第四章 甘い庭
湖を越え、丘をいくつか越えると、空気が変わった。
風が甘くなる。花の匂いというより、焼いたパンと、乾いた干し草と、誰かの体温が混じったような匂いだった。丘の向こうに広がっていたのは、見渡す限りの果樹園と畑だった。
「ここは、女帝の庭だ」
魔術師の声には、これまでと違う柔らかさがあった。まるで、この場所だけは警戒しなくていい、と言っているようだった。
畑の間から現れたのは、丸みのある体つきの女だった。腕には収穫したばかりの果実を山ほど抱え、頬には泥がついている。それでも、そこにいるだけで、周りの空気まで温かくなるような人だった。歩くたびに、周りの作物が、まるで挨拶するように、微かに葉を揺らした。彼女がここを治めているというより、ここ全体が、彼女を中心にして、緩やかに息をしているように見えた。
「あら、旅人さんね! ちょうどパンが焼けたところなの、食べていきなさいな」
「フローラ」
「魔術師くん、久しぶり。相変わらず細いわね、ちゃんと食べているの?」
有無を言わせぬ勢いで、ルナは木のテーブルに座らされ、山盛りの料理を前に置かれた。焼いたパン、蜂蜜、湖で取れた魚、名前もわからない甘い果実。
「食べていいの?」
「もちろんよ。お腹が空いているのに我慢するなんて、この庭では許さないわ」
一口食べると、口の中に温かさが広がった。生まれて初めての食事だった――正確には、生まれて初めて覚えている食事だった。それだけで、目の奥が熱くなった。
蜂蜜をかけたパンを噛むたび、甘さが舌の上でほどけていく。魚の身はほろほろと崩れ、果実は噛むたびに、じゅわりと甘酸っぱい汁を滲ませた。どの味も、これまでの旅で感じたどの感情よりも、単純で、まっすぐだった。おいしい、と思うことに、迷いも、恐れも、何一つ混ざっていなかった。
「――おいしい」
「そう言ってもらえると、作った意味があるわね」
フローラは満足げに笑い、ルナの隣に腰を下ろした。
「ここには、好きなだけいていいのよ。誰も急かさないし、誰もあなたに何かを期待しない。ただ、いるだけでいい場所」
その言葉は、ルナの中の何かにまっすぐ触れた。誰にも期待されない、というのは、これまでの旅で何度も感じてきた心細さの、正反対のものだった。
「――ずっと、いてもいい?」
思わずこぼれた言葉だった。フローラは笑顔のまま、少しだけ目を細めた。
「いいわよ。誰も止めない」
魔術師が、パンを持つ手を止めた。
「フローラ」
「なあに。本人が望んでいるのよ、魔術師くん」
「彼女には、旅の目的がある」
「目的なんて、後からいくらでも見つかるわ。今は、休むことも旅の一部よ」
二人の間に流れる空気に、ルナは戸惑った。フローラの言葉は優しく、間違っているようには聞こえない。けれど魔術師の顔には、これまで見たことのない焦りに似た色が浮かんでいた。
夜、月明かりの下で、ルナはフローラに小さな声で聞いた。
「――フローラは、旅をしたことある?」
「昔は、少しね」
「どうしてやめたの?」
フローラは、遠くを見るような目をした。
「怖くなったのよ。外の世界には、"お前は何のために存在するのか"って聞いてくる人がたくさんいる。ここでは、誰もそんなこと聞かない。それだけで、十分だと思ったの」
「――怖くないの? ここにずっといること」
「怖いのは、外に出ることの方よ」
その答えには、あきらめと安堵が半分ずつ混ざっていた。ルナはそれを聞いて、初めて自分の中の小さな声に気づいた。
ここにいれば、誰にも「消えてくれ」と言われない。
ここにいれば、崖があることさえ考えなくていい。
その考えに、自分自身が驚いた。安全だと思っていたはずのこの庭が、実は「動かないこと」を選ばせる、もう一つの崖だったのかもしれない。
