第十章 灯を持つ老人
岩山を越えると、道は一気に険しくなった。雪の混じる霧の中、灯り一つだけが、ぽつんと先を示していた。
灯りの持ち主は、腰の曲がった老人だった。長い髭に霜がつき、動くたびに、細かな氷の粒が舞い落ちる。手にした杖の先端の灯りだけが、周囲の霧を、ぎりぎり歩けるほどの範囲だけ、照らしていた。
「――お前が、噂の愚者だね」
「噂って、また出てきた」
「この山では、噂話くらいしか、暖を取る方法がないんだよ」
老人は、隠者ソルと名乗った。彼の小屋には、これまで見たどの領域にもなかった、埃をかぶった古い書物が並んでいた。
「わたしより前に、愚者だった人のこと、知ってますか」
ソルは、驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「知っているとも。ここへ立ち寄ったのは、お前で二人目だ」
カイが息を呑む音が聞こえた。ルナは、逃げずにその先を尋ねた。
「――どんな人でしたか」
「お前とよく似ていたよ。よく笑い、よく怖がり、よく歩いた。ただ、一つだけ違うことがあった」
「なに?」
「彼女は、"急いでいた"。世界の座に至ることを、まるで、それだけが自分の存在を許す唯一の理由だと思い込んでいるようだった」
老人は、書物の一冊を開き、黄ばんだ頁を指でなぞった。
「急ぐ者は、道の途中にあるものを、見過ごす。仲間の顔も、景色の匂いも、自分の中にある恐れの正体も。ただ、先へ、先へと」
「――それで、届かなかったんですか」
「届かなかった、というのは半分正しい。正確には、"至った瞬間に、何のために至ったのか、自分でもわからなくなった"のだと、わたしは思っている」
その言葉は、これまでの誰の言葉より、静かにルナの胸に刺さった。
「わたしも、そうなるかもしれない」
「かもしれない。だが、お前には、彼女になかったものが、一つある」
「――なんですか」
ソルは、カイの方に視線を向けた。カイは、居心地悪そうに目を逸らした。
「連れ、だ。彼女は、最後まで一人で歩いた。誰かと繋がることを、自分が消える日に、その誰かを悲しませることだと思い込んでいたからだ」
「それは――」
「お前は、もう繋がってしまっている。だから、彼女とは同じ道を辿らないだろう。ただし――」
老人の声が、初めてわずかに重くなった。
「繋がりは、力にもなるが、迷いにもなる。世界の座の間際で、お前は必ず、繋がりゆえの選択を迫られる。その時、急がず、逃げず、目を逸らさずにいられるか。それが、彼女とお前の、本当の分かれ道になる」
意味の重さを、ルナはまだ半分もつかめていなかった。だが、胸の奥の水晶が、これまでで一番強く、熱を持った気がした。まるで、その熱自体が、「よく覚えておきなさい」と、無言で告げているようだった。
カイは、その話を、腕を組んで、じっと聞いていた。表情には出さなかったが、彼もまた、ソルの言葉の重さを、静かに受け止めているのが、ルナにはわかった。
「――もう一つ、教えてほしいことがあります」
「言ってみなさい」
「世界の座に至るって、具体的には、何をすればいいんですか」
ソルは、初めて小さく笑った。
「それは、わたしが教えることではない。教皇にも、魔術師にも、女教皇にも、答えられない問いだ。至った者だけが知っている答えでね」
「――そんな」
「安心しなさい。答えを知らなくても、道は歩ける。むしろ、答えを知ってから歩く道より、そちらの方が、本物に近いことが多い」
老人は、そう言ってから、小屋の隅にある小さな暖炉に、新しい薪をくべた。炎が跳ね、部屋の中の霜が、一瞬だけ、きらきらと輝いた。
「――ソルさんは、なぜここに、一人でいるんですか」
「一人が好きなわけではないよ。ただ、この山は、誰かが灯りを絶やさずにいないと、旅人が迷って動けなくなる。役目、というより、なりゆきだ」
「寂しくないですか」
「寂しいとも。だが、寂しさは、悪いものではない。寂しさがあるから、誰かが通りかかったとき、こんなに嬉しいのだからね」
その言葉は、これまでルナが聞いたどの言葉よりも、静かに、まっすぐに、胸の奥に落ちてきた。
「――ソルさんは、これまで、何人の旅人に、灯りを渡してきたんですか」
「数えていないよ。数えると、寂しさの重さまで、数えてしまう気がしてね」
「――でも、覚えてはいるんですよね。一人一人のこと」
「覚えているとも。忘れることは、この山では、案外、難しいことなんだ。霧が濃い分だけ、記憶は、はっきりと残る」
その言葉に、ルナは、いつか自分もこの山を通り過ぎた誰かとして、ソルの記憶に残るのだろうか、と考えた。悪くない未来だと思った。灯りの先で舞う霜の粒が、その考えを、そっと肯定するように、きらりと光った。
老人は、最後に、二人に温かい飲み物を手渡した。木の実を煮出したような、少し苦く、それでも、腹の底から温まる味だった。
「――行く前に、腹を満たしておきなさい。この先は、腹が減っていると、判断まで鈍る道が続く」
小屋を出る頃には、霧が少し晴れていた。雪の隙間から、遠くに、虹色の光を放つ輪のようなものが見えた。
「――あれは?」
「運命の輪、だ。次に、お前たちが立つ場所だよ」
老人の灯りが、その方向をまっすぐに示していた。




