第4章①
笹内と別れて三十分ほど経った頃には、僕はもう自宅の前に立っていた。
普段なら途中どこかに寄ったりするのだけど、今日はそういう気分にもなれなかった。
多分昼休み以降ガラにもなくやたらと頭を使ったせいだろう。
「ただいまー」
玄関のドアを開けながら、僕は周囲にも聞こえる声量で挨拶した。
「たとえ返事をしてくれる相手が家にいなくても、一人で帰った時は安全のために大きな声で挨拶をして親が家にいるように見せなさい」
小学生の頃にお母さんからそう言いつけられ、今でもなんとなくそれが習慣になっていた。
お母さんは会社に勤めていて、帰ってくるのは夜遅くになってからだ。
そしてお父さんは、僕が保育園児だった頃に病気で亡くなっている。
友達と家族の話題になってそのことを話す機会があると、申し訳なさそうに謝られるのが常だった。
もちろん、他の誰かが親を亡くしていると知ったら僕だってそうする。
ただ僕個人について言えば、実は謝られるほど気に病んでいる訳ではなかった。
多分当時の僕が幼くて、死というものがどういうものなのかまだ理解できていなかったせいだろう。
お父さんがどこか遠い所へ行ってしまったことは、ぼんやりと分かっていた。
でもそれと同時に、いつか帰ってくるんだとも思っていた。
それに保育園の頃はお母さんも夕方には仕事を終えて迎えに来てくれていたので、お父さんに対してはまことに申し訳ないことに、当時の僕はあまり悲しいと思った記憶がない。
それでも、お父さんのお葬式の時にお母さんが泣いていたことははっきりと覚えている。
十六年間生きてきて、お母さんが泣いているのを見たのはその時だけだ。
どうやらもう二度とお父さんには会えないらしい、と僕が認識できるようになったのは、小学校に入ってしばらく経った頃だった。
だが僕の認識がどうであれ、それまで何年もお父さんがいないままお母さんと二人で暮らしてきたという事実は変わらない。
僕にとっては、いつの間にかその生活が当たり前になっていた。
だからふとした瞬間にお父さんのことを思い出して寂しくなることはあっても、泣きたくなるほど悲しくなることはなかった。
きっと無知な状態から事実を理解するまでに何年か猶予があったおかげで、時間をかけてゆっくりとお父さんの死を受け入れることができたのだと思う。
「ただいまー」
玄関を入ってすぐ左にある和室の襖を開け、お父さんの仏壇にも挨拶する。
洗面所で手洗いとうがいをしてからリビングへ行き、クーラーをつけた。
冷蔵庫から出した麦茶をコップに注いで飲み干すと、汗ばんだ身体によく染みた。
椅子に座ってしばらく待つうちに、涼しい空気が部屋中に行き渡る。
あの喫茶店も良い雰囲気だったけど、一番気分が落ち着くのはやっぱり自分の家かもしれない。
なんというか、慣れ親しんだ安心感がある。
ふと時計を見ると、短い針が5と6の中間を指している。
喫茶店の前で翠山さんと会ってから、ちょうど一時間ほどが経っていた。
翠山さんはまだあのお店にいるんだろうか。
いるとしたら、何を考えているんだろう。
嘘がバレているのなら、やはり僕は信用できない人物として認識されているのだろうか。
まあ僕が自分で招いた事態だから文句は言えないんだけど。
それにしても、作り話が見抜かれていたなんて笹内に言われるまで全然気が付かなかった。
相手を疑ったり警戒したりしていれば表情に何かしら変化がありそうなものだけど、翠山さんにはそういった素振りも一切なかった。
僕の話を嘘だと見抜いた上で眉一つ動かさずに会話を続けていたのだとしたら、ちょっと怖いような気もする。
顔を合わせていた時から不思議な雰囲気の持ち主だとは感じていたが、こうして振り返ってみるとますますその印象が強くなってくる。
そういえば、笹内はもう翠山さんにLINEを送ったんだろうか。
やっぱり笹内に任せずに自分で謝った方がよかったかな。そんな悩みが再び頭をもたげてくる。
でも結局今ここで考えても仕方ないかと割り切って、僕は冷凍食品で早めの晩ごはんを食べることにした。
食事が済んで食器を洗った後は、いつもと同じようにスマホをいじって過ごした。
六時、七時とあっという間に時間は過ぎていき、いつの間にか翠山さんの一件についての悩みはどこかへ消えていた。
変化が起きたのは、八時過ぎにお母さんから電話がかかってきた時だ。
「もしもし、あんた今家にいる?」
電話に出ると、お母さんの普段と同じぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
