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第六章 数えられなかった名前

教皇の座す大聖堂は、これまで見たどの建物とも違っていた。


高い天井から、無数のカードが糸で吊られ、静かに回っている。回るたびに、絵柄が変わって見えた。愚者、魔術師、女教皇……そして、いくつかの、絵の描かれていない真っ白なカードも混ざっていた。天井を見上げていると、まるで、無数の目に見下ろされているような気がして、ルナは思わず視線を落とした。


床に敷かれた石には、細かい模様が彫られていた。近づいてよく見ると、それは模様ではなく、数えきれないほどの、小さな名前の羅列だった。読み取れる名前もあれば、すでに薄れて、輪郭しか残っていない名前もあった。


「あの白いカードは、なに?」


「見なくていい」


魔術師の答えは、これまでで一番短く、一番強かった。


聖堂の奥、祭壇の前に立っていたのは、白髪の老人だった。杖にもたれるでもなく、まっすぐに、二人が来るのを待っていたかのように立っていた。


「魔術師よ。ようやく来たか」


「教皇オルバ」


「その者を連れてきたということは――お前も、もう腹を決めたのだな」


オルバの目が、初めてルナに向いた。年老いた目なのに、瞬きの少ない、鳥のような目だった。


「お前の名は?」


「ルナ、です」


「ルナ、か。良い名だ。かつての名も、良い名だった」


「――かつての名?」


オルバは答えず、頭上で回るカードの一枚――絵の描かれていない、白いカード――に手を伸ばした。それを掴むと、指先で軽く弾く。カードは音もなく崩れ、光の粒になって消えた。


「教皇! 何を――」


「これが、答えだ。魔術師、お前が言葉で誤魔化す前に、見せておいた方が早い」


オルバは、崩れ去ったカードのあった場所を見つめながら、静かに語った。


「この世界には、決まりがある。二十二の座には、それぞれ一人ずつしか、正しい姿は存在できない。愚者の座にも、当然、一人だけだ」


「わたしが、二人目ってこと?」


「お前は、二人目ではない。数えられない者、だ」


オルバの声には、怒りも憐れみもなかった。ただ、事実を告げる、教師のような響きだけがあった。


「かつて、お前と同じ場所に立ち、同じ道を歩き始めた愚者がいた。その者は、世界の座へ至る道の途中で、力尽きた。届かなかった、ということだ」


「――届かなかったら、どうなるの?」


「消える。だが、消える前に、僅かな残響を残すことがある。願いの強さ、あるいは、後悔の深さによって」


ルナの胸の中で、水晶が微かに温かくなった気がした。イリスが言っていた「先の子」という言葉が、頭の中で急に、輪郭を持ち始めた。


「その残響が、時に土に染み込み、月の光を受けて、新しい形を取ることがある。それが――お前だ」


「わたしは、その、消えてしまった誰かの……残り、なの?」


「残響、と言った方が正しい。だが、否定はしない」


その場に、長い沈黙が落ちた。魔術師は何も言わず、ただ拳を握っていた。ルナは、自分の両手を見つめた。肩から先が薄いと言われたことを思い出す。あれは、比喩ではなかったのだ。


「――だから、皇帝は、わたしを『予測できない』って言ったの? わたしは、決まりの外にいる存在だから?」


「その通りだ。決まりの外にある者は、決まりそのものの正しさを揺るがす。だからこそ、多くの者は、そうした残響が育つ前に、消してしまうことを選ぶ」


「――でも、あなたは、まだわたしを消してない」


「消す権限は、わたし一人にはない。それに――正直に言えば、わたし自身、まだ迷っている。決まりを守ることと、決まりの外にあるものを、はなから否定することは、本当に同じことなのか、と」


その迷いの吐露は、これまでのオルバの厳格な口調とは、明らかに違う響きを持っていた。魔術師が、驚いたように顔を上げた。


「あなたも、そう考えているの?」


オルバは、初めてかすかに目を細めた。憐れみでも、悪意でもない、ただの疲れのような表情だった。


「私は、決まりを守る者だ。だが決まりには、もう一つの側面がある――お前が、本当に『世界』の座に至ることができれば、それはお前が単なる残響ではなく、正しい形を持った存在だという証明になる」


「至れなかったら?」


「至れなかった者に用意された結末は、一つしかない」


「――消える、ってこと?」


「消える、というより、還る、という方が近い。お前を形作っている光は、もともと、この世界のあちこちから借りているものだ。至れなければ、その光は、借りた場所へ、一つずつ戻っていく。何も、悪いことをしたわけではない。ただ、そういう仕組みだ」


仕組み、という言葉の軽さに、ルナは、かすかな怒りを覚えた。自分の存在そのものが、誰かにとっての「仕組み」として語られることの、静かな痛みだった。だが、その怒りをぶつける先が、まだ見えなかった。


