冤罪の祟りに怯えます
藤原四兄弟の政権は長く続かなかった。四人とも天平九年(七三七年)に天然痘に感染して病死した。これは冤罪で滅ぼされた長屋王の祟りと言われた。藤原氏は長屋王よりも前から祟りを抱えていた。蘇我善徳は中臣鎌足によって乙巳の変の冤罪で滅ぼされた。その過去の冤罪が、藤原氏に呪いをもたらしたのかという疑問が語られた。
「過去の行為が、藤原氏に呪いをもたらしたのか」
光明皇后は天平一一年(七三九年)年、法隆寺に夢殿を建立した。聖徳太子を供養する堂である。本来は蘇我善徳を供養しなければならないが、日本書紀では善徳は逆賊であり、蘇我入鹿とされている。蘇我善徳を公に供養すると大化の改新の欺瞞と冤罪が明らかになってしまう。そこで聖徳太子の供養とした。
「冤罪を作った過去を償うため、この堂を建てました。善徳の魂が安らかに眠ることを願います」
光明皇后は語った。壮大な堂内に静かに立つ皇后の姿は、力強くも儚い光景であった。藤原氏の過去の罪と冤罪を忘れず、未来への新たな希望を築こうとする決意が夢殿の柱と屋根の下で心に灯った。
「冤罪を償うことは善行です。仏法の精神に則った行為です」
仏僧は答えた。夢堂の中には、過去と現在が交錯し、冤罪と祟りを贖いの精神で包み込む空気が漂っていた。
聖武天皇は国分寺・国分尼寺建立を進めた。これは光明皇后が勧めたものであった。国分尼寺の正式名称は法華滅罪之寺で、その名前には深い意味が込められていた。それは、冤罪を作った藤原氏の罪を滅ぼすという意味であった。
国分尼寺は法華滅罪之寺が正式名称である。冤罪を作った藤原氏の罪を滅する意味を込めている。
「冤罪を清めて祈ります。国分寺と国分尼寺を建立し、その意味を広く知らせましょう」
国分尼寺の建立は、冤罪を滅ぼすという目的を持ちながら、政治的な複雑さを抱えていた。それは過去の冤罪とその影響がまだ強く残っていたからだ。しかし、寺院が建立されたことで、国中にその意味と目的が広まり、冤罪を払拭し、正義を追求する新たな時代への希望が芽生えた。それは光明皇后が生み出した、冤罪の贖いへの永遠の祈りの一部であった。
堂内で一人静かに祈る光明皇后の耳に、仏僧の声が響いた。
「法華滅罪之寺には、多くの人々の祈りが集まります。彼らの願いが届くと信じています」
皇后は微笑みながら頷き、心の中で感謝の言葉を捧げた。国分尼寺は皇后の決意と願いが詰まった建造物であり、その存在が多くの人々に希望をもたらした。
この光明皇后の立ち位置は諸説ある。第一に藤原氏の権力拡大を進め、冤罪を作る側とする。この説では夢殿建立などは自分の罪滅ぼしの為となる。
第二に冤罪を作る藤原氏の手口を嫌悪したとする。光明皇后は藤原不比等と県犬養橘三千代の娘である。県犬養橘三千代は藤原氏に対抗した橘氏の祖である。光明皇后は不比等の娘よりも三千代の娘の立場が強かったとする。光明皇后は藤原氏の作った冤罪を知り、それを憎んでいた。この説では夢殿建立などは藤原氏への批判も込めていることになる。
保身のために冤罪を生みだす藤原氏の体質は現代日本の官僚にも継承されている。「冒険を好まず、自己保身に走り、特権を享受する官僚の原形を作ったのは、藤原貴族社会ではなかったか」(関裕二『藤原氏の正体』新潮文庫、2008年、279頁)。
自己保身と点数稼ぎの体質が、冤罪を生み出し、無実の者を犠牲にすることとなった。圧力、脅迫、そして意外な情報のリーク。彼らはあらゆる手段を駆使して闇の秘密を守り続けようとする。
袴田事件は、その闇の中で繰り広げられた悲劇の一幕である。再審決定は有罪を決定づけた証拠の一つである「血の付いた衣服」が、捏造され、仕込まれたものである可能性が高いとした。ところが、検察は再審公判で立証方針を明らかにせず、三か月引き伸ばした挙句に有罪立証の方針を出した。




