第十四章 終わりを司る者
逆さの森を抜けた先は、色のない土地だった。灰色の砂、灰色の空、灰色の川。風は吹いているはずなのに、音がしない。足音さえ、この土地では、どこか遠くから聞こえてくるように響いた。ルナは、自分の心臓の音が、いつもより大きく聞こえることに気づいた。恐れではなく、この土地そのものが、生きている音を、そうやって強調しているのかもしれなかった。
その川のほとりに、一人の男が立っていた。
黒いローブに、鎌ではなく、一冊の本を抱えている。顔は、はっきりと見えるのに、なぜか輪郭を覚えられない、そんな不思議な佇まいだった。
「――ようやく会えた。愚者よ」
「あなたが、死神?」
「そう呼ばれている。名は、ノクスだ」
リオンが、庇うように前に出た。ノクスは、それを見て、微かに苦笑した。
「魔術師、そんなに身構えなくていい。今日は、殺しに来たわけではない」
「――信じられるか」
「信じなくてもいい。ただ、話を聞いてほしいだけだ」
ノクスは、抱えていた本を開いた。頁には、無数の名前が並んでいた。その多くが、うっすらと霞がかかったように、薄くなっている。
「この本には、この世界のすべての者の"終わり"が記されている。人も、精霊も、大アルカナの座に立つ者たちも、例外はない」
「――わたしの名も、そこにあるの?」
「ある。だが、お前の名は、他の誰よりも複雑な形で記されている」
ノクスは、頁の一箇所を指した。そこには、ルナの名と、カイの名が、一本の線で結ばれていた。
「二つに分かれたまま、どちらも消えずに存在し続けている状態は、この本にとっては、"矛盾"だ。矛盾は、放っておくと、周りに歪みを広げる」
「歪みって、具体的に何が起きるの?」
「時が、正しく進まなくなる。領域の境界が、揺らぐ。すでに、いくつかの座で、小さな綻びが出始めている」
その言葉には、嘘の響きがなかった。ルナは、正義の座でアストレアが言っていた「歪み」という言葉を思い出した。二人の存在が、単に自分たちだけの問題ではないのだと、初めて理解した。
「――だから、わたしたちを、消すつもりなの?」
「消す、という言い方は正確ではない。わたしは、正しい形に戻すことを望んでいる。矛盾を、矛盾のないところへ、還すことを」
「それは、カイを、わたしの中に取り込むってこと?」
「あるいは、逆でもいい。どちらか一方が、もう一方を受け入れ、一つの完全な存在になれば、矛盾は解消される。それが、この世界にとって、最も歪みの少ない結末だ」
カイが、初めて声を上げた。
「――俺の意思は、関係ないのか」
「関係はある。だが、世界の均衡という視点から見れば、個の意思は、常に最優先事項ではない。それが、酷薄に聞こえることは、わたしも理解している」
ノクスの声には、憎しみも、悪意もなかった。ただ、あまりにも広い視点から、あまりにも遠くを見ている者の、乾いた静かさがあった。
「わたしは、かつて、個の意思を優先しすぎたことで、一つの世界が丸ごと崩れるのを見た。それ以来、わたしは、大きな綻びを防ぐことを、自分の役目だと決めている」
カイが、灰色の川を見つめながら、静かに口を挟んだ。
「――一つ、聞かせてくれ。あんたは、俺たちを"矛盾"って呼ぶけど、俺たちが生まれる前に、こうなることを防ぐ方法は、なかったのか」
「あった。前の愚者が、恐れを一人で抱え込まずに、誰かに預けていれば、こうはならなかったかもしれない。だが、それは、今さら言っても仕方のないことだ」
「――他人事みたいに言うんだな」
「他人事ではない。わたしにも、防げなかったという意味で、責任の一端はある。だが、責任を悔やむことと、今、目の前の問題を解決することは、別の作業だ。わたしは、後者に集中している」
その割り切りには、冷たさと、実直さが、同時に混ざっていた。
「――丸ごと崩れた世界って、どんな風になるの?」
ノクスは、初めて、僅かに視線を落とした。
「名前も、記録も、記憶も、何一つ残らない。今、お前が立っているこの場所のような、色のない土地に――いや、それよりも、もっと何もない場所になる。誰かを想うことも、誰かに想われることも、成立しなくなる。それが、綻びの果てだ」
その説明には、これまでのどの脅しよりも、実感が伴っていた。ノクスは、脅すためにそれを語ったのではなく、ただ、見たことをそのまま語っている、という響きだった。
