第十九章 満ちる前の月
山を越えると、あたりは濃い霧に包まれた。一歩進むごとに、視界は数メートルほどしか届かなくなり、足元さえ、時々見えなくなった。魔術師の足取りは、まだ痛みを残していたが、それでも、ルナから一歩も離れずについてきた。
霧の中に、二匹の犬――いや、犬のような影が、遠吠えを上げながら、ゆっくりと近づいてくる。その声は、聞くだけで、胸の奥にある、まだ言葉にしていない不安をそっと引っかくような響きだった。
「――こっちも、戦う場所じゃない気がする」
魔術師の言葉に、ルナは頷いた。影が近づくたび、霧の中に、映像のようなものが浮かび上がった。
最初に見えたのは、誰もいない始まりの野だった。目を覚ましたルナが、誰にも名付けられず、誰にも見つけられず、ただ一人、朽ちていく光景。
「――これ、なに」
「お前の中にある、"もし"の光景だ。この領域は、見る者の恐れを、そのまま映し出す」
次に浮かんだのは、世界の座に至った自分が、カイのことも、魔術師のことも、フローラのことも、すべて忘れ、ただ虚ろな笑みを浮かべている光景だった。完成した、と皇帝が満足げに頷いている。
「――やめて」
さらに霧が濃くなり、今度は、カイが、鎖に消され、二度と戻らない光景。ルナが一人、誰もいない世界の座で、それでも「これでよかった」と自分に言い聞かせている光景。
「これが、わたしの、一番怖いもの」
霧の中から、声が響いた。人ではなく、霧そのものが囁いているような声だった。
「――お前は、結局、一人になる。愛しても、繋がっても、最後には、すべて手放すことになる。それが、お前という存在の、本当の姿だ」
その声は、これまでのどの敵よりも、静かに、深く、胸に刺さった。反論の言葉が、すぐには出てこなかった。
霧の中の犬たちが、さらに一歩、距離を詰めてきた。その息遣いは、まるで、こちらの覚悟の弱さを探しているようだった。
霧はさらに濃くなり、今度は、フローラが、悲しげにこちらを見つめる光景が浮かんだ。「あの子は、結局、休むことも知らずに行ってしまった」と呟くフローラ。次に、ガイウスが、勝ち誇るように「言った通りだ、不確かな存在に、良い結末などない」と告げる光景。どれも、これまでルナが積み重ねてきた関係を、まるで最初から失敗だったかのように塗り替えていく幻だった。
「――やめて。それは、本当のことじゃない」
「本当かどうかは、お前が決めることではない。お前の中の恐れが、すでに知っていることだ」
霧の声は、静かに、しかし確信を持って囲い込むように囁いた。
「――否定、できないのか?」
魔術師が、心配そうに声をかけた。ルナは、しばらく黙り、それから、ゆっくりと口を開いた。
「――否定はしない。本当に、一人になる日が来るかもしれない」
影の犬たちが、じりじりと距離を詰めてきた。その息遣いは、これまでの旅で聞いたどの獣よりも、冷たく、乾いていた。魔術師が、思わず杖を構えようとしたが、ルナは、それを手で制した。
「――大丈夫。これは、力で追い払う相手じゃない」
霧が、勝ち誇るように、色を濃くした。
「でも、それは、"今まで一緒に歩いたことが、なかったことになる"って意味じゃない」
霧の動きが、一瞬、止まった。
「フローラの庭で、あたたかいパンを食べた。あの味は、本物だった。カイと、恋人の谷で、繋がったままの道を選んだ。あの選択も、本物だった。獅子と話して、怖いままでも歩けることを知った。あれも、本物だった」
「それらすべてが、いつか消える」
「――消えるとしても、それがどうしたの?」
霧が、初めて、僅かに揺れた。動揺したような揺れ方だった。
「消えるものは、無価値だと、誰が決めたの? フローラの庭のパンは、食べ終われば、なくなる。それでも、食べた瞬間は、本物だった。花火だって、一瞬で消える。それでも、誰も、花火を"無意味だ"とは言わない」
「花火と、心の繋がりを、同じに語るのか」
「同じだよ、多分。長さで、価値が決まるわけじゃない」
霧は、その返事に、うまく言葉を返せないようだった。ルナは、その沈黙を見て、初めて、この霧が絶対の存在ではないのだと気づいた。
「――消えるかもしれない。でも、"あった"っていう事実は、消えない。もし最後に一人になったとしても、わたしは、"一度も、誰とも繋がらなかった愚者"にはならない」
その言葉を口にした瞬間、霧が、まるで日の光に触れたかのように、薄れ始めた。犬のような影が、遠吠えをやめ、静かに座り込んだ。
「――お前、いつの間に、そんな強いこと言えるようになったんだ」
魔術師の声には、驚きと、誇らしさが混じっていた。
「強いんじゃないよ。ただ、怖いままでも、本当のことを言えるようになった、だけ」
魔術師は、しばらく、言葉を探すように黙っていた。それから、静かに続けた。
「――前の子にも、同じことを、伝えられていればよかった。彼女にも、"あったことは消えない"と、伝えられていれば」
「今、伝えたつもりで、いいんじゃない? 遅くなっても、伝わることは、あると思う」
その言葉に、魔術師は、目を細め、小さく頷いた。誰に向けた頷きなのか、ルナにはわからなかった。ただ、その横顔に、長年抱えてきた重さが、ほんの少しだけ軽くなったような気配を感じた。
霧の向こうに、満ちる前の、欠けた月が見えた。半分だけ光を受けたその月は、それでも、確かにそこにあり、確かに光っていた。
「――満ちてなくても、月は月なんだね」
「そうだな。満ちるのを待つ必要は、案外、ないのかもしれない」
霧の晴れた森を抜けると、空気が、少しずつ、暖かさを帯びてきた。魔術師が、ふと足を止め、空を見上げた。
「――ルナ。一つ、伝えておきたいことがある」
「なに?」
「お前が、さっき霧に向かって言ったこと――"あったという事実は消えない"――あれは、わたしにとっても、必要な言葉だった。ミラのことを、ずっと、"失った"という言葉でしか、考えられなかった。だが、"あった"という言葉で、考え直してみてもいいのかもしれない」
「――それ、大事な気づきだと思う」
「お前が教えてくれた。ありがとう」
その短い感謝に、これまでの旅で積み重ねてきた、様々な出来事の重さが、静かに宿っていた。
二人は、欠けた月に照らされながら、次の領域――太陽の座へと続く道を歩き始めた。




