蘇我氏と藤原氏は連続します
藤原四兄弟の後は藤原仲麻呂が藤原氏で権勢を誇った。仲麻呂は南家の祖である藤原武智麻呂の次男として生まれた。この頃の権力闘争は冤罪に加えて毒殺という卑怯な手段も用いられた(船山信次『毒が変えた天平時代 藤原氏とかぐや姫の謎』原書房、2021年)。貴族達は毒を使い、命を奪い、その恐怖と陰謀の中で暮らしていた。
これも貴族の体質と見ることは一つの見解である。鎌倉時代を舞台とした歴史小説では毒殺が公家勢力の卑怯さを印象付けるものと描かれる。鎌倉武士は毒を使う者に対して侮辱的な評価を下す。
「毒を用いてなんの武者にござるか」(『時宗 巻の壱 乱星』日本放送出版協会、2000年、76頁)
「毒を用いるような者にこの国を預けるわけには参りませぬ」(同96頁)
一方で藤原仲麻呂個人の異質さで説明することもできるだろう。毒殺という卑怯な手段は藤原一族にも向けられることがあった。しかし、藤原氏は他氏を排斥する段階では一族内では結束したイメージがある。
仲麻呂は恵美押勝の名を賜り、藤原恵美家として藤原氏からも特別になろうとした。恵美押勝は人民を「恵む美」に優れ、乱を防いで「押し勝つ」功績があったことに由来する。私的に銭貨を鋳造し出挙を行い、恵美家の印を公的に用いることを許された。自らの国家を作るような動きであり、藤原氏の権力掌握からすれば異質である。
藤原氏の権力の源泉は天皇との姻戚関係である。これは蘇我氏の焼き直しであった。古い蘇我氏と新しい藤原氏という対比は正しくない。蘇我氏と藤原氏は連続性がある。
蘇我氏と比べて藤原氏の優れていたことは戦前的な長子単独相続ではなく、一族の分立である。不比等の子は北家、南家、式家、京家に分かれた。当時は一つの一族が高位高官を独占することはできない暗黙の了解があった。これに対して藤原氏は北家から一人、南家から一人と各家を一つの一族のように扱うことで避けた。加えて、どこかの家が衰えても、他の家が権力を握り、藤原氏は他氏を圧倒することができた。ここには市場主義的な感覚があった。
藤原氏は一族の対立を避けるために、内部での調整と協力を大切にした。蘇我氏は分家が惣領家に反発し、敵対的な勢力と結びついて惣領家を滅ぼす側に回った。これに対して藤原氏は分家を立てることで不満や対立を最小限に抑えた。その違いが、藤原氏の強固な結束力の礎となった。
時が経ち、藤原氏の中で北家が優越性を確立した。北家は、その力を強化し、公家社会において主要な存在となった。しかし、すぐに公家の時代が終わり、武士の時代に入りつつあった。その頃に北家は五摂家に枝分かれした。
公家が衰えつつある時代こそ惣領に集中させて乗り切らないと考えるかもしれながいが、それは素人考えである。権力の集中は不満を高める。五摂家の分立こそが摂関家が続いた知恵である。むしろ家を分けることで藤原氏全体の地位は高まった。分立を通じて藤原氏全体の地位を高めることの重要性を理解していた。それぞれの家は独自の道を歩みながらも、一つの名族としての誇りを胸に抱いた。




