第十八章 沈んだ空に灯るもの
第十八章 沈んだ空に灯るもの
光の道は、荒れた大地を抜け、静かな水辺へと続いていた。水面には、これまで見たどの夜よりも多くの星が映っている。歩くたびに、足元の草が、微かな光を帯びて、踏んだ場所だけ、ほんの一瞬、優しく発光した。まるで、大地そのものが、悲しみを抱えたまま歩く者を、そっと支えようとしているようだった。
リオンは、鎖の名残で足を痛め、岩に腰掛けたまま、動くことができなかった。傷口に、ルナが手持ちの布を巻きつける。血の色は、これまでのどの色よりも、はっきりと赤く、生々しかった。痛みも、傷も、幻ではないのだと、その赤さが教えてくれた。
「――痛い?」
「痛い。だが、この痛みは、悪いものではない気がする」
「――どういうこと?」
「痛みがある、というのは、まだ、この身体が、ちゃんと生きて繋がっているという証だ。カイの輪郭が薄れていくのを見た今、その証が、ひどく大切なものに思える」
その言葉に、ルナは、自分の手のひらを見た。震えは、まだ収まっていなかった。だが、震えているということもまた、生きている証だった。
「――先に行け、ルナ」
「置いていけない」
「わたしを気にする余裕は、もう――」
「気にする。あなたも、カイも、誰も置いていかない。それができないなら、世界の座に至る意味なんてない」
水辺のほとりに、若い女が一人、膝を抱えて座っていた。裸足の爪先を水に浸し、瓶から水を注いでは、星々の映る水面に、絶えず新しい波紋を作っている。
「――星の座の主?」
「そう呼んでくれてもいいわ。あなた、ひどい顔をしているわね」
「大切な人が、消えかけてる。それを止められなかった」
「止められなかったのね。でも、諦めなかった」
「同じことじゃないですか」
「全然違うわ」
星の女は、瓶の水を、また水面に注いだ。波紋が広がり、映っていた星々が、一瞬揺れて、それでも消えずに、また元の形に戻った。
「見て。星は、水面が揺れても、消えない。ただ、揺れている間は、少し歪んで見えるだけ」
「――今のわたしみたいに?」
「そうよ。今のあなたは、ひどく歪んで見えている。でも、それは、消えたわけじゃない。ただの、揺れ」
その言葉に、ルナの喉から、堰を切ったように何かが溢れた。声を上げて、泣いた。生まれてから――正確には、覚えている中で――初めて、こんな風に泣いた。
「――カイを、失うかもしれない。あなたにも、教皇にも、みんなにも、迷惑をかけてる。わたし、生まれてこなければ、こんなこと、起きなかったのに」
「それは、違う」
星の女の声は、優しく、けれど、はっきりと否定した。
「あなたが生まれなければ、確かに、この揺れは起きなかった。でも、揺れがないというのは、水が凪いでいるということじゃない。ただ、そこに何もない、ということよ」
「――何もない方が、誰も傷つかなかったんじゃないですか」
「傷つく代わりに、誰も何も感じなかった、ということでもあるわ。フローラのパンの味も、カイと繋いだ手の温度も、獅子と話した時間も、何もなかったことになる。それは、本当に、あなたが望む結末?」
ルナは、しばらく黙っていた。涙で歪んだ視界の中に、それでも、水面の星は、消えずに揺れ続けていた。
「――望まない。全部、あった方がいい。傷ついても、全部、あった方がいい」
「――」
「あなたが生まれたことで、揺れた。それは、そこに、確かに何かが起きた、という証よ。何もない凪いだ水面より、揺れた水面の方が、ずっと、生きている」
リオンが、静かに口を開いた。
「――彼女の言う通りだ、ルナ。お前が来なければ、わたしは、ずっと後悔だけを抱えて、あの塔で朽ちていたかもしれない。お前が揺らしてくれたから、わたしはまた、動けるようになった」
ルナは、涙を拭いながら、水面を見つめた。歪んで揺れる星々が、それでも、確かに、そこに輝いていた。
「――星の座の主。教えてください。世界の座への、最短の道」
「知っているわ。でも、教える前に、一つだけ聞かせて」
「なんですか」
「あなたは、まだ、諦めていない?」
ルナは、涙で腫れた目のまま、しっかりと頷いた。
「諦めてない。カイを、拾いに行くって約束したから」
星の女は、満足そうに微笑み、瓶の残りの水を、静かに夜空へ向けて撒いた。無数の光が、まるで道標のように、遠くの山の稜線を照らし出した。
「あの山を越えた先に、月の座がある。そこで、あなたは、もう一つの試練に出会う。今のあなたなら、大丈夫。歪んだままでいい。揺れたままでいい。それでも、進んでいける」
星の女は、最後に、瓶に残った僅かな水を、ルナの手のひらに落とした。冷たく、澄んだ水が、指の間を伝って流れる。
「――これを持っていって。何の役に立つかは、わたしにもわからない。ただ、渡しておきたかっただけ」
「ありがとう、と言っていいんですよね」
「もちろんよ。感謝を惜しむ必要のある場所は、この世界にはあまりないの」
夜空を見上げながら、ルナは、初めて、恐れと希望が、同じ場所に同時に存在できることを知った。
山の麓に向かう道は、なだらかな下り坂だった。リオンの足の傷は、まだ完全には治っていなかったが、それでも、以前よりは、しっかりとした足取りで歩けるようになっていた。
「――リオン、その足、まだ痛む?」
「多少は。だが、動けないほどではない」
「無理しないでね」
「お前に言われるとは思わなかったな。旅の最初、わたしがお前にそう言っていた気がするが」
「役割、交代したのかも」
「それも、悪くない変化だ」
夜が更けるにつれ、気温が下がり、吐く息が白くなっていった。リオンが、荷物から毛布を取り出し、無言でルナの肩にかける。
「――ありがとう」
「礼を言うのは、カイを迎えに行ったあとにしてくれ」
「――うん。約束、忘れてないよ」
そんな短いやり取りの合間にも、二人の足は、確かに、月の座へと近づいていた。




