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第三章 鏡に映らない女

女教皇の館は、湖のさらに奥、水面の下にあった。


魔術師の杖に導かれて水に足を踏み入れると、濡れることなく、階段を下るように沈んでいく。水の中を、色のついた魚のような光の粒が、二人の周りを漂うように通り過ぎていった。触れられそうな距離だったが、伸ばした手は、いつも僅かに空を切った。


やがて視界が開けると、そこは水の底とは思えない静かな部屋だった。壁も天井も、鏡でできている。ルナは思わず、自分の映る鏡を探した。無数の鏡の中に、無数のルナが立っていて、それぞれが、少しだけ違う角度で、こちらを見つめていた。


その鏡の中に、一人の女が立っていた。


「――魔術師。飼い犬を連れてきたわけではないでしょうね」


「イリス。ずいぶんな言い方だ」


「言葉は正確に選んでいます。犬というのは、時に一番の忠誠を意味する言葉ですから」


イリスと呼ばれた女は、ルナの方を見た。見た、というより、値を測るような目だった。頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと。


「あなたが、噂の子ね」


「噂?」


「知らなくていい。むしろ、知らない方があなたのためです」


素っ気ない言い方だったが、その奥に、微かな憐れみが滲んでいる気がした。憐れみというものを、ルナはまだ名前で呼べなかった。ただ、居心地の悪さとして感じた。


イリスは指先を一つの鏡に向けた。鏡は波紋を立て、そこにルナの姿を映した――はずだった。だが、映った像には、輪郭の一部が薄い。肩から先が、水に溶けたインクのようにぼやけている。


「これは、なに?」


「あなたの、今の姿よ」


「わたし、こんな風に透けてるの?」


「透けているのではないわ。――足りていないの」


イリスの声には抑揚がなかった。事実を述べているだけだ、という顔をしていた。だが、魔術師が一瞬、彫像のように固まったのを、ルナは見た。


「イリス」


「わたしは嘘を教えたことがない。魔術師、あなたもそれは知っているはずよ」


「時には、黎明を待つべき真実もある」


「待って、都合よく消えてくれる真実など、この世に一つもありません」


二人の間に、張った糸のような緊張が走った。ルナには、その糸の意味がわからない。ただ、自分の話をしているのに、自分だけがその話の外に置かれているような、奇妙な疎外感を覚えた。


「――ねえ。わたしの肩から先、何が足りないの?」


イリスは、しばらくルナを見つめた。それから、初めてわずかに表情を和らげた。憐れみではなく、もっと近いもの――同情に似た何か。


「今はまだ、答えない方がいい。答えを聞くには、あなたはまだ軽すぎる」


「軽いって、どういう意味? 重さなんて、感じたことないけど」


「感じたことがないのは当然よ。あなたはまだ、何も選んでいないから。選ぶという行為には、必ず重さが伴う。何かを選べば、選ばなかった方の可能性が、あなたの中に、小さな重りとして残る」


「じゃあ、選ばなければ、軽いままでいられる?」


「そう。でも、軽いままの器に、真実を注いだところで、何にもならない。器自体が、その真実の形を保てないの」


「軽い?」


「積んでいないの。経験を、時間を、選んだことの重さを。空っぽの器に真実を注いでも、器そのものが割れてしまう」


「じゃあ、いつか教えてくれる?」


「あなたが自分でその重さに気づいたとき。そのときは、わたしが教えるまでもなくなっているでしょう」


またはぐらかされた。けれど、この日はぐらかされ方には、これまでと違う手触りがあった。悪意で隠しているのではなく、守るために隠している――そんな気がした。理由はわからないが、そう感じた。


イリスは鏡から手を離し、代わりに小さな水晶の玉をルナに差し出した。


「これを持って行きなさい。道に迷ったとき、静かに問いかければ、答えの断片だけを返してくれる」


「断片だけ?」


「全部を一度に渡したら、あなたは考えることをやめてしまう。断片は、自分で拾って組み立てるためのものよ」


ルナは水晶を両手で受け取った。冷たく、けれど中心にだけ、ほのかな熱がある。握るたびに、その熱が、指先から、じんわりと手のひら全体に広がっていくようだった。まるで、小さな心臓が、そこに眠っているかのようだった。


「――大切にします」


「大切にしすぎて、使わないのは、一番の無駄よ。困ったときは、遠慮せず、問いかけなさい」


その言葉には、これまでのイリスの淡々とした口調とは、少し違う、温かみが滲んでいた。


イリスは、鏡の一枚を軽く撫でた。すると、そこに映るルナの像が、ほんの少しだけ、輪郭を濃くした。


「――今、何をしたの?」


「何もしていないわ。あなたが、この短い間に、少しだけ"積んだ"だけよ。名前をもらい、選び、歩いた。それだけで、輪郭は変わる」


「じゃあ、これからも、変わっていくの?」


「そうよ。良い方にも、悪い方にも。どちらに転ぶかは、あなたが、この先、何を選ぶかにかかっている」


館を出るとき、イリスは魔術師にだけ聞こえるように、低く言った。


「――先の子と、同じ轍を踏ませないで」


「先の子?」


ルナが聞き返したが、イリスはすでに鏡の奥へ姿を消していた。魔術師は答えなかった。ただ、湖の底から水面へ戻る階段を上る間、彼の背中が、いつもより少しだけ丸くなっていることに、ルナは気づいた。


「――先の子って、誰のこと?」


「いつか話す」


「今日も、いつかなんだね」


「そうだ。今日は、まだその日じゃない」


水面に浮かび上がると、朝の光が湖を金色に染めていた。美しい景色のはずなのに、ルナの胸の中には、水晶の熱よりも冷たい問いが、静かに沈んでいた。


わたしの肩から先には、何が足りないんだろう。


そして、先の子とは、誰だったんだろう。


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