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第十二章 天秤が示すもの

運命の輪を抜けた先、正義の座へと続く道の入口に、見覚えのある人影が立っていた。


「――遅かったな」


魔術師だった。恋人の谷で別れて以来、初めて見る姿だった。


「――ずっと、待ってたの?」


「待っていた、というより、待つしかなかった、が正しい。"選ぶ者だけが通れる場所"の外までしか、わたしは入れない。輪が回る重い音だけを、ここでずっと聞いていた」


その声には、これまで聞いたことのない、安堵に似た響きがあった。ルナは、その響きに、なぜか胸の奥が緩むのを感じた。


「――ここから先は、二人で行け。正義の座は、当事者以外を入れない」


「あなたは?」


「ここで待っている。今度は、ちゃんと」


その一言に、恋人の谷で置いていかれたときとは違う種類の安心感があった。ルナは小さく頷き、カイと並んで、広間へと続く扉を見上げた。

正義の座は、白い柱が並ぶ、簡素な広間だった。柱の一本一本に、細い文字で何かが刻まれているが、近づいて読もうとしても、目を離した瞬間、文字の並びが変わっているような気がした。装飾はなく、色もほとんどない。ただ、正しさだけを映すための場所、という以外の目的が、何一つ許されていないような空間だった。


天秤を持つ女――アストレアは、二人が入るのを待って、ゆっくりと天秤を掲げた。彼女の衣は、白でも黒でもなく、その両方が縦の縞になって織られていた。どちらの色に肩入れすることもない、という意思の表れのように見えた。


「――久しいな、カイ」


「知り合いなのか?」


ルナが聞くと、カイは苦い顔をした。


「一度、天秤に乗せられたことがある」


「乗せられて、どうなったの?」


「釣り合わなかった。だから、まだこうして歩いている」


アストレアは、その言葉を訂正するように、静かに口を開いた。


「釣り合わなかった、というのは正確ではない。カイ、お前は――まだ、"半分"のままだからだ」


アストレアは、天秤をそっと下ろし、壁に並ぶ柱の一本に、指を這わせた。柱に刻まれた文字が、その指の動きに合わせて、微かに発光する。


「この柱の一本一本には、過去にここへ来た者たちの記録が刻まれている。名前、選択、結果。読みたければ、読んでいい」


ルナは、恐る恐る、近くの柱に触れた。文字が浮かび上がり、見知らぬ誰かの旅の断片が、脳裏に流れ込んでくる。誰かが泣きながら選んだ道、誰かが笑いながら諦めた道。数え切れないほどの「選んだ結果」が、そこに刻まれていた。


「――こんなに、たくさんの人が」


「そうよ。あなたたちだけが、特別に苦しい道を歩いているわけではない。ただ、あなたたちの道は、これまでの誰の道とも、形が違う。それだけのことよ」


広間の空気が、一段冷たくなった気がした。


「半分? どういうこと?」


ルナが問うと、アストレアの目が、初めてルナに向いた。


「愚者よ。お前は、教皇から、自分が"残響"だと聞いただろう」


「聞きました」


「その残響には、時に、一つではなく、二つに分かれて生まれることがある。強すぎる願いや、深すぎる後悔が、一つの器に収まりきらなかったとき」


天秤が、微かに揺れた。


「――カイ」


「言うなよ、アストレア」


「言わねば、この子は、いつか自分で気づいて、もっと深く傷つく。今、正しく知る方がいい」


アストレアは、天秤の片方の皿に、小さな光の粒を乗せた。もう片方の皿には、何も乗せていないのに、天秤はぴたりと釣り合った。


「カイ、お前とルナは、同じ一つの魂の、残響から生まれた。片方は、恐れを抱えたまま先へ進もうとする性質を継ぎ、もう片方は、繋がりを恐れて逃げる性質を継いだ」


ルナは、カイを見た。カイは、目を逸らさなかった。ただ、これまで見たどの表情よりも、覚悟に近い顔をしていた。


「――知ってたの、最初から?」


「途中で気づいた。恋人の谷で、お前が"置いていかない"って言ったとき。俺の中の何かが、お前の言葉に、まるで自分の言葉みたいに、反応したんだ」


「――それだけで、わかるものなの?」


「わかる、というより、感じた、って言った方が近いな。お前が笑うと、俺の胸の奥も、同じ形に緩む。お前が怖がると、俺の中の同じ場所が、先に強張る。まるで、同じ弦を、二つの楽器が同時に弾いているみたいだった」


カイの言葉には、これまでの皮肉げな口調が消え、ただ、正直な戸惑いだけが残っていた。


「――気づいたとき、怖くなかった?」


「怖かったよ。自分が、"自分だけのもの"じゃないんだって、突然知らされるのは。でも、同時に、少しだけ、安心もした」


「安心?」


「一人で全部抱えなくていいのかもしれない、って。そう思えたのは、初めてだった」


「じゃあ、わたしたちは――」


「兄妹でも、恋人でもない。もっと近い。一つだったものの、片方と片方だ」


アストレアが、静かに続けた。


アストレアの声が、広間の白い柱に、静かに反響した。まるで、柱そのものが、その事実を、記憶に刻みつけているようだった。


「この事実には、もう一つ側面がある。よく聞きなさい。――片方が"世界"の座に至り、完全な形を取り戻したとき、もう片方は、その完成のために吸収される可能性がある。二つの半分は、本来、一つに戻ることを望んでいるからだ」


