第十五章 二つの水
灰色の土地を抜けると、急に、空気が緩んだ。色が戻ってくる。緑の匂いがして、遠くで鳥の声が聞こえた。静かな泉のほとりに、一人の女がしゃがみ込んでいた。二つの水差しを両手に持ち、水を交互に注ぎ合っている。
泉の水面は、これまで見たどの水面よりも澄んでいて、底に沈む小石の一粒一粒まで見通せた。ルナは、その透明さに、思わず立ち止まって見入った。灰色の土地を歩いてきた反動なのか、色があるというだけで、目の奥がじんわりと熱くなった。
「あら、お客さん」
彼女は、節制の座の主だった。名は名乗らず、ただ「注ぐ者」と呼んでくれ、と言った。腕には、細かい傷跡のようなものが幾筋も残っていたが、痛々しさよりも、むしろ、丁寧に扱われてきた道具の傷のような、静かな尊さを感じさせた。
「――ここでは、みんな、何かを混ぜたり、分けたりしているんですか」
「そういう場所、なのかもしれないわね。混ぜることと、分けることは、案外、似た作業なのよ。どちらも、ちょうどいい加減を、探すことだから」
「何をしているんですか」
「見ての通り、水を混ぜているの。こっちの器の水と、こっちの器の水を」
二つの水差しには、違う色の水が入っていた。片方は淡い青、もう片方は淡い金。彼女がそれを交互に注ぐと、器の中で、二色はゆっくりと渦を巻きながら、混ざっていった。
「――混ざったら、元の色には戻らないんですか」
「戻らないわね。でも、見てごらんなさい」
彼女が水面を指すと、渦の中に、青と金、両方の色が、消えずに、螺旋を描いて残っていた。完全に一色にはならず、それでも、もう別々の器には分けられない。
「混ざる、っていうのは、必ずしも、どちらかが消えることじゃないの。溶け合ったまま、それぞれの色を残すことも、できる」
その言葉に、ルナとカイは、思わず顔を見合わせた。
「――それ、俺たちのことを言ってるのか?」
「さあ、どうかしらね。わたしは、ただ水を注いでいるだけよ」
「注ぐ者」は、悪戯っぽく笑って、二つの水差しをルナに手渡した。
「試してみたら? あなたたちの中にある、二つのものを」
ルナは、水差しを受け取り、しばらく躊躇した。カイが、隣で小さく頷く。二人で交互に、器へ水を注いでみた。渦を巻く水面に、また同じように、二色が消えずに残った。
「――希望が持てる気がする」
「気がする、だけよ。断言はしない方がいい」
「注ぐ者」の声は、優しいが、はっきりしていた。
「わたしにできるのは、"そういう混ざり方もある"って教えることだけ。実際にあなたたちがそうなれるかどうかは、わたしにも、教皇にも、ノクスにも、決められない。あなたたち自身が、これから選ぶことよ」
「でも、道具は――」
「道具じゃないの、これは。ヒントよ。ヒントを、正しい答えだと思い込んで安心すると、痛い目を見る。悪魔の領域では、特にね」
その一言に、ルナとカイは、揃って背筋を伸ばした。ノクスが言っていた「近道」の話を、二人とも思い出していた。
「――そこに、これから行くんですね」
「ええ。行く前に、もう一つだけ言っておくわ」
「注ぐ者」は、水差しを丁寧に置き、初めて真剣な顔をした。
「悪魔の領域で提示されるものは、たいてい、"半分だけ本当"よ。全部が嘘なら、誰も乗らない。全部が本当なら、それは誘惑と呼ばれない」
「半分だけ、本当」
「どの半分が本当で、どの半分が嘘か。それを見極める力は、わたしにもあげられない。ただ、あなたたちが、ここで見た二色の水を、覚えておくといいと思うわ」
泉を離れる二人の足元に、風が優しく吹いた。カイが、ぽつりと呟いた。
「――俺、正直、期待しすぎるのが怖い」
「なんで?」
「期待して、それが叶わなかったときの落差が、一番きつい。今までも、そうだった」
「――そっか。じゃあ、期待じゃなくて、"知っておくこと"にしておこうか。可能性があるって、期待じゃなくて、ただの事実として、覚えておく」
「――そんな器用な切り替え、できるのか」
「わからない。でも、やってみる」
「うん。でも、可能性が一つあるって知っただけで、少し息がしやすくなった」
「――お前、そういうところ、ずるいよな」
「なにが?」
「すぐ、前向きになる。俺は、そんなに簡単に切り替えられない」
「切り替えなくていい。怖いままでいいよ。わたしも、隣で怖いまま歩くから」
カイは、それに応えず、ただ少しだけ、歩く速度を緩めた。並んで歩くための速度に。
泉を離れてから、道はしばらく、平坦な草原を通っていた。魔術師が、二人の少し後ろを歩きながら、ぽつりと言った。
「――お前たち、ここまで、よく歩いてきた。正直、わたしの予想を、何度も超えている」
「予想って、どんな?」
「もっと早く、心が折れると思っていた。少なくとも、皇帝の砦で、一度は。あるいは、正義の座で、あの真実を聞いた時に」
「折れそうになったよ、何回も。でも、その度に、誰かが隣にいた」
「――それが、お前の強さの正体なんだろうな」
草原の向こうに、これまでとは違う色をした霧が、うっすらと立ち始めていた。黄金色の、それでいて、どこか不安を誘う色だった。
「――あれが、悪魔の領域?」
「そうだろうな。あの色は、他のどこでも見たことがない」
カイが、剣の柄に軽く手をかけた。無意識の動きだったが、その緊張は、ルナにも伝わってきた。




