第二章 名もなき者に、名を
湖のほとりに、塔があった。
遠くから見たときは灰色の輪郭でしかなかったのに、近づくにつれ、それが積み木のように歪んで見えることに気づいた。まっすぐな線が一本もない。まるで、建てた本人が「まっすぐ」というものを疑いながら組み上げたような塔だった。
近づくと、外壁のあちこちに、小さな窓が不規則に空いていることに気づいた。窓の一つから、蝶のような光の粒がひらひらと飛び出し、湖の上を渡って消えていく。塔全体が、まるでゆっくりと呼吸しているようだった。
扉の前に立つと、ノックする前に開いた。
「待っていたよ」
灯りの声だった。だが今は、光の粒ではなく、人の形をしていた。若いのか年老いているのか、やはりよくわからない。ただ、目だけが妙に古い。長く何かを見続けてきた目だ、とルナは思った。
「あなた、さっきの光?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。呼びたいように呼んでくれ」
「ずるい答え方」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
男は笑って、扉を大きく開けた。中は塔の外見よりずっと広く、天井まで届く本棚と、渦を巻く光の筋と、机の上に散らばったカードで埋まっていた。どのカードも、絵が微かに動いている。炎のカードは本当に燃え、水のカードは本当に波打っていた。
「わたしは魔術師だ。名前は――今は要らないだろう。お前が知るべき順番というものがある」
「わたしにも、名前をつけてくれるの?」
「つけてほしいのか?」
「わからない。でも、"お前"って呼ばれるの、あまり好きじゃない」
魔術師は少し驚いたように、ルナを見た。それから、窓の外――湖に映る夜空を見た。紫と藍が水面で揺れて、星がそこにも二重に光っていた。
「――月」
「え?」
「お前が生まれた夜、空にはちょうど、ひどく大きな月が出ていた。今夜のこの水面のようにな」
「月って、あの丸いやつ?」
「あの丸いやつだ」
彼は、机の上のカードを一枚拾い上げた。旅人の絵が描かれた、あの崖のカードだった。そこに、指先でそっと触れる。触れられた場所から、淡い光の文字がにじむように浮かび、消えていった。
「ルナ、と呼ぼう。月の名だ」
「ルナ」
口の中で、その音を転がしてみる。しっくりくるのか、まだよくわからない。けれど、名前のない自分よりは、少しだけ地面に足がついた気がした。
「気に入らないなら、明日には違う名前でもいい」
「――ううん。いい。ルナでいい」
「そうか」
魔術師はそう言うと、机の下から古びた杖を取り出し、彼女の手に握らせた。
「お前はこれから、カードの力を借りて旅をする。この杖は、その力を導く道具だ。使い方はいたって簡単――強く願い、迷わず握ればいい」
「迷ったら?」
「迷ったら、力は暴れる。願いが二つあると、杖はどちらに応えていいかわからなくなるからだ」
杖は、見た目よりも重く、手のひらに、じんわりと熱が伝わってくる感触があった。木でできているはずなのに、まるで、何かの心臓の近くを握っているような、微かな拍動を感じた。
「――これ、生きてる?」
「生きてはいない。だが、生きていたものの記憶を、いくつも吸い込んでいる。だから、時々、心臓の真似をする」
「――誰の記憶が、入ってるの?」
「わからない。数えきれないほどの旅人が、この杖を握ってきた。その一人一人の、ほんの欠片だけが、少しずつ、溶け込んでいるんだと思う」
「――前の愚者も、この杖を、握ったことある?」
魔術師の手が、一瞬、止まった。
「――ある。彼女も、最初は、お前と同じことを聞いた」
「同じことを聞いたら、同じ答えをもらえるんだね」
「そうらしいな」
言われた通りに杖を握り、机の上の小さな蝋燭に向けて念じてみる。ほんの小さな火花が散った。魔術師はそれを見て、感心したように頷いた。
「悪くない。筋がいい」
続けて、魔術師は、蝋燭の火を消す方法、小さな物を持ち上げる方法、そして、簡単な結界を張る方法を、次々と教えていった。ルナは、失敗するたびに、少し悔しそうな顔をしながらも、すぐに気持ちを切り替えて、次の挑戦に取り組んだ。その様子を見て、魔術師は、何度か、感心したように息をついた。
「――お前、失敗を気にしない性格なんだな」
「気にしてるよ、ちゃんと。ただ、気にしてる時間より、次を試す時間の方が、もったいなくない気がするから」
「うれしい」
素直にそう言うと、魔術師の口の端が、わずかにこわばった。ほんの一瞬だった。だがルナは、その一瞬の硬さを見た。うまく行きすぎることを、彼が喜んでいないような硬さだった。
「――どうしたの?」
「いや。ただ、お前が思っていたより早く育ちそうだと思っただけだ」
「それは、悪いこと?」
「良いことだ。良すぎて、少し困る種類の良さだよ」
杖から伝わる、心臓のような拍動に慣れてくると、ルナは、少しずつ、力の使い方の加減がわかるようになってきた。強く念じすぎると、火花は大きくなるが、制御が難しくなる。弱すぎると、何も起こらない。ちょうどいい加減を探ることが、最初の練習だった。
「困るなら、教えなければよかったんじゃないの?」
「教えないという選択も、考えた。だが、隠したことは、たいてい、隠した本人が一番苦しむことになる。わたしは、もう十分苦しんできたつもりでいる」
「なにに、苦しんできたの?」
魔術師は、質問には答えず、代わりに杖を軽く振った。宙に、小さな渦のような光の輪が生まれ、ゆっくりと回転しながら消えていく。
「――今はまだ、いい。順番がある、と言ったろう」
その言い回しに、深い意味があるのかどうか、ルナにはまだわからなかった。ただ、魔術師が窓の外の湖に視線を逃したことだけは、はっきりと見えた。何かを見ないようにするための、そんな逃げ方だった。
「明日、女教皇のところへ行こう。お前が旅を続けるなら、まず彼女の許しをもらわねばならない」
「許し?」
「この世界には、決まりがある。何もかもが自由に見えて、実はそうでもない」
魔術師はそう言ってから、初めて少しだけ苦い顔をした。
「――わたしも、その決まりの中の一人だ。忘れないでいてくれ」
その言葉の意味を、ルナはまだ知らない。ただ、渡された杖の重さと、名前という重さを両手に抱えたまま、彼女はその夜、初めて塔の中で眠りについた。夢は見なかった。あるいは、まだ夢を見るということを知らなかったのかもしれない。
朝、目を覚ますと、部屋の窓から差し込む光が、これまで見たどの光とも違う色をしていた。柔らかく、少し埃っぽく、それでも、確かに、新しい一日の始まりを告げる光だった。
階下に降りると、魔術師はすでに机に向かい、何枚かのカードを並べていた。
「――おはよう」
「おはよう、ルナ」
自分の名前を呼ばれることに、まだ慣れていなかった。呼ばれるたびに、少しだけ、心臓のあたりがくすぐられるような感覚があった。
「今日、女教皇のところへ行くんだよね」
「そうだ。準備はできているか」
「準備って、何をすればいいの?」
「――特に何もしなくていい。ただ、聞かれたことに、正直に答える準備だけ、しておくといい」
その助言は、簡単そうに聞こえて、実際には、これから何度も、ルナを助ける言葉になった。窓の外では、湖の水面が、朝の光を受けて、静かにきらめいていた。