「うん、いるよ」
「私この後スーパーで買い物して帰るから、あんたも来て荷物運ぶの手伝いなさい」
「了解」
ちょっと面倒くさいと思ったものの、口には出さなかった。
食料品や生活用品は僕も消費している物だから、手伝えと言われたら断るわけにはいかない。
「それと帰ったらすぐお風呂に入りたいから、今のうちに浴槽洗ってお湯張っておいて」
「ええー……」
今度は面倒くさいという感想が口から出た。
僕は基本的にいつもシャワーだけで済ませるタイプなので、浴槽を使うのはお母さんだけなのだ。
「私今から駅前のステーキレストランで晩ごはん食べるけど、あんたはどうする?」
「お湯が冷めないように湯船に蓋もしておきます」
「気が利くわね。お願い」
手のひらを返して敬語になった僕を、お母さんも手慣れた様子で受け流す。
電話を切ると僕はテキパキと浴槽の掃除と着替えを済ませ、十分後には家を出発していた。
きっとこういう時の僕は、頭ではなくて胃袋が身体の指揮系統を握っているんだと思う。
でなければ我ながらありえない手際のよさだ。
駅前に着くと、八時半過ぎという晩ごはんには遅い時刻にもかかわらず飲食店はまだどこも混み合っていた。
入り口を透明なビニールシートで仕切った昭和風の串カツ屋からは、大学生と思われる若者達の賑やかな笑い声が響いてくる。
彼らよりさらに若い僕は当然まだ飲んだことがないからよく知らないけど、どうやらお酒には人をお店に長居させる効能があるらしい。
そう考えれば飲食店が好んでお酒を売りたがるのもうなずける。
実際駅前の飲食店でお酒の類を扱っていないのはファストフード店や喫茶店だけで、それ以外のお店はどこへ行っても必ずメニューの最後に「アルコール」の文字が並んでいる。
僕が今向かっているステーキレストランも例外ではない。
名前の通りステーキを中心とした肉料理を扱っているお店で、評判がいいため近隣の駅からもお客さんが来るそうだ。
確かにここの料理はとても美味しい。
しかし、美味しいだけに値段も高い。
少なくとも高校生のお小遣いで気軽に行ける値段ではなかった。
ここでお腹をいっぱいにしようとすれば、それだけで僕の一ヶ月分のお小遣いをほぼ使い切ってしまう。
そんなわけで、僕が今までこのお店で食事をしたのはいずれも自腹ではなく、今回のようにお母さんがおごってくれる時だった。
レストランに着くと、僕は自動ドアを通って中へ入った。
やや暗めの照明が印象的な店内は、それだけでも少し大人っぽくて高校生には敷居が高い感じがする。
声をかけてくれた店員さんに待ち合わせであることを告げて店内を見回すと、こちらに手を挙げているお母さんの姿が目に入った。
僕は店員さんに会釈をしてその席へと向かう。
テーブルの上には半分ほどになったステーキが乗ったお皿と、赤いワインの注がれたグラスが置かれていた。
「相変わらずこういう時は早いわね」
「うん、僕もびっくりしてる」
お母さんに自分で思っていたのと同じことを言われて、僕は苦笑する。
「まだ晩ごはん食べてなかったの?」
「食べたけど、もう三時間くらい前だからまたお腹空いてきちゃって」
「なるほどね。だったら早くメニュー見て注文決めちゃいなさい」
「じゃあこのサーロインステーキとグレープフルーツジュースで」
「……本当にこういう時だけは判断が早いんだから」
注文を待つ間、僕とお母さんはこの後の買い物について話した。
今日は米袋を買うから僕がそれを運べだとか、そういえば食器用の洗剤が切れかけてたよとか。
買い物の話が終わると、ステーキを食べ終えたお母さんが別の話題を振ってきた。
「ところであんた、最近学校の方はどうなの?」
僕は明るい口調で答える。
「楽しいよ。もう今年のクラスにも馴れて、新しく友達もできたし」
「そっちについては心配してないわよ。私が訊いてるのは勉強の方」
「ああ、勉強……勉強ね……」
途端に僕は歯切れが悪くなる。
それ自体が答えみたいなものだった。
初作品なので拙い出来ですが、お読みいただき本当にありがとうございます。
物語は既に完結まで書き溜めていますので、このまま最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
1話あたり約3000字前後で、毎日2話ずつ更新していく予定です。
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