「――それを、見たことがあるんですね。自分の目で」
「ある。だから、わたしは、二度と同じことを許したくない。お前を憎んでいるわけではない、と言ったのは、その意味だ」
「――その世界の名前、覚えてますか」
ノクスは、初めて、僅かに目を伏せた。
「覚えている。だが、名前を口にすることは、わたし自身への罰のようなものだから、今は、言わないでおく」
その答えには、これまでのノクスの理屈だった態度とは違う、一人の存在としての痛みが、確かに滲んでいた。ルナは、それを見て、彼を単純な敵として見ることが、もう、できなくなっていた。
「それは、あなたなりの正しさなんだね」
「そうだ。だが、正しさは、時に、誰かの願いを踏みにじる形をとる。わたしは、そのことを、悪いとは思っていない。必要なことだと思っている」
ルナは、その言葉に、反論できなかった。ノクスの理屈は、ガイウスの秩序論よりも、はるかに大きな視野に立っていて、簡単に否定できるものではなかった。
「――でも、わたしは、カイを取り込みたくない。カイも、わたしに取り込まれたくないと思う」
「では、どうする? 世界の座に至れば、矛盾は自然と解消に向かう。お前が至らなければ、いずれお前たち自身が、綻びに引き裂かれて消える。それだけの猶予しか、残っていない」
「――第三の道は、ないの?」
ノクスは、初めて、僅かに目を細めた。値踏みするような、それとも、興味を持ったような目だった。
「第三の道を探そうとする者は、これまでにも何人かいた。誰も、見つけられなかった」
「見つけた人がいない、っていうのと、存在しない、っていうのは違うと思う」
「――面白いことを言う」
ノクスは、しばらく、開いたままの本のページを、指先でなぞっていた。
「――一つ、教えておく。この本に記された"終わり"は、確定した未来ではない。あくまで、今この瞬間、最も可能性の高い結末を映しているにすぎない。お前たちの選択が変われば、この頁の記述も、書き換わる」
「――じゃあ、絶対じゃないんだ」
「絶対ではない。だが、書き換えるには、余程の強さと、余程の誠実さが必要になる。中途半端な願いは、この本の前では、あっさりと押し流される」
その言葉には、微かな期待のようなものが、隠れているようにも聞こえた。ノクス自身、それに気づいているのかどうかは、わからなかった。
カイが、灰色の川の水面を見つめながら、ぽつりと言った。
「――俺たちの選択、ちゃんと誠実だって、あんたが認めてくれる日、来ると思うか」
「――それは、お前たち自身が、決めることだ。わたしが認めるかどうかは、二の次に過ぎない」
その答えは、これまでのノクスの言葉の中で、一番、押し付けの少ない言葉だった。
ノクスは本を閉じ、静かに背を向けた。
「次に会うときは、猶予がもっと少なくなっているだろう。悪魔の領域で、お前は一度、"近道"を提示されるはずだ。それに乗るかどうかで、お前の答えが見えてくる」
「近道?」
「行けばわかる」
その言葉を残し、ノクスの姿は、灰色の川の向こうへ溶けるように消えていった。残されたルナたちは、しばらく、動けなかった。
「――怖い?」
カイが、静かに聞いた。
「怖い。でも、あの人の言うこと、間違ってない気がするから、もっと怖い」
「俺も、そう思う」
二人は、しばらく黙ったまま、灰色の川のほとりに立っていた。リオンだけが、何も言わず、拳を強く握り続けていた。
灰色の土地を、どのくらい歩いただろうか。時間の感覚が、この場所では、うまく働かなかった。歩いても歩いても、景色はほとんど変わらず、ただ、足の疲労だけが、確かな時間の証拠として積み重なっていった。
「――なあ、ルナ」
カイが、久しぶりに口を開いた。
「もし、俺が消えることになったら、お前は、どうする」
「――どうもしない。消えさせない」
「それが無理だったら、って聞いてるんだよ」
「無理じゃないようにする。それしか、答えられない」
カイは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、灰色の景色の中で、ルナの横顔を、しばらく見つめていた。リオンは、二人のやり取りを聞きながら、何かを言おうとして、結局、口を閉ざした。