「――吸収?」


「消える、と言い換えてもいい。カイという名も、この旅で刻んできた記憶も、すべて、ルナという一つの完成の中に溶けて、なくなる」


その言葉に、ルナの手が、冷たくなった。


「――それは、絶対に嫌」


「絶対、と言えるのは、まだお前が、その選択を迫られていないからだ」


アストレアの声には、非難も同情もなかった。ただ、これから起こることを、あらかじめ告げる、天秤そのものの声だった。


「わたしは、そのために忠告しに来たわけではない。忠告すべきことは、もう一つある」


天秤が、再び揺れた。今度は、明確に、一方に傾いていく。


「――お前たちが世界の座に近づくほど、この事実は、周囲にも知られていく。死神は、すでに気づいている」


「死神?」


「終わりを司る者だ。彼は、"不完全な残響が、二つに分かれたまま存在し続けること"を、世界の歪みの最たるものだと考えている。近いうちに、お前たちの前に、直接姿を見せるだろう」


アストレアは、天秤をゆっくりと下ろし、二人を交互に見た。


「――もう一つ、伝えておくべきことがある。お前たちのような、"二つに分かれた残響"が、これまで一度も、世界の座に至った例はない。至った者は、必ず、一つのまま歩いてきた者たちだった」


「――前例がない、っていうのは、不可能ってこと?」


「不可能とは言っていない。前例がない、というのは、単に、まだ誰も試していない、という事実だけだ。だが、試した者がいない以上、待っている結末が、良いものか悪いものか、誰にも保証できない」


「保証がなくても、進むしかないですよね」


「そうだ。わたしは、天秤を持つ者として、結末を保証することはできない。だが、一つだけ、約束できることがある。お前たちが、どのような結末を選んだとしても、その選び方が誠実であったかどうかは、わたしが正しく見届ける」


その言葉には、これまでの誰の言葉より、乾いた誠実さがあった。ルナは、それを、慰めとしてではなく、覚悟として受け取った。柱の間を吹き抜ける風が、彼女の背を、そっと押すように感じられた。


「――アストレア。もう一つ、聞いていいですか」


「聞きなさい」


「あなたは、天秤を持つ者として、これまで、何度、悲しい結末を見届けてきたんですか」


「数えていない。だが、少なくない」


「それでも、この仕事を続けるのは、なぜですか」


「――誰かが、公平に見届けなければ、悲しい結末は、より一層、孤独なものになる。わたしがいることで、その孤独が、僅かでも和らぐなら、それだけで、続ける理由になる」


その答えに、ルナは、これまで単なる「審判者」としてしか見ていなかったアストレアの中に、確かな優しさを見つけた。白い柱の間を吹く風が、その優しさを、静かに二人の間に運んでいるようだった。


広間を出る二人の足取りは、これまでよりも重かった。カイは、しばらく無言だったが、やがて、小さく口を開いた。


「――怖くなったか? 俺のこと」


「怖くない。ただ、悲しい」


「悲しい?」


「あなたが、いつか消えるかもしれないって、知ってしまったこと。知らなければ、もっと単純に、隣を歩けたのに」


カイは、少し驚いたように、ルナを見た。


「――お前、ソルの言葉、覚えてるか。急ぐ者は、道の途中にあるものを見過ごす、って話」


「覚えてる」


「悲しんでる時間があるなら、それは、見過ごしてないってことだ。多分、それでいいんだと思う」


その言葉に、ルナは小さく頷いた。悲しみを消そうとせず、悲しみを抱えたまま、二人はまた、次の道へ足を向けた。


正義の広間を出てから、しばらく、誰も口を開かなかった。魔術師も、いつもの軽口を挟まず、ただ黙って先を歩いていた。


「――リオン」


ルナが、初めて、魔術師の名を呼んだ。彼が立ち止まり、驚いたように振り返る。


「――どうして、今、その名を」


「呼びたい気分だった。あなたも、"魔術師"じゃなくて、名前を持ってるはずだから」


リオンは、少し戸惑ったように、それでも、どこか嬉しそうに、目を細めた。夕暮れの光が、彼の顔に、これまで見たことのない、柔らかな輪郭を与えていた。


「――久しぶりに呼ばれた気がする、その名を」


「変な感じ?」


「悪くない感じだ」


三人は、しばらく、無言のまま、暮れていく道を歩き続けた。夕陽が、これまで歩いてきた道のりを、オレンジ色に染め上げ、まるで、その色そのものが、積み重ねてきた時間を、労うようだった。


広間の中で聞いたことを、リオンにどう話すか――ルナは、まだ、言葉を選びかねていた。今夜でなくてもいい、そんな気がした。


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