乙巳の変が起こります
皇極天皇は奥へと立ち去った。中大兄皇子は「蘇我氏が大王の力を衰えさせようとしている」ことを大義名分とする。しかし、大王が蘇我氏に政治を任せており、中大兄皇子がしたことは紛れもなくクーデターである。実際、クーデター後に皇極天皇は退位する。初の生前退位である。
善徳暗殺を聞いた蘇我蝦夷も一三日に火を放って自殺し、蘇我氏本家は滅亡する。善徳が暗殺された段階では、中大兄皇子の行動はクーデターに過ぎず、諸豪族の帰趨も不明であり、蘇我氏の戦力も無傷であった。そのため、蝦夷が抗戦しようと思えば抗戦できたし、実際、中大兄皇子側もその覚悟でいた。ところが蝦夷は甘樫丘の邸宅に火を放って自殺してしまう。
蘇我氏の指導者は長兄の善徳であった。彼が暗殺されてしまったため、蝦夷自身にも諦めの気持ちが生まれ、抗戦は無駄との結論に至った。また、これまで諸豪族の支持の下に行動してきた蘇我氏にとって、諸豪族が中大兄側に集まりつつある状況も判断に影響を与えた。蘇我氏は独善的な一族ではなく、最後まで諸豪族との和を重視した。
蘇我氏にとっての理想とは、豪族が団結することであった。豪族間の対立が激しい時代にあっても、蘇我氏は他の豪族と協調していた。豪族の利害を調整するために、蘇我氏は政治の実権を握る必要があった。それが蘇我氏の理想であり、夢でもあった。
クーデター成功後、中大兄皇子らは自分達の悪逆な行動を正当化するため、善徳に入鹿という穢名を与え、悪者に仕立て、善徳の事績は別人の聖徳太子のものにしてしまう。この方針はその後の天武・持統にも引き継がれ、日本書紀編纂に反映される。歴史は勝者に都合のいいように作り変えられてしまう。
聖徳太子怨霊説・法隆寺の怨霊封じ込め説がある(海原猛「隠された十字架」)。これは本来の聖徳太子を無念の死を遂げた蘇我善徳と解すると、怨霊とされなければならない理由が明確化する。善徳の事績は抹消されたままであり、善徳の事績が抹殺されている限り、善徳の名誉回復は不可能だった。善徳の事績の否定は、善徳への冒涜であり、許せないことであった。
乙巳の変は蘇我氏の専横ではなく、中大兄皇子の権力欲や嫉妬心から起きた。進歩的な改革というよりも、蘇我氏の進歩的な政策を潰すための反動クーデターであった。この物語は善の物語である。善なる者、それは誰か。乙巳の変で蘇我氏を失脚させた人物が善なる者ではない。乙巳の変後の外交政策は善徳の中国との善隣外交から百済一辺倒に逆戻りしてしまう。善徳亡き後の倭国は百済復興という無謀な戦いを進め、白村江で大敗し、亡国の危機に陥った。




