第一章 愚者の目覚め
草の匂いがした。
それに気づいたのが、覚えている中で一番古い記憶だった。
目を開けると、見たこともない色の空があった。紫と藍が溶け合い、そこに銀の粉をまいたような星が瞬いている。夜なのに、暗くない。眠っているはずの光が、なぜかすべて起きている――そんな空だった。
遠くで、水の音がした。せせらぎのような、途切れることのない、静かな音だった。その音に導かれるように、身体を起こそうとして、手のひらに触れた草の感触に驚いた。冷たくて、湿っていて、たしかにそこにある。生きている、と思った。そう思ったこと自体に、もっと驚いた。
わたしは、いま初めて「生きている」と思った。
それはおかしい。生きているなら、その前にも生きていたはずだ。歩いてきた道があり、笑った日があり、泣いた夜があったはずだ。なのに、頭の中を探っても、何も出てこない。名前も、顔も、昨日という日も。ただ、この草原と、この空だけが、世界のすべてだった。
自分の身体を見下ろしてみた。白い布のようなものを纏っている。腕は細く、指は長い。爪の先に、小さな泥がついていた。その泥のつき方を見て、なぜかふと、「わたしは、ここに、そっと置かれたのではなく、生まれたのだ」という感覚がよぎった。理由のない確信だった。理由のない確信ほど、後から思えば、一番当たっているものだ――ということを、彼女はまだ知らない。
風が吹くと、草の穂先が一斉に同じ方向へなびいた。その動きを目で追いながら、彼女は、自分がひとりだということに、初めて気づいた。ひとり、という言葉すら知らないはずなのに、その状態だけは、はっきりとわかった。寂しい、とまでは思わなかった。ただ、何かが足りない、という感触だけがあった。空を見上げると、星の並びの中に、他よりも少し大きく輝く一つがあった。理由もなく、その星に向かって、小さく手を振ってみた。応える者は、もちろんいなかった。それでも、手を振ったこと自体が、何かの始まりのように感じられた。
「――ねえ、起きたの?」
声がした方を見ると、小さな灯りが宙に浮いていた。ろうそくの火のような、でも風に揺れない、まっすぐな光。その光の中に、誰かがいる。少年のような、老人のような、どちらとも言えない輪郭。
「わたし、だれ?」
自分の口から出た言葉に、また驚いた。声というものが、こんな頼りない震え方をするのかと。
光の主は、少し笑ったようだった。笑ったのに、その笑いの下に、何か固いものが沈んでいる気がした。
「名前はまだない。でも、いいことを教えてあげよう。名前がないってことは、これから何にでもなれるってことだ」
「なにでも――」
「たとえば、旅人。たとえば、詩人。たとえば、王様だって夢見ていい。ここでは誰も、お前が何者かを決めつけない」
優しい言葉だった。優しすぎて、ルナは――まだ名前を持たない彼女は――その優しさの裏側に、小さな棘があることに気づかなかった。決めつけないということは、誰も知らないということでもある。それがどれほど心細いことか、彼女はまだ知らない。
立ち上がる途中、膝が一度、がくりと折れた。草の上に手をついた拍子に、指先が小さな石を捉える。冷たく、角の丸い、ただの石だった。それでも、その石を握ったまま、彼女はもう一度、力を入れて立ち上がった。石を握ったことに、特別な意味はなかったはずだ。ただ、何もない両手より、何か一つでも握っている方が、少しだけ、心が定まる気がした。
灯りはふわりと動き、彼女の周りを一周した。値踏みするような、それとも心配するような動き方だった。
「立てるか?」
「わからない」
「わからないなら、試してみればいい。それが一番早い」
言われた通り、両手を草につき、膝を立てる。ふらつきながら立ち上がると、思ったより高い視点に、世界が急に広がった気がした。草原は丘になって連なり、その果てに、鏡のように光る湖が見える。湖の向こうには、うっすらと塔の輪郭。もっと遠くには、名前のわからない色の山脈。
「ここは、どこ?」
「始まりの野、と呼ぶ者もいる。名前は好きに付けていい。どうせすぐ、旅立つ場所だから」
「旅立つ? わたしが?」
「そう。お前が」
「どこへ?」
灯りは、しばらく黙った。その沈黙の長さに、ルナは――のちにルナと名付けられる彼女は――初めて、この光の主が「言わないこと」を選んでいるのだと感じた。理由もわからないまま、ただ肌でそれを感じた。
「――世界の果てまで。それだけ、覚えておいて」
「果てに、何があるの?」
「行けばわかる」
はぐらかされている。そう思ったが、なぜはぐらかされるのかまではわからなかった。ただ、灯りの声にほんの一瞬、震えが混じったのを聞いた気がした。まるで、本当は「行かせたくない」とでも言いたげな震えを。
