第八章 御すもの
金色の糸をたどって谷を抜けると、荒野に一台の戦車が乗り手を待つように立っていた。馬はいない。代わりに、車輪の軸から、黒と白、二本の光の帯が伸びている。戦車自体には装飾もなく、ただ、四つの車輪と、乗るための台座があるだけの、簡素な作りだった。近づくと、車輪の縁に、小さな文字が刻まれているのが見えた――「望む方へ、望むだけ」。
「――不親切な説明書きだね」
「説明書きじゃない。忠告だ」
「これに乗るの?」
「乗るだけじゃ動かない。二本の光を、両方同じ強さで握らないと」
カイが先に乗り、光の帯の片方を握った。もう片方をルナが握る。途端に、戦車は激しく揺れ、片側に大きく傾いた。
「――握力の問題じゃない! 強く思う方に、車輪が持っていかれる!」
「どういうこと?」
「白は"進みたい気持ち"、黒は"止まりたい気持ち"だ。どっちかに気持ちが傾くと、そっちに引っ張られる!」
言われてみれば、ルナの中には確かに二つの声があった。早く先へ進みたい、という声と、まだ何もわかっていないまま進むのが恐ろしい、という声。二つを同時に抱えたまま、戦車は軋みながら荒野を走り出した。
「後ろ!」
カイの声で振り返ると、地平線の向こうから、幾つもの人影が迫っていた。皇帝の砦で見た兵士たちの旗と同じ紋章が、風にはためいている。
「――追われてる?」
「教皇が『記録簿の外』にお前の名を記した瞬間からだ。今さら驚くな」
「なんで、そんなに落ち着いてるの!」
「落ち着いてなんかない。落ち着いてるように振る舞うと、少しだけ本当に落ち着くってだけだ」
戦車の車輪が軋み、荒野の石を跳ね上げる。後方の追手が放つ矢が、時折、風を切る音を立てて二人の頭上を過ぎていった。
その言葉に、ルナは思わず笑ってしまった。恐怖の中で、それでも笑えたことに、自分自身が一番驚いた。
「――笑うところじゃないだろ」
「ごめん。でも、ちょっと安心した」
「安心する場面でもない」
言い合いながらも、戦車は徐々に速度を上げていく。ルナは、黒い帯を強く握りすぎないよう、白い帯を手放さないよう、両方に等しく意識を向けた。恐れを消そうとするのではなく、恐れと一緒に、前を見ることを選んだ。
「――そう。それだ」
カイが呟いた。戦車の傾きが、ゆっくりと収まっていく。車輪の軋みも、次第に静かになり、荒野を走る音だけが、規則正しく響くようになった。ルナは、その安定感に、思わず息をついた。
「――こんな簡単なことだったんだ」
「簡単に見えて、多分、一番難しいことだよ。恐れを消そうとしないままで、前を向くのは」
「止めようとしなくていい。恐れを、なかったことにしようとしなくていい。両方あるまま、前を向く。それが、この戦車の御し方だ」
「知ってたなら、最初から教えてよ」
「言葉で教わっても、意味がない。自分で気づかないと、次の瞬間には忘れる」
砂埃が二人の顔に吹きつけ、視界が一瞬白く濁った。カイが目を細めながら叫ぶ。
「――このまま行くと、右手の岩場に突っ込む! 少しだけ黒側に力を入れろ!」
「少しだけって、どのくらい!」
「わかるようになる、多分!」
「多分って何! 今、命綱それだけなの!」
言い合いながらも、二人はどうにか呼吸を合わせ、戦車の傾きを最小限に抑えていった。追手との距離は、少しずつ開いていった。荒野の果てに、次の領域を示す岩の門が見えてくる。
門は、大きな岩を二つ、寄せ合わせただけの、簡素な作りだった。だが、近づくにつれ、その隙間から、これまでとは違う質の風が吹いてくるのがわかった。境界を隔てる風、というものが、こんな匂いをしているのだと、ルナは初めて知った。
「――あの門を抜けたら、追手はもう来られない。境界を越えると、皇帝の権限も届かなくなる」
「じゃあ、あと少し!」
「あと少しだ」
門をくぐる直前、後方で号令のような声が響いた。追手の一人が、ひときわ大きな声で叫んでいた。
「――娘、覚えておけ! 秩序の外にいる限り、お前に安全な場所などない!」
その声は、門をくぐった瞬間、ふつりと途切れた。静寂の中、戦車が緩やかに速度を落として止まる。
「――大丈夫だった?」
「ああ」
カイは、光の帯を手放しながら、短く答えた。それから、ふと思い出したように付け加えた。
「――お前、さっき笑ったろ。追われてる最中に」
「うん」
「なんでだよ、普通は泣くか、固まるかだろ」
「わからない。でも、あなたが隣にいるから、大丈夫な気がしたのかも」
カイは、それに対して何も言わなかった。ただ、耳の先が少し赤くなっているのを、ルナは見た。見なかったふりをすることを、旅の中で少しずつ覚えていた。
戦車を降りたあと、しばらくは、荒野の乾いた道を、歩いて進むことになった。日差しが強く、喉の渇きが、これまでのどの場面よりも、生々しく身体に響いた。
「――水、まだある?」
「少しだけ。次の水場まで、持つかどうか」
「大丈夫、少しずつ飲めば」
二人は、交代で、僅かな水を分け合いながら、歩き続けた。誰も、独り占めしようとはしなかった。その当たり前のような分け合いの中に、これまでの旅で積み重ねてきた信頼が、静かに表れていた。
遠くから、地響きのような音が聞こえてきたのは、日が傾き始めた頃だった。
「――あの音、なんだろう」
「あまり、いい音には聞こえないな」
魔術師の言葉通り、その音は、近づくにつれ、獣の咆哮だと、はっきりわかるようになっていった。




