山背大兄王襲撃
皇極二年(六四三年)、善徳は山背大兄王の排除を決断する。これは蘇我氏の悪行と知られているが、蘇我氏の血を引くにも関わらず反蘇我宗家の態度をとった非主流派皇族の排除という点で、馬子が穴穂部皇子や崇峻天皇を滅ぼしたことと同じ問題である。
善徳は、これまでの蘇我氏の行動と同じく諸王族・豪族のコンセンサスの下に進めた。蝦夷、軽皇子、巨勢徳太古臣、大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫ら六名で鳩首会議を開き、山背大兄王排斥を決定する。
軽皇子は押坂彦人大兄皇子の王子の茅渟王の息子である。軽皇子は皇極天皇の弟である。大王位の有力候補が消えることで、利益を得る人物である。巨勢徳太は軽皇子の側近である。軽皇子は乙巳の変後に孝徳天皇として即位する。山背大兄王襲撃が悪行ならば、襲撃犯の一味が大王に即位することは筋が通らない。
山背大兄王は十一月一日に襲撃された。山背大兄王側には三輪文屋君らが仕えており、攻め手に弓矢で反撃して一度は撃退した。三輪文屋君は三輪君逆の孫の孫である。
山背大兄王は寝所に馬の骨を投げ入れ、自分の死を偽装した上で、一族を連れて斑鳩を離れ、生駒山に隠れた。
「東国に逃れて再起を図りましょう。東国で軍勢を仕立てて攻めあがりましょう」
「自分がもし軍を起こせば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つをくれてやろう」
三輪文屋君は進言したが、山背大兄王は応じず、斑鳩に戻った。
山背大兄王は十一月十一日に一族二十人とともに首をくくって自殺した。日本書紀は山背大兄王を美化するが、「わが身一つ」と言いながら、一族を道連れにしている。平和主義の無抵抗というものでもない。蘇我蝦夷の滅び方も同じようなものである。山背大兄王を聖人視することはダブルスタンダードになる。実際、推古天皇の後継大王位を田村皇子と争った際は、権力志向の強い自己中心的な強引な性格を見せていた。
この背後では中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀が進んでいた。鎌足は飛鳥寺で行われた蹴鞠の席で脱げ落ちた中大兄皇子の靴を拾って渡すことで、中大兄皇子に近づいた。二人は蘇我氏の傍流の蘇我倉山田石川麻呂を陰謀に引き込んだ。傍系が不満分子になることは蘇我氏の弱点であった。
大饗宴は終わりつつあった。
「さあ皆さま方にはここでしばらくご歓談をお楽しみくださいませ。私共はこれにて……」
参加者は退席し始めていた。
「ではそろそろおいとましようか」
白髪の男が声をかけた。その顔立ちは武人であることを窺わせるものだった。彼が立ち上がる気配を見て、葛城出身の男も腰を上げた。そして二人の姿を認めた鎌足も、無言のまま立ち上がった。しかし葛城出身の男は立ち上がりながらも首を横に振った。
「申し訳ありません。少しだけ用事がございますのでお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「しかし……」
「私が頼んでいるのだ」
白髪の男は不愉快そうな表情を見せながら小さく息を吐くと、再び座り直した。その様子を目にして、葛城出身の男は目配せをするかのような仕草をしてみせた。鎌足はそれに応えて軽く首肯をしたようだった。
鎌足は陰謀のために道化を雇った。
「金が欲しくないか」
「ふん、まあ貰えるもんならもらいたいね。あんたら一体何を考えてやがる?……なるほどねぇ、大奥様が病気だと。ふん、それで私が金を稼げと来たわけだ。でもまあ仕方ないかな」




