第五章 秩序という壁
庭を抜けると、景色は一変した。
石造りの道が、まっすぐに、どこまでも続いていた。道の両側には等間隔に旗が立ち、その先に見えるのは、四角く切り立った城――というより、要塞だった。丸みのある線が、どこにも見当たらない。
歩く音まで、ここでは違って聞こえた。フローラの庭では、足音は土に吸い込まれて消えたが、ここでは、石畳に反響し、まるで誰かに数えられているようだった。旗は風もないのに一定の間隔でわずかに揺れ、その動きさえ、誰かが意図的に揃えているように見えた。
「皇帝の砦だ」
魔術師の声が、少し硬くなった。
門の前には、鎧を着た兵たちが並んでいた。彼らはルナと魔術師を見ると、槍の先をこちらに向けた。
「通行の目的を述べよ」
「女教皇の許しを得て、女帝の庭を経て、この者を『世界』へと導く途中だ」
「登録は?」
「――まだ、正式ではない」
兵の一人が、鋭くこちらを見た。その視線に、ルナは初めて、旅の中で明確な「敵意」というものを感じた。優しさの裏の棘とも、隠された心配とも違う。まっすぐな、疑いの視線だった。
「未登録の存在を、砦の中に入れることはできない」
「――皇帝に、直接お目通りを願いたい」
しばらくの押し問答のあと、ようやく通されたのは、天井の高い謁見の間だった。壁には、これまでの功績を記したという、無数の石板がびっしりと並んでいる。一枚一枚に、几帳面な文字で、日付と出来事が刻まれていた。感情の入る余地のない、ただの記録の羅列だった。
中央の椅子に座るのは、灰色の髪をきっちりと後ろに流した、背の高い男だった。目が合った瞬間、ルナは値踏みされているのを感じた。フローラの値踏みとは違う、もっと乾いた計量だった。
「魔術師。お前がこの手の火種を運んでくるのは、初めてではないな」
「皇帝ガイウス。今回は、火種ではなく、旅人だ」
「同じことだ。登録されていない存在は、この世界の秩序にとって、常に火種になり得る」
ガイウスの目が、ルナに向いた。
「お前は、何のために存在している?」
「――わからない」
「わからない、では答えにならない。この世界のすべての存在には、役割がある。女帝は育み、女教皇は導き、私は秩序を守る。役割のない存在は、秩序そのものを歪める」
「役割がなかったら、いてはいけないの?」
「いてはいけない、とは言っていない。だが、役割のない者は、いつ何をするか予測できない。予測できない者は、管理できない。管理できない者は――やがて、誰かを傷つける」
理屈は、まっすぐだった。まっすぐすぎて、反論する隙が見つからない。ルナは、フローラの庭で感じた温かさとはまるで違う、冷たい石の圧を感じた。
「わたしにも、役割は見つかるかもしれない」
「見つからなければ?」
「――」
答えられなかった。ガイウスは、それを見て、勝ったとも憐れんだともつかない目をした。
「――魔術師。お前は、役割を持っている。導く者としての役割だ。フローラにも、女教皇にも、それぞれの役割がある。この世界は、役割の連なりで、かろうじて形を保っている。役割のない者を一人でも許せば、次はもう一人、その次はもう一人と、綻びは増えていく。私が恐れているのは、その一人目が、たまたまお前だったという、ただの巡り合わせだ」
「わたしは、巡り合わせで、生まれたんじゃないと思う」
「では、何のために生まれた?」
「それを知るために、旅をしてる」
ガイウスは、その答えに、初めて、わずかに視線を逸らした。反論できなかったのではなく、反論する必要のない何かを、感じ取ったような逸らし方だった。
「私は、お前を憎んでいるわけではない。むしろ、お前のような不確かな存在が、この世界のどこかに紛れ込んでいることの方が、私には恐ろしい。秩序とは、恐れを減らすための仕組みだ」
「――恐れを減らすために、まだ何もしていないわたしを、疑う理由にするんですね」
ガイウスは、それに答えず、しばらく、窓の外へ視線を逃した。
魔術師が、初めて強い声を出した。
「ガイウス。恐れを減らすために、存在そのものを消していいわけではない」
「私は、消せと言った覚えはない。だが、私より恐れの少ない者たちが、そう考え始めていることは、お前も知っているだろう」
その一言に、部屋の温度が変わった気がした。魔術師の顔から、表向きの落ち着きが消えかけた。
「――誰の話だ」
「教皇に聞け。私よりも、詳しい話を持っている」
ガイウスは立ち上がり、窓の外を見た。整然と並んだ旗が、風もないのに一様に揺れている。魔術師が作ったのか、それとも彼が作ったのか、ルナにはわからない仕掛けだった。
「――通行を許す。だが、忘れるな。秩序の外に立つ者は、いつか秩序そのものに問われる日が来る。お前がその日に、何と答えるか。それだけは、今のうちに考えておくといい」
砦を出るとき、ルナは初めて、旅が単なる「知らないことを知る旅」ではないことに気づいた。誰かが、はっきりと、自分の存在を問題にしている。その誰かが誰なのか、まだ名前も知らないまま。
「――教皇のところへ、行くんだね」
魔術師は、答える代わりに、少しだけ足を速めた。その背中が、初めて怯えているように見えた。
大聖堂へ続く道は、これまでのどの道よりも長く感じられた。石畳から土の道に変わり、土の道から、いつしか、雲の上を歩いているような、柔らかく、頼りない道になっていった。
道の途中、小さな村を通り過ぎた。村人たちは、二人を見ると、慌てて戸を閉め、窓の隙間から、こちらを窺っていた。誰も、声をかけてこようとはしなかった。一人の子供だけが、母親に手を引かれる直前、ルナに向かって、小さく手を振った。その一瞬の仕草に、ルナは、思わず、手を振り返した。
「――みんな、怖がってる?」
「お前を、じゃない。お前の周りに漂う"噂"を、だ。噂は、本人よりも先に、村を渡り歩く」
「――それって、寂しいね」
「寂しいだろうな。だが、慣れておいた方がいい。教皇の座に近づくほど、こういう反応は増える」
その言葉通り、村を抜けるたびに、視線は増え、声をかけてくる者は減っていった。ルナは、その一つ一つを、なるべく気にしないようにしながら、それでも、胸の奥に、小さな重さが積もっていくのを感じていた。
夜、野宿の焚き火のそばで、魔術師が、ぽつりと言った。
「――怖いか」
「怖い。でも、歩くのをやめるほどではない」
「その"やめるほどではない"の積み重ねが、案外、一番強い力になる。派手な勇気より、長持ちする」
焚き火の火が、ぱちりと爆ぜた。空を見上げると、雲間から、月が、静かにこちらを見下ろしていた。その光は、まだ満ちてはいなかったが、確かに、二人の進む道を、優しく照らしていた。




