表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/22

第十三章 逆さまの視界

次の領域は、木々がすべて根を上にして生えている森だった。地面から伸びる枝は、幹よりも太く、天に向かって細く、まるで水中の藻のように、緩やかに揺れていた。空気そのものが、僅かに傾いているような感覚があり、歩いているだけで、平衡感覚が何度もぐらついた。


歩くうち、ルナは、その森の中央に、一本の大樹から逆さに吊られた人影を見つけた。


「――魔術師?」


吊られていたのは、魔術師だった。足を縛られ、頭を下にしたまま、ゆらゆらと揺れている。表情は、驚くほど穏やかだった。


「ルナか。……ずいぶん、遠くまで来たな」


「なにしてるの、そんなところで!」


「この森の決まりだ。真実を隠したまま先へ進もうとする者は、ここで、逆さに吊られる。降ろしてもらうには、隠していたことを、すべて話さねばならない」


カイが、剣に手をかけた。


「縄を切ればいいだけだろ」


「切ってもいい。だが、それでは、彼の中の"隠しごと"は解けない。この吊るしは、罰ではなく、鏡なんだ。上下を逆にすると、見えていたはずのものが、違う形に見えることがある」


ルナは、魔術師の真下に立った。逆さの彼の顔を見上げる。いつも余裕げだった表情が、今は、隠すもののない、ただの疲れた顔に見えた。


「――教えて。ずっと隠してたこと」


魔術師は、しばらく目を閉じ、それから、ゆっくりと語り始めた。


「わたしは、前の愚者の旅にも、同行していた」


「知ってた。ソルが言ってた」


「彼女が、世界の座の間際で消えたとき、わたしは、その場にいた。止められなかった。止め方を、知らなかった」


声が、少し震えた。


「彼女が消えたあと、わたしは、自分を責め続けた。もう二度と、誰かをあの場所へ連れていきたくないと思った。しばらくは、塔にこもって、誰の前にも姿を見せなかった。イリスにも、フローラにも、心配されるのが嫌で、わざと避けていた時期もある」


「――それでも、また旅人を導く仕事を続けたんだね」


「続けた、というより、他にできることがなかった。導くことをやめれば、彼女の死が、本当に何の意味もなかったことになる気がして、それだけが怖かった。……だが、そんな日々の中に、お前が現れた」


「――だから、最初、わたしのことを心配そうに見てたんだね」


「心配、というより、怖かったんだ。またお前を失うのが。だから、本当のことを、少しずつしか話せなかった。知れば、お前が怯えて、進めなくなると思っていた」


「それは、わたしのためって言いながら、本当は――」


「――自分が、また同じ後悔をするのが怖かった。その通りだ。お前の言う通りだよ」


その正直さに、ルナは、しばらく何も言えなかった。裏切られた、という気持ちと、彼もまた、恐れを抱えたまま歩いていたのだという気持ちが、同時に胸の中にあった。


逆さの木々の葉が、風もないのに、さらさらと音を立てた。まるで、この森自体が、二人の会話の続きを、静かに促しているようだった。


カイが、逆さの木の一本に手をかけながら、静かに口を挟んだ。


「――魔術師。もう一つ、聞いていいか。前の愚者が消えたとき、あんたは、その場で何をしてたんだ」


魔術師の顔が、また、痛みを堪えるように歪んだ。


「――何も、できなかった。ただ、名前を呼んでいた。呼び続ければ、引き止められると、本気で思っていた」


「呼び声は、届いたのか」


「届かなかった。届く前に、光が全部、散ってしまった」


その答えを聞いて、カイは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、逆さの木を見上げ、しばらく黙っていた。


やがて、カイは、静かに、地面に落ちていた小さな木の実を拾い上げ、逆さの枝の一本に、そっと置いた。


「――なにしてるの?」


「わからない。ただ、何か、置いておきたかった。ここで名前も呼べなかった誰かのために」


その行動には、これまでのカイの皮肉げな態度からは想像できない、静かな祈りのようなものがあった。ルナは、その背中を、しばらく、黙って見つめていた。


「――もう一つ、聞きたいことがある。ここに来る前、正義の座で聞いた。世界の座に至ると、カイが吸収されるかもしれないって」


魔術師の表情が、初めて大きく動いた。


「――知っていたんだね」


「知っていた。だが、確証はなかった。もし本当にそうなるなら、と思うと、それも言えなかった」


「なんで、そんなに、言えないことばかりなの」


「――怖いからだ、ルナ。すべてを話して、お前が絶望して立ち止まるのが。だが、今わかった。話さないことの方が、もっとお前を傷つけていた」


森の風が、逆さの木々の葉を揺らした。ルナは、ゆっくりと剣を抜こうとするカイを止め、代わりに、自分の手で縄をつかんだ。


「――降ろすよ」


「――怒っていないのか?」


「怒ってる。でも、あなたも、怖いまま歩いてたってわかった。それは、わたしと同じだから」


縄を解くと、魔術師はゆっくりと地面に降り、しばらく四つん這いのまま、大きく息をついた。


「――ありがとう」


「これからは、怖くても、先に話して」


「約束する」


「――もう一つ。前の子の名前、教えて」


魔術師は、少し驚いたように、ルナを見た。それから、静かに、口を開いた。


「――ミラ、という名だった」


「ミラ」


「その名を、口にするのは、久しぶりだ」


「今度、ミラの話も、ゆっくり聞かせて。悲しい話でも、聞きたい」


魔術師は、しばらく黙り、それから、小さく頷いた。約束が、また一つ、積み重なった。


その約束が、これまでの旅の中で、一番重い約束のように感じられた。


森を歩きながら、カイが、珍しく自分から口を開いた。


「――お前、魔術師を、簡単に許したな」


「簡単じゃないよ。今も、少し怒ってる」


「怒ってるのに、縄を解いたのか」


「怒ってることと、助けないことは、別だから。それに、怒ったままでも、隣を歩くことはできるって、獅子と話したときに、わかったから」


カイは、それ以上何も言わず、ただ、少しだけ歩幅を緩めた。逆さの森を抜ける頃には、空の色が、これまでよりも澄んで見えた。まるで、隠しごとが一つ減った分だけ、視界が広くなったかのように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