第十三章 逆さまの視界
次の領域は、木々がすべて根を上にして生えている森だった。地面から伸びる枝は、幹よりも太く、天に向かって細く、まるで水中の藻のように、緩やかに揺れていた。空気そのものが、僅かに傾いているような感覚があり、歩いているだけで、平衡感覚が何度もぐらついた。
歩くうち、ルナは、その森の中央に、一本の大樹から逆さに吊られた人影を見つけた。
「――魔術師?」
吊られていたのは、魔術師だった。足を縛られ、頭を下にしたまま、ゆらゆらと揺れている。表情は、驚くほど穏やかだった。
「ルナか。……ずいぶん、遠くまで来たな」
「なにしてるの、そんなところで!」
「この森の決まりだ。真実を隠したまま先へ進もうとする者は、ここで、逆さに吊られる。降ろしてもらうには、隠していたことを、すべて話さねばならない」
カイが、剣に手をかけた。
「縄を切ればいいだけだろ」
「切ってもいい。だが、それでは、彼の中の"隠しごと"は解けない。この吊るしは、罰ではなく、鏡なんだ。上下を逆にすると、見えていたはずのものが、違う形に見えることがある」
ルナは、魔術師の真下に立った。逆さの彼の顔を見上げる。いつも余裕げだった表情が、今は、隠すもののない、ただの疲れた顔に見えた。
「――教えて。ずっと隠してたこと」
魔術師は、しばらく目を閉じ、それから、ゆっくりと語り始めた。
「わたしは、前の愚者の旅にも、同行していた」
「知ってた。ソルが言ってた」
「彼女が、世界の座の間際で消えたとき、わたしは、その場にいた。止められなかった。止め方を、知らなかった」
声が、少し震えた。
「彼女が消えたあと、わたしは、自分を責め続けた。もう二度と、誰かをあの場所へ連れていきたくないと思った。しばらくは、塔にこもって、誰の前にも姿を見せなかった。イリスにも、フローラにも、心配されるのが嫌で、わざと避けていた時期もある」
「――それでも、また旅人を導く仕事を続けたんだね」
「続けた、というより、他にできることがなかった。導くことをやめれば、彼女の死が、本当に何の意味もなかったことになる気がして、それだけが怖かった。……だが、そんな日々の中に、お前が現れた」
「――だから、最初、わたしのことを心配そうに見てたんだね」
「心配、というより、怖かったんだ。またお前を失うのが。だから、本当のことを、少しずつしか話せなかった。知れば、お前が怯えて、進めなくなると思っていた」
「それは、わたしのためって言いながら、本当は――」
「――自分が、また同じ後悔をするのが怖かった。その通りだ。お前の言う通りだよ」
その正直さに、ルナは、しばらく何も言えなかった。裏切られた、という気持ちと、彼もまた、恐れを抱えたまま歩いていたのだという気持ちが、同時に胸の中にあった。
逆さの木々の葉が、風もないのに、さらさらと音を立てた。まるで、この森自体が、二人の会話の続きを、静かに促しているようだった。
カイが、逆さの木の一本に手をかけながら、静かに口を挟んだ。
「――魔術師。もう一つ、聞いていいか。前の愚者が消えたとき、あんたは、その場で何をしてたんだ」
魔術師の顔が、また、痛みを堪えるように歪んだ。
「――何も、できなかった。ただ、名前を呼んでいた。呼び続ければ、引き止められると、本気で思っていた」
「呼び声は、届いたのか」
「届かなかった。届く前に、光が全部、散ってしまった」
その答えを聞いて、カイは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、逆さの木を見上げ、しばらく黙っていた。
やがて、カイは、静かに、地面に落ちていた小さな木の実を拾い上げ、逆さの枝の一本に、そっと置いた。
「――なにしてるの?」
「わからない。ただ、何か、置いておきたかった。ここで名前も呼べなかった誰かのために」
その行動には、これまでのカイの皮肉げな態度からは想像できない、静かな祈りのようなものがあった。ルナは、その背中を、しばらく、黙って見つめていた。
「――もう一つ、聞きたいことがある。ここに来る前、正義の座で聞いた。世界の座に至ると、カイが吸収されるかもしれないって」
魔術師の表情が、初めて大きく動いた。
「――知っていたんだね」
「知っていた。だが、確証はなかった。もし本当にそうなるなら、と思うと、それも言えなかった」
「なんで、そんなに、言えないことばかりなの」
「――怖いからだ、ルナ。すべてを話して、お前が絶望して立ち止まるのが。だが、今わかった。話さないことの方が、もっとお前を傷つけていた」
森の風が、逆さの木々の葉を揺らした。ルナは、ゆっくりと剣を抜こうとするカイを止め、代わりに、自分の手で縄をつかんだ。
「――降ろすよ」
「――怒っていないのか?」
「怒ってる。でも、あなたも、怖いまま歩いてたってわかった。それは、わたしと同じだから」
縄を解くと、魔術師はゆっくりと地面に降り、しばらく四つん這いのまま、大きく息をついた。
「――ありがとう」
「これからは、怖くても、先に話して」
「約束する」
「――もう一つ。前の子の名前、教えて」
魔術師は、少し驚いたように、ルナを見た。それから、静かに、口を開いた。
「――ミラ、という名だった」
「ミラ」
「その名を、口にするのは、久しぶりだ」
「今度、ミラの話も、ゆっくり聞かせて。悲しい話でも、聞きたい」
魔術師は、しばらく黙り、それから、小さく頷いた。約束が、また一つ、積み重なった。
その約束が、これまでの旅の中で、一番重い約束のように感じられた。
森を歩きながら、カイが、珍しく自分から口を開いた。
「――お前、魔術師を、簡単に許したな」
「簡単じゃないよ。今も、少し怒ってる」
「怒ってるのに、縄を解いたのか」
「怒ってることと、助けないことは、別だから。それに、怒ったままでも、隣を歩くことはできるって、獅子と話したときに、わかったから」
カイは、それ以上何も言わず、ただ、少しだけ歩幅を緩めた。逆さの森を抜ける頃には、空の色が、これまでよりも澄んで見えた。まるで、隠しごとが一つ減った分だけ、視界が広くなったかのように。




