第十六章 半分だけの真実
悪魔の領域は、これまでのどこよりも、美しかった。
黄金色の霧が地を覆い、その中に、無数の小さな光――かつての愚者たちの残響が、ゆらゆらと漂っていた。光の一つ一つに、微かな声が宿っているようで、耳を澄ませると、途切れた言葉の断片が聞こえた。「――あと少し」「――もう一度だけ」「――誰か」。どれも、届かなかった願いの、最後の呟きのように聞こえた。
中央の祭壇に立つ影が、二人の到来を待っていた。
「――ノクス?」
「いや。わたしは、ノクスの姿を借りているだけだ。この領域では、来訪者が最も信じたい姿を取る」
影は、笑いながら、輪郭を崩し、また元の姿に戻った。声には、これまでのノクスにあった重さがなく、代わりに、蜜のような滑らかさがあった。話すたびに、周りの黄金の霧が、心地よさそうに渦を巻き、まるで、この影自身が、霧そのものの意思を持っているようだった。
「――ここでは、誰もが、一番聞きたい言葉を、聞かせてもらえるんだよ。試してみるといい」
「愚者よ。取引をしよう」
「取引?」
「お前は、カイを失いたくない。カイも、お前を失いたくない。だが、世界の座に至れば、どちらかが吸収される可能性がある。それが、お前たちの悩みの根だろう」
「――そう」
「この領域に漂う光は、すべて、過去に世界の座へ至れず消えた愚者たちの残響だ。その光を、お前が取り込めば、力が増す。増した力があれば、世界の座に至ったあとも、カイを吸収せずに、二人のまま存在し続けられるだけの器を、お前自身が持つことができる」
甘い提案だった。あまりに甘くて、ルナは、思わず頷きそうになった。頭の中で、これまでの旅の重さと、目の前の「簡単な解決」が、天秤のように揺れていた。
「――本当に、それでカイは消えなくて済むの?」
「済む。ただし、一つだけ条件がある」
影は、祭壇の上に、小さな鏡を置いた。鏡には、カイの姿が映っていた。
「取り込む力を安定させるには、"鍵"が必要だ。カイの、お前と過ごした記憶――それを、器として使わせてもらう」
「――記憶を、使うって、どういうこと?」
「カイの身体は残る。存在も残る。ただ、この旅で積み重ねた記憶――お前と出会い、恋人の谷を渡り、戦車を御し、獅子と話し、正義の座で真実を知った、そのすべての記憶が、鍵として消費される」
ルナの背筋が、冷たくなった。
「それって、カイの身体は残っても、カイが"わたしを知らない"状態になるってこと?」
「そうだ。だが、消えるよりはましだろう? 身体は残る。新しい記憶も、これから作れる」
隣で、カイが静かに拳を握った。
「――俺に、決めさせてくれ」
「お前の意思は、ここでは関係ない。ルナが選ぶことだ」
「関係ある。俺の記憶を使うんだろ、これは俺の問題だ」
影は、それには答えず、ただルナを見つめていた。ルナは、鏡に映るカイの姿と、隣に立つ本物のカイを、交互に見た。
身体は残る。存在は消えない。
その言葉だけを見れば、これまでのどの選択肢よりも、優しい提案に見えた。だが、ルナの中で、泉のほとりの光景が、ゆっくりと浮かび上がった。二色の水が、混ざりながらも、消えずに残っていたあの渦。
影は、しばらく、ルナの表情を、値踏みするように見つめていた。
「――半分だけ、本当なんだね」
「何のことだ?」
「身体が残るのは、本当。存在が消えないのも、本当。でも、それは、"わたしたちが今まで一緒に歩いてきたこと"がなかったことになる、っていう意味でもある。それは、消えるのと、何が違うの?」
影は、初めて、僅かに表情を変えた。値踏みするような、それとも、少し驚いたような色だった。
「――身体が残れば、十分だと考える者もいる」
「わたしは、十分じゃない。カイの身体だけがあって、カイがわたしを覚えていないなら、それは、カイがもう一人、いなくなったのと同じだと思う」
「では、カイが消えることを受け入れるのか?」
「――受け入れない。でも、この取引にも乗らない。第三の道を、まだ探す」
「――強がりを言っているだけではないのか? 消えるかもしれない相手を前にして、そんな冷静な判断ができるとは思えない」
「強がってるよ、多分。でも、強がりながらでも、本当のことは言える。あなたが提示した半分の真実に乗るより、まだ何もわかってない第三の道を探す方が、後で自分に嘘をつかずにいられる気がするから」
カイが、隣で静かに息を吐いた。安堵の息だった。
影は、その答えに、しばらく沈黙した。それから、ゆっくりと祭壇の光を消し、輪郭を薄れさせながら、最後にノクスの声で言った。
「――良い答えだ。だが、覚えておくといい。第三の道を探す時間は、もう、ほとんど残っていない」
領域全体が、震えるように光を失っていった。二人が来た道を戻ろうとした瞬間、遠くの地平線に、これまでとは違う、不吉な色の光が走った。
「――なんだ、あれ」
「わからない。でも、良くない予感がする」
その予感は、正しかった。二人が次に足を踏み入れる領域は、この旅の中で、最も多くのものを失う場所だった。空を走る不吉な光は、まるで、これから起こることを、あらかじめ告げる、不気味な前触れのようだった。