夜が更けても、ルナは眠れなかった。フローラの家の軒先に腰掛け、月明かりに照らされた畑を眺めていると、隣に、いつの間にか魔術師が座っていた。
「――眠れないのか」
「うん。おいしいものを食べて、あたたかい布団で寝られるのに、なんだか、落ち着かない」
「それは、幸福に慣れていないからだ。急に与えられた優しさは、時に、痛みよりも扱いに困る」
「――変だよね、そんなの」
「変ではない。むしろ、自然なことだ。お前はまだ、優しさを"当然のもの"として受け取る練習を、していないだけだ」
その言葉に、ルナは、少しだけ肩の力を抜いた。幸福を疑うことも、幸福に慣れないことも、失敗ではないのだと、初めて許された気がした。
「――魔術師も、幸福に慣れてないの?」
「わたしか? ……そうかもしれない。長い間、何かを楽しむことより、何かを守ることばかり、考えてきた気がする」
「守るのに疲れたら、少し楽しんでもいいと思う」
「――覚えておく」
その短い会話の中に、これまでのどのやり取りより、静かな親密さが生まれていた。庭の風が、二人の間を、優しく通り抜けていった。
翌朝、出発の支度をする魔術師の背中に、ルナは声をかけた。
「――行くよ。ここ、好きだけど。ずっとはいられない」
「なぜ、そう思った?」
「フローラが、外を怖いって言った理由。わたしにも、ちょっとわかる気がしたから。だから、怖いままここにいたら、きっと一生ここから出られない気がする」
魔術師は、しばらく黙って、朝日に染まる畑を見つめていた。
「――お前は、時々、ひどく大人びたことを言う。生まれて、まだ、これほどの日も経っていないのに」
「そうなの? よくわからない。ただ、思ったことを言っているだけ」
「それが、一番、簡単そうに見えて、一番難しいことなんだ。多くの者は、思ったことをそのまま言う前に、恐れや、体裁や、誰かの期待で、言葉を曲げてしまう。お前には、まだ、その曲げる癖がついていない」
「――それは、いいことなの?」
「今は、いいことだと思う。旅の先で、その素直さが、時に、お前を助けることもあれば、お前を傷つけることもあるだろう。だが、少なくとも、今この瞬間においては、それがお前の一番の強さだ」
ルナは、その言葉の意味を、完全には理解できなかった。それでも、なぜか、胸のあたりが、じんわりと温かくなるのを感じた。
魔術師は、初めて心から安堵したような顔をした。フローラは何も言わず、ただ大きな籠に焼きたてのパンを詰めて、二人に持たせた。
「――また、いつでもいらっしゃい。ここは、逃げ場所じゃなくて、休み場所だから」
その言い方の違いに、ルナは何かを教えられた気がした。逃げることと、休むことは、似ているけれど違う。今の自分に必要なのは、休むことだけだった。
庭を出てから、道はしばらく、緩やかな丘を上り下りする、のどかな風景の中を通っていた。フローラの果樹園の名残なのか、道端には、時々、名前のわからない果実の木が生えていて、その実を、魔術師が時々もいで、ルナに手渡した。
「――こんな風に、道端に食べ物があるの、便利だね」
「便利、というより、女帝の領域の名残が、まだ少し残っているだけだ。ここを過ぎれば、こんな贅沢は、当分ない」
「――そんなに、これから大変なの?」
「大変というより、種類の違う場所に変わる、というだけだ。優しさの種類が、変わるだけだよ」
その言葉通り、丘を越えるごとに、風景は徐々に硬く、整然としたものへ変わっていった。草の緑が減り、代わりに、灰色の石が目立つようになる。空気の匂いも、フローラの庭で感じた甘さから、乾いた、金属的な匂いへと変わっていった。遠くに、これまで見たどの建物より角ばった輪郭が見えてきた。
「――あれが、皇帝の砦?」
「そうだ。心構えをしておくといい。あそこの主は、これまで会った誰よりも、お前の存在そのものを、疑ってくる」




