推古天皇の後継は誰ですか
推古一三年(六〇五年)、厩戸皇子が斑鳩宮に移り住む。権謀渦巻く政治に嫌気がさし、首都の飛鳥から離れた斑鳩に移った。
飛鳥と難波を結ぶ大坂道を蘇我氏が支配していたのに対して、新たに竜田道を通って難波へ出るルートを確保しようとしたという政治的意図があったとの見解もあるが、彼は政治的にそれほど重要ではない一介の皇子であった。
四月、推古天皇が発願して鞍作鳥を指名して銅の丈六(高さ1丈6尺。約4.8メートル)の仏像を造らせた。翌年四月に完成し元興寺に入れようとしたが、大きすぎて入らなかった。その後、鞍作鳥が戸を壊さずに無事に搬入して安置した。推古天皇は5月に鞍作鳥に対し、その祖父司馬達等、父多須那、伯母嶋女の功とともにその功績を賞した。
推古三〇年(六二二年)、斑鳩宮で暮らしていた厩戸皇子が没する。この世界の厩戸皇子は政治的に重要ではない一介の皇子であった。善徳は冠位十二階など日本史知識では厩戸皇子のものとされる政策を実行してきた。厩戸皇子の代わりという役回りであるならば、厩戸皇子の没後も生き続ける意味は何だろうか。
推古三二年(六二四年)四月、一人の僧