第十七章 崩れる塔
不吉な光は、皇帝の砦の方角から来ていた。
近づくにつれ、地面が揺れ始めた。砦の中央にそびえる尖塔――これまでは、ただ秩序の象徴として立っていたはずのそれが、根元から罅割れ、傾いていた。空には、いつもの整然とした旗の並びが乱れ、何本かはすでに、風もなく引きちぎられて、地面に落ちていた。
土煙の向こうから、悲鳴に似た兵たちの怒声が響いてくる。これまで見てきたどの領域よりも、混乱と恐怖が、剥き出しのまま渦巻いていた。
砦の門番たちも、いつもの整然とした立ち姿を崩し、右往左往していた。秩序を最も重んじるはずのこの場所が、最も無秩序な光景を晒している。その皮肉に、ルナは、恐怖の中でも、僅かな違和感を覚えた。
「――皇帝!」
リオンが叫ぶと、崩れかけた門の前に、ガイウスが立っていた。いつもの毅然とした顔が、今は焦りに歪んでいる。
「魔術師、ちょうどいい。……お前たちが、悪魔の領域で"取引"を拒んだことが、教皇の耳に入った」
「それが、なぜ塔が崩れることに繋がるの?」
「教皇の中の一部――ノクスの理を支持する者たちが、これ以上待てないと判断した。二つに分かれた矛盾を、力で還そうとしている。この塔は、その力の余波で崩れ始めた」
言い終わる間もなく、塔の上層から、鎧を着た兵たちが飛び降りてきた。彼らの手には、光る鎖――ルナが以前見た、記録簿の光と同じ色をしていた。鎖が地面に触れるたび、石畳に細かい罅が走り、その罅から、灰色の粉塵が噴き上がった。
「囲め! 二人とも、逃がすな!」
号令が響くと、兵たちは、統率された動きで、瞬く間に退路を塞いでいった。ルナは、その動きの速さに、これが本気の"排除"なのだと、初めて肌で理解した。
「捕らえよ! 矛盾は、この場で正しい形に還す!」
「――正しい形って!」
鎖が、カイに向かって伸びた。ルナが叫んで駆け寄ろうとした瞬間、リオンが彼女を庇うように前に出て、代わりに鎖を受けた。
「リオン!」
「――ルナ、カイを連れて逃げろ!」
だが、遅かった。もう一本の鎖が、カイの足に絡みついた。カイは、剣を振るって鎖を切ろうとしたが、切った先から、新しい鎖が次々と伸びてくる。
「くそ……離れろ、ルナ、これ以上近づくと――」
「離れない!」
ルナが駆け寄った瞬間、崩れる塔の破片が、二人の間に落ちた。粉塵が視界を覆う。咳き込みながら顔を上げたとき、そこにいたのは、鎖に囚われ、ぐったりと膝をついたカイの姿だった。
「――カイ!」
「大丈夫だ、まだ……消えて、ない」
「連れて行かせない!」
ルナは、杖を構え、これまでで一番強く、力を込めた。だが、兵の数は多く、鎖は次々と増えていく。リオンは、鎖に縛られたまま、それでも呪文を唱え、援護しようとしていた。
「――もう、いい」
カイの声が、静かに響いた。
「――何言ってるの、諦めないで!」
「諦めてない。ただ、ここで無理に暴れたら、お前まで巻き込まれる。お前が消えたら、俺が残っても、意味がない」
「意味がある! あなたが残るだけで、意味がある!」
粉塵の向こうから、教皇オルバの声が響いた。
「――やめよ」
その一言で、兵たちの動きが止まった。オルバが、崩れる塔の瓦礫の中を、静かに歩いてくる。
「――教皇、これはあなたの指示か!」
リオンが叫ぶと、オルバは、疲れたように頭を振った。
「わたしの指示ではない。強硬派が、わたしの目を盗んで動いた。……止めるのが、遅くなった。すまない」
「すまないだけで、済むと思ってるのか! カイが――」
「まだ、消えてはいない。鎖は、拘束のためのものだ。だが――強硬派は、次はもっと直接的な手段を取るだろう。もう、時間がない」
オルバの周りには、まだ不安げに動く強硬派の兵たちがいたが、彼の一言で、その動きは完全に止まっていた。長年、この座に立ってきた者の重みが、その一声に宿っていた。
オルバは、瓦礫の中に立ち尽くすルナを見た。
「愚者よ。お前が、まだ第三の道を探しているなら、急がねばならない。次の満月は、もう三日後だ」
「三日……」
「世界の座へ、最短の道を示す。星の導きを追え。それが、今、わたしにできる、唯一の助けだ」
オルバがそう言うと、崩れた塔の瓦礫の隙間から、小さな光が漏れ出し、夜空へ向かって一筋の道を描いた。
鎖に囚われたカイが、薄れる意識の中で、それでも笑おうとしていた。
「――行けよ、ルナ。俺のことは、あとで拾いに来ればいい」
「――泉で見た、二色の水、覚えてるか」
「覚えてる」
「あれ、俺は結構、信じてる。強がりじゃなく、ちゃんと」
「わたしも、信じてる」
「――なら、いい。行けよ」
「――もう一つだけ、忘れないで。今、感じてる怒りとか、悲しみとか、全部、無駄にしない。それが、あなたを覚えておくことになるから」
「――上手いこと言うな、まったく」
「絶対、拾いに行く。約束する」
「大した約束だな、まったく」
カイの声が、そこで途切れた。鎖の光が、彼の輪郭を、薄い霞のように覆っていく。魔術師が、痛む足を庇いながらも、ルナの肩を支えるように、隣に立った。
「――一人にはしない。約束通りだ」
ルナは、崩れる塔の瓦礫の中で、これまでの旅で一番強く、拳を握った。
失わない。何があっても、失わない。
夜空に描かれた光の道を見上げながら、ルナは、魔術師の手を借りて瓦礫の外へ這い出た。後ろを振り返ると、崩れた塔の向こうに、カイの姿はもう見えなかった。




