第七章 選ぶということ
カイとは、街の外れで待ち合わせることになった。
「――遅い」
「待った?」
「大した時間じゃない」
嘘だとわかる言い方だった。足元の小石を何度も蹴っていた跡が、地面に残っていたからだ。ルナはそれを指摘せず、ただ隣に並んだ。
二人の道は、次の領域――恋人の谷へ続いていた。谷底には二本の川が流れ、途中で一つに合わさって、また二本に分かれていく。不思議な地形だった。
道の途中、カイは意外と口数が多かった。旅の作法や、危険な地形の見分け方、疲れたときに食べるといい実の種類まで、聞かれる前から話し始めることがあった。だが、自分自身の話になると、途端に言葉を切り詰める。ルナは、その落差に、彼の裏側を、少しずつ感じ取っていた。
「――ねえ、カイは、この旅、何度目なんだっけ」
「三度目だって言ったろ」
「一度目と二度目は、覚えてる?」
「覚えてる。忘れられるものなら、忘れたいけどな」
その言い方には、突っぱねるような響きと、どこか救いを求めるような響きが、同時にあった。ルナは、それ以上踏み込まず、ただ隣を歩き続けた。
「あの川、合わさってもすぐ離れるんだね」
「合わさったままだと、どっちがどっちかわからなくなる。だから、また分かれるんだろ」
「――詳しいね」
「前に来たことがあるだけだ」
前に来たことがある、という言葉の軽さと、それを言うときのカイの視線の低さが、噛み合っていなかった。ルナは、その噛み合わなさに気づいたが、まだ踏み込む勇気はなかった。
谷の中央には、対になった祭壇があった。片方には向かい合う二人の像、もう片方には、背を向け合う二人の像。石でできているはずのその像は、近づくと、微かに、本物の肌のような温度を持っているように感じられた。魔術師の姿はない。今回は、二人だけで進む道だった。
「――魔術師、ついてこないんだね」
「この谷は、"選ぶ者だけ"が通れる場所なんだと思う。俺が前に来たときも、そうだった」
「――どっちの祭壇を選ぶかで、通れる道が違う。前に来たときに、教わった」
「向かい合う方は?」
「進む道が短くなる。でも、どちらかが弱ければ、二人とも道の途中で引き離される」
「背を向ける方は?」
「道は長くなる。けど、離れる心配はない。最初から、繋がってないから」
言葉にすると、後者の方が安全に聞こえた。だが、カイの目は、向かい合う祭壇をずっと見ていた。
「――カイは、どっちがいいと思う?」
「俺に聞くな。決めるのはお前だ」
「一緒に決めたいんだけど」
「――」
カイは、しばらく黙り、それから小さく舌打ちした。苛立ちの音ではなく、自分自身に向けたような音だった。
「前に一緒に来た奴がいた。三度目の呼び出しって言ったろ。一度目も、二度目も、俺は一人じゃなかった」
「――その人たちは、どうなったの?」
「向かい合う祭壇を選んだ。俺じゃなくて、その時の相手が選んだ。俺は、選ばせた」
「選ばせた?」
「怖かったからだよ。背を向ける道を選んで、離れないまま進むのが。繋がりが強くなるほど、いつか終わるときが怖くなる。だから、最初から短い方を選んで、早く終わらせようとした」
その告白は、これまでのカイの喋り方とは違う、剥き出しの声だった。ルナは、彼が「三度目」という数字を口にするときの軽さの裏に、こんな重さがあったのだと初めて知った。
「その人たちは、消えたの?」
「一人目は、届かなかった。二人目は、途中で俺を置いて先に行った。……どっちも、同じくらい応える」
風が、谷の間を吹き抜けた。二本の川が合わさる音が、遠くから響いてくる。
「わたしは、あなたを置いていかない」
「――簡単に言うな。お前もいつか、届かないかもしれない相手だ」
「届かなくても、置いていかない、って意味だよ」
カイは、驚いたようにルナを見た。それから、ふっと、これまでで一番自然な笑い方をした。皮肉でも、強がりでもない笑い方だった。
「――お前、変わってるな」
「よく言われる」
「言われたことないだろ、まだ誰にも会ってないんだから」
「フローラとガイウスに会った」
「あいつらは"変わってる"なんて言わないタイプだろ」
「言わないけど、二人とも、ちょっと困った顔してたよ。それって、変わってるってことだと思う」
カイは、呆れたように笑った。笑いながら、その表情の端に、ほんの少し、安堵のようなものが滲んでいるのを、ルナは見た。誰かに「変わってる」と笑って言われることに、彼自身、慣れていないのかもしれなかった。
そんな軽いやり取りの後、カイは向かい合う祭壇の前に立った。ルナも、迷わずその隣に立つ。
「向かい合う方でいい。短くても、繋がったままでいい」
「――後悔するかもしれないぞ」
「後悔しても、離れないでいることの方を選ぶ」
祭壇に光が走り、二人の足元に、細い金色の糸のような道が浮かび上がった。それは、これまでのどの道より頼りなく見えたが、同時に、これまでのどの道より、確かに二人を繋いでいた。糸は、風が吹くたびに、僅かに揺れたが、切れることはなかった。むしろ、揺れるたびに、より強く、二人の足元に絡みついていくようだった。
「――行こう」
カイの声は、初めて迷いがなかった。




