第九章 牙を持つもの
門の向こうは、赤茶けた岩山だった。風がうなり、遠くから、獣の低い咆哮が響いてくる。
「あの声、なに?」
「この領域の主だ。力の証を持つ者しか、先に進めない」
近づくにつれ、咆哮の主が見えてきた。獅子だった。だが、普通の獅子ではない。全身が、ひび割れた鏡のような肌に覆われ、動くたびに、鏡の破片にルナ自身の顔が映って見えた。足音は、地面を伝って、腹の底に直接響くような重さがあった。カイが、思わず半歩後ろに下がる。
「――俺、正直、剣で斬りかかりたい気分だ」
「待って。まだ、様子を見よう」
「様子を見てる間に、噛みつかれるんじゃないか」
「――あれ、戦うの?」
「わからない。俺は、ここまで来たことがない」
獅子はゆっくりと近づき、ルナの前で足を止めた。金色の目が、まっすぐに彼女を見つめる。その目の奥に映るのは、ルナの顔――ではなく、もっと幼い、もっと怯えた顔だった。
「――お前は、わたし、なの?」
獅子は答えず、ただ低く唸った。唸り声の合間に、声のようなものが混じっている気がした。
見捨てられる。
用済みになったら、捨てられる。
誰も、本当のお前を望んでいない。
その声は、ルナ自身の声だった。ずっと胸の奥に沈めていた、名前を付けていなかった不安。旅の中で何度も感じた、あの小さな石の正体が、今、目の前で牙を剥いている。
カイが剣を構えようとするのを、ルナは手で止めた。
「――戦わない」
「なんでだ、あれは――」
「あれは、敵じゃない。わたしの中にいる、わたし自身だから」
獅子が、また唸る。ルナは一歩、前に出た。剣も、杖も構えず、両手を空にしたまま。
「――うん。怖い。見捨てられるのが、怖い。誰にも望まれてないかもしれないのが、怖い」
獅子の唸りが、ほんの少し弱まった。
「でも、それを怖がってること自体は、悪いことじゃないと思う。フローラの庭で気づいた。怖いから動かないのと、怖いままでも動くのは、違うことだから」
獅子は、鏡の肌を震わせながら、じっとルナを見つめていた。
「あなたを、消そうとは思わない。牙を折ろうとも思わない。ただ、一緒に歩いてほしい。怖いって気持ちを抱えたまま、前を向くのを、手伝ってほしい」
カイが、剣を下ろし、そっと後ろに退いた。彼自身、まだ、自分の中の獅子と向き合う準備ができていないことを、その動きが物語っていた。ルナは、それを咎めなかった。向き合う順番は、それぞれ違っていい、と、なぜか、はっきりとわかっていた。
獅子の肌は、近づくほど、鏡の面積が増え、ルナの顔が、何十にも重なって映り込んだ。幼い顔、怯えた顔、今の顔。どれも紛れもなく、自分の顔だった。それを、目を逸らさずに見つめ続けることが、これまでのどの選択よりも、静かな勇気を必要とした。
ゆっくりと、ルナは獅子の額に手を伸ばした。触れる瞬間、カイが息を止めるのがわかった。
獅子は、噛みつかなかった。代わりに、大きく息を吐き、その場に横たわった。鏡の肌が、少しずつ、普通の毛並みに変わっていく。
「――終わった、のか?」
「ううん。終わってない。ずっと一緒にいると思う、これから」
「それでいいのか?」
「うん。無理に消そうとしたら、きっともっと大きくなって戻ってくる気がするから」
獅子――今はもう、ただの獣のようになったそれ――は、ルナの足元に寄り添うように、身体を寄せてきた。重さはない。ただ、確かに、そこにいる気配だけがあった。触れた場所から、これまで感じたことのない、静かな一体感が広がっていく。まるで、ずっと敵だと思っていたものが、実は、最初から自分自身の一部だったと、身体で理解するような感覚だった。
「――お前、力の証を持つ者しか進めないって話、聞いたよな」
「うん」
「今のがそれだよ、多分。戦って倒す力じゃない。抱えたまま歩く力の方だ」
「――俺にも、そういう獅子、いるのかな」
「いると思う。多分、みんな、それぞれの獅子を持ってる」
「お前の獅子と、俺の獅子は、似てるんだろうな。同じところから来たんだから」
その言葉に、ルナは足を止めた。カイの獅子――彼が抱えているかもしれない、見捨てられることへの恐れの、その具体的な形を、まだ見たことがない。だが、いつか見る日が来るだろうという予感だけは、はっきりとあった。
先へ続く道が、獣の向こうに、静かに開けていた。ルナはその道へ踏み出す前に、もう一度だけ、鏡だったはずの獣の目を見た。そこにはもう、幼い怯えた顔ではなく、今のルナ自身の、少しだけ強くなった顔が映っていた。
岩山を下る道は、これまでの旅の中で、一番歩きやすい道だった。だが、歩きやすさは、必ずしも、心の軽さと一致しなかった。ルナは、獅子と対話したあとの静かな疲労を、身体の奥に感じていた。
「――大丈夫か。顔色、悪いぞ」
「大丈夫。ただ、ちょっと、自分の中を見すぎたかも」
「見すぎるのも、体力を使うからな」
カイは、荷物の中から、干した果実を取り出し、無言でルナに手渡した。フローラの庭でもらったものだった。口に入れると、甘さが、疲れた頭の中に、ゆっくりと染み込んでいく。
「――ありがとう」
「礼を言うことか、これくらい」
「言うよ。あなたが、いつも、こういう小さいことに気づいてくれるから」
カイは、それに答えず、少し先を歩き始めた。だが、その足取りは、これまでよりも、僅かに軽かった。
夕暮れが近づく頃、遠くに、雪をかぶった山脈が見えてきた。あの山の向こうに、次の領域があるはずだった。
「――あの山、越えるの、大変そうだね」
「大変だろうな。だが、越えられない山には、まだ、お目にかかったことがない」
その言い方には、これまでのカイの皮肉げな口調とは違う、静かな自信があった。ルナは、それを、頼もしいと思った。
日が完全に沈む前に、二人は、小さな洞窟を見つけ、そこで一晩を過ごすことにした。焚き火の準備をしながら、カイが、ふと、これまで聞いたことのない話を始めた。
「――俺、実は、山を越えるのが、苦手なんだ」
「――意外。そんな風に見えないのに」
「見えないように、してるだけだ。高いところが、昔から、少し怖い」
「昔から、って、いつから?」
「わからない。多分、生まれたときから、そうだったんだと思う」
その告白は、彼にとって、決して簡単なものではなかったはずだった。ルナは、それを、笑わずに、ただ、静かに受け止めた。
「――怖いままでいいよ。無理に平気なふりしなくていい」
「――お前、その台詞、もう何回目だ」
「大事なことだから、何回でも言うよ」
カイは、それに、小さく笑って、焚き火の薪を、もう一本、くべた。




