバレー部の活動にも支障が出るんだから、せめて赤点くらいは回避してくれ」
「どうせスマホも明日あたりには帰ってくるだろうし、元気出しなよ」
「……それもそうだな」
駒寺がたしなめ僕が励ますと、江口もようやく納得したように頬杖をやめた。
気分転換も兼ねて、僕は昨日から江口に聞こうと思っていたことを尋ねてみる。
「そういえば、A組に翠山さんって人いるよね?」
「ん? ああ、いるよ」
「どんな人か知ってる?」
「まあ知ってると言えば知ってるけど、なんで急にそんなこと聞くんだよ」
「えーと……この前廊下で見かけた時、すごく綺麗な人だなと思って」
笹内が翠山さんから公園に呼び出されたことは誰にも言うなと止められているので、その辺については適当にごまかしておいた。
翠山さんを見て綺麗だと思ったのは本当だし、まるっきり嘘というわけでもない。
「お、ひょっとして一目惚れでもしたのか?」
途端に江口は目を輝かせ身を乗り出してくる。
「そういうわけじゃないよ」
「なんだよ、隠すなよ。俺が去年女子に告白した時だって、お前らには話しただろ」
なんだか、否定すればするほど余計厄介なことになりそうな雰囲気だった。
「あー……うん、じゃあ、まあそんな感じかな」
「「おおー」」
僕の答えを聞いて、江口だけでなく駒寺までもが冷やかすような声を上げた。
「でも、このことは秘密にしておいてよ」
「安心しろって。誰にも言わねーよ」
「ああ、俺も言わないよ」
僕が念を押すと、二人とも笑いながらそう請け合った。
仕方ない。
騙す形になってしまったのは悪いけど、翠山さんのことを聞き出すためにはこうしておいた方が都合が良い。
二人にはいつか適当なタイミングで「あの後僕の方から翠山さんに告白したけど振られちゃったよ」とでも説明すればいいか。
「考えてみれば、佐倉のこういう話を聞くのは初めてだな」
駒寺がしみじみとした口調で感想を述べた。
確かに、僕が友達の恋愛話を聞くことはあっても、僕自身がそういう話をしたことは今までなかった。
「まあ相手が翠山なら仕方ねーけどな」
「そんなに綺麗な人なのか?」
「うちのクラスの男子は大体みんなそう言ってるぜ」
当事者のはずの僕を放って、江口と駒寺が翠山さんについての話題を進める。
「佐倉を応援してやりたいのはやまやまだが、話を聞く限りライバルは多そうだな」
「いや、それが告白したやつは今のところ一人だけなんだよな。名前は忘れたけど、しつこく付きまとって断られたやつがいた」
「意外だな。一人だけか」
「ちょっと話しかけづらい性格してるんだよ。いつも一人で本読んでるし」
「人と話すのが嫌いなタイプなのか?」
駒寺は江口の話からそういう印象を受けたらしいが、僕は違うと知っていたし江口も首を横に振った。
「いや、そういうわけでもねーんだよ。体育でチームとかペアを組んだ時には普通に挨拶したりしてる、って睦が言ってた」
「睦さんって、女子バレー部の人だっけ?」
「「そう」」
横から僕が質問を挟むと、江口と駒寺は声を揃えてうなずいた。
僕自身は睦さんと会ったことはなかったが、二人の会話にたまに登場するので名前だけは知っていた。
ともかく、いつも本を読んでいて話しかけづらいと思われているという点では翠山さんもどこかの誰かさんと同じらしい。
でも実際に会話をした僕に言わせれば全然話しにくい相手ではないし、むしろ結構感情豊かな人だ。
誰かさんの方はもう少し愛想よくなってもいいんじゃないかと思うけど。
「まあ性格については大体そんな感じだな」
江口の話が一段落すると、駒寺は一つ疑問を呈した。
「翠山さんって人が少し変わった性格なのは分かったが、それだけで告白されない理由になるのか? たとえ非社交的でも、大勢から告白されるやつはいるだろ」
誰かさんのことを念頭に置いた発言だったのか、駒寺は途中で一度僕の方を見た。
確かにそうだ。
単に話しかけにくいだけなら、思い切って告白する人がいてもおかしくない。
この駒寺のもっともな疑問に、江口はこれまでよりも幾段か声のトーンを落として答えた。
「……実は、翠山に話しかけにくいのにはもう一つ気になる理由があってさ」
そう前置きしてから江口が最後に付け足した情報は、確かに気になるものだった。
「誰に聞いても、去年同じクラスだったってやつがいねーんだよ」
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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