そのとき、遠くで鳥の羽音のような音がした。ルナが振り向くより先に、灯りがすっと彼女の前に出た。かばうような位置取りだった。
「――もう来たか。早いな」
「なに?」
「なんでもない。ただの噂話が、風に乗って早く届いただけだ」
噂話、というにはあまりに重い声だった。ルナはまだ、言葉の裏にあるものを読み取る術を知らない。だから、灯りが何を怖れているのかはわからなかった。ただ、自分がこの世界に望まれて生まれたのではないかもしれない、という予感だけが、初めて胸の奥に小さな石のように落ちた。
「教えて。わたしは、誰なの? どうしてここにいるの?」
灯りは、その問いに答える代わりに、彼女の足元にひとひらの紙片を落とした。カードだった。裸足のまま崖の縁に立つ、若い旅人の絵。荷物は少なく、犬が一匹、彼のあとをついていく。空を見上げているせいで、旅人は足の下の崖に気づいていない。
「これが、今のお前だ」
「崖から落ちそう」
「そう見えるだろう。だが、この絵の中の男は、今まで一度も落ちたことがない」
「どうして?」
「怖がっていないからだ。落ちるかもしれない、と考えていないからだ」
灯りの声には、あきらめに似た優しさがあった。
「それがいいことなのか、悪いことなのか、わたしにもわからない。だが――お前はいま、その男と同じ場所に立っている。歩き出せば、崖の存在にすら気づかず渡っていけるかもしれない。気づいてしまえば、動けなくなるかもしれない」
「じゃあ、気づかないほうがいいの?」
「それも、わたしには言えない」
ルナは、もう一度カードを見た。旅人の足元にいる犬に、目が留まる。旅人は前しか見ていないのに、犬だけが、時々こちらを振り返るように描かれていた。
「――この犬は、ついていくの? それとも、置いていかれるの?」
「絵の中の犬に聞いたことはないから、わたしには答えられない。だが、少なくとも、旅人はまだ、犬に気づいていない。振り返っていないからな」
「気づいたら、どうなるんだろう」
「一人ではない、と知る。それだけで、崖の見え方も、少しは変わるかもしれない」
灯りの声は、そこでふっと柔らかくなった。まるで、自分自身に言い聞かせているような響きだった。ルナには、まだその意味を汲み取る力がなかったが、なぜか、その一言だけは、胸の奥に深く残った。
はぐらかしではなく、初めての本当の答えだった気がした。知らないことを、知らないと言った。その正直さに、ルナは少しだけ、灯りを信じてみようと思った。
灯りは、しばらく黙り込んだ。答えを探しているのか、それとも、答えをどう言葉にするか迷っているのか、ルナにはわからなかった。やがて、灯りは、小さく息をつくように光を揺らした。
「――なぜ、わたしがこんなに、はぐらかすばかりなのか、聞きたいか」
「聞きたい」
「お前に何かを教えるということは、お前がこれから歩く道の形を、わたしが決めてしまうことに近い。だが、この旅は、お前自身の形で、歩かれるべきものだと、わたしは思っている」
「――難しいこと言うね」
「歳を取ると、みんなそうなる。すまない」
「歩くよ。とりあえず」
「なぜ?」
「知らないことばかりだから。歩けば、何かわかるかもしれない」
灯りは、今度こそ本当に笑ったようだった。
「――それだけ言えるなら、大丈夫かもしれないな」
その言葉の意味を、ルナはまだ知らない。ただ、丘の向こうから吹いてくる風が、どこか塔の匂いを連れてきていることだけを感じながら、彼女は初めての一歩を、湖の方角に向けて踏み出した。
歩き始めると、草原は思ったより広く、一歩ごとに、景色がゆっくりと移り変わっていった。振り返ると、目覚めた場所は、もう小さな点にしか見えない。それでも、なぜか、寂しさよりも、小さな高揚の方が強かった。
「――ねえ、この先、どのくらい歩くの?」
「さあ。距離というものは、この世界では、あまり当てにならない。焦る者には長く、楽しむ者には短く感じられる」
「それって、ずるい仕組みだね」
「ずるいというより、正直な仕組みだと思うが」
灯りは、ふわふわと、ルナの少し先を飛びながら、道を示していた。時々、道端に咲く見知らぬ花に近づいて、匂いを確かめるように動きを止める。そのたびに、ルナも足を止め、同じ花を覗き込んだ。
「――これも、何かの意味があるの?」
「意味があるかどうかは、花に聞くしかないな。わたしには、ただ綺麗だ、としか言えない」
そのやり取りの単純さに、ルナは、初めて、小さく笑った。声に出して笑うということが、こんなに軽い感触を持つものだとは、知らなかった。その笑いは、風に乗って、草原の向こうへ、小さく消えていった。
自分の名前も、生まれた理由も、崖の存在すら知らないまま。
だがその一歩が、二十二の領域を巡り、やがて「世界」と呼ばれる場所へ至る、長い旅の始まりだった。