「――怒っているようだな」


「――少し」


「怒りを隠さなくていい。ここでは、感情を偽ることの方が、かえって不誠実だと思われる」


その許しに、ルナは、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。怒りながらでも、この場に立っていていいのだと、初めて言われた気がした。


そこまで言うと、オルバは背を向けた。話は終わりだ、という背中だった。


「――教皇。一つ、尋ねてもいいですか」


「聞くがいい」


「あなたは、さっき、『残響が育つ前に消してしまうことを選ぶ者が多い』って言った。でも、あなた自身は、まだわたしを生かしてる。それって、あなたが、他の人たちとは、少し違う考えを持ってるってこと?」


オルバは、しばらく、ルナの顔を見つめていた。値踏みするようなその視線の奥に、これまで見えなかった、静かな疲れの色があった。


「――わたしは、長く、この座に立っている。長く立っていると、"決まりを守ること"と、"決まりを疑うこと"の両方が、同じくらい重要だと、思うようになる。今のわたしは、その両方の間で、揺れているところだ」


「揺れながらでも、決めるんですね」


「決めねばならない。揺れを言い訳に、何も決めない者は、この座には座れない」


その言葉には、これまでのどの言葉より、重い誠実さがあった。ルナは、それを、初めて、教皇という存在の"人らしさ"として、受け取った。


「――もう一つ、聞いてもいいですか」


「聞くがいい」


「あなたにも、迷いがあるなら、その迷いを、他の人に話したりしますか。一人で抱えるのは、大変じゃないですか」


オルバは、その質問に、これまでで一番、長く沈黙した。


「――話す相手が、いなかった。長く、この座に座っていると、いつしか、そうなる」


「――今からでも、話せる相手、見つかるといいですね」


その一言に、オルバは、驚いたように、ルナを見た。それから、これまでの厳格な表情の下に隠れていた、ひとりの老人としての、静かな微笑みを、僅かに見せた。


オルバは、そこで、頭上に回る白いカードの一枚に、もう一度、目を向けた。


「――もう一つ、伝えておく。記録簿の外に記された者は、この世界のどの座からも、正式な庇護を受けられなくなる。魔術師、お前が導くことも、これまでのような、公的な立場ではなく、お前自身の意思による、私的な選択になる」


「わかっている。それでも、導く」


「――そうか。ならば、覚悟の重さを、忘れないでくれ」


「――魔術師。お前が、この者を導くと決めたなら、覚えておくがいい。今夜より、この者の名は『記録簿の外』に記される。世界の座へ至るまでの猶予は、次の満月まで」


「次の満月まで、たった――」


「短いと思うか? 私からすれば、これまでの前例に比べても、破格の温情だ。感謝することを勧める」


聖堂を出ると、外はいつの間にか夕暮れだった。オレンジ色に染まった空の下、階段の一番下に、一人の少年が座っていた。ルナと同じくらいの年に見える。彼はルナを見ると、値踏みするような、それでいてどこか懐かしそうな目をした。


「――お前も、聖堂に呼ばれたのか」


「あなたも?」


「同じ理由でな。ただし、俺の方が呼ばれるのは、これで三度目だ」


少年は、そう言って皮肉っぽく笑った。笑い方の奥に、疲れと、意地と、もう一つ何か――寂しさに似たものが見えた。


「名前は?」


「カイ」


「わたしは、ルナ」


「知ってる。教皇が呼ぶ声、外まで聞こえてた」


カイは立ち上がり、埃を払って、ルナの隣を通り過ぎようとした。すれ違う瞬間、彼は足を止め、小さく言った。


「――次の満月まで、だろ? 俺と同じだ」


「同じ、って――」


「詳しい話は、また会ったときにな」


そう言って、カイは夕暮れの街並みへ、迷いのない足取りで消えていった。ルナはその背中を見送りながら、これまでとは違う種類の胸の高鳴りを感じた。恐れでも、焦りでもない。誰かと、初めて「同じ」だと言われたことの、静かな驚きだった。


魔術師が、隣でそっと呟いた。


「――どうやら、旅の仲間が増えたようだな」


その声には、安堵と不安が、ちょうど半分ずつ混ざっていた。


その夜は、聖堂近くの宿で過ごすことになった。狭い部屋の窓から、街の灯りが、ぽつぽつと見えた。ルナは、なかなか寝付けず、窓辺に座って、その灯りを数えていた。


「――眠れないのか」


魔術師が、静かに部屋に入ってきた。


「うん。今日、聞いたこと、まだ頭の中で、うまく整理できてない」


「無理に整理しなくていい。時間が、勝手に整理してくれることもある」


「――カイのこと、どう思う?」


「悪い印象は受けなかった。ただ、彼が背負っているものの重さは、まだ、わたしにも見えていない」


「わたしも、まだよくわからない。でも、"同じだ"って言われたとき、なんだか、初めて、独りじゃないって思えた」


魔術師は、それに対して、何も言わなかった。ただ、静かに、窓の外の灯りを、ルナと一緒に見つめていた。


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