蘇我入鹿はどこにいる
善徳は皇極四年(六四五年)六月一二日に飛鳥板蓋宮に参内した。この日は三韓貢進の日である。三韓からの貢物が大極殿で皇極天皇に奉られる。
善徳は慎重な人物であったため、どのような時も太刀を肌身離さず持っていた。ところが、この日は道化が立ち塞がった。道化は滑稽な仕草をしながら、善徳をからかい、太刀を外させた。善徳は笑って太刀を渡してしまった。崇峻天皇の暗殺は東国の調の日であった。イベントは人間を油断させてしまいがちである。中大兄皇子は宮門を閉じさせた。
善徳が入ってきた途端、部屋の空気が一気に変わったように感じられた。先ほどまでは誰もが笑顔で談笑していたが、今は皆黙り込んでいた。誰一人身動きしない異様な雰囲気の中を善徳は悠然と歩いた。
善徳は無表情のまま部屋を見回した。
「おはよう」
善徳の言葉を聞き漏らすまいと耳を傾けている。それはごく自然な挨拶であったが、発言した瞬間に分かった。この部屋にいる全員が自分の話を聞くために集中していると。それがどれほど恐ろしいことかと善徳は理解した。しかし、もう後には引けないと腹をくくるしかなかった。この日が来るのを恐れていた。しかしいつかはこの時がやってくると思っていた。
皇極天皇が出座し、傍らには古人大兄皇子が侍る。蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げる。善徳は堂々たる姿で聴いている。次第に石川麻呂は手が震え、声が乱れ、全身から汗が噴き出した。不審に思った善徳は「何故震えているのか」と尋ねた。石川麻呂は「大王の御前だからです」と答えることが精一杯であった。
実は陰謀では刺客二人が善徳を切る手筈になっていたが、現れなかった。刺客は二人とも善徳の堂々たる姿に恐れをなして、動けなかった。この時、中大兄皇子自らが剣で入鹿を切りつけた。
「私に何の罪があるのか」
善徳は血を流して呻いた。呻いた途端、激しい痛みがした。まるで誰かに体を強く押さえつけられているような痛み方である。中大兄皇子の眼光は酷薄で非情であった。粘りつくような憎しみだった。耳をつんざかんばかりの悲鳴が上がった。
「入鹿?」
善徳は呟いた途端に激しい頭痛がした。……何故、このような時に。そう思う間もなく私の脳裏に何かの映像が流れ込んできた。一瞬のことだがそれが何なのかすぐにわかった。入鹿と私との間には何らかの関わりがあるのだ。それこそが善徳の記憶に隠された秘密だったのだ。私は必死になって頭の激痛に耐えた。
……入鹿が?……そうだ、確かに見たことがある。あの日、私が見てしまったあの光景は……。あの瞬間のことを私はありありと思い出した。あれは何だったのか、今となってはよくわからないけれど、あれだけは事実に違いない。あそこに居合わせなければあんな場面など見ることはありえない。
死にゆく間際に善徳は自分が聖徳太子だけでなく、蘇我入鹿であることに気付いた。どうりで蘇我入鹿が登場しなかったのか。善徳は慌てて両手で頭をかかえこんだ。その手から力が抜け落ちそうになるほど、強烈な痛みだった。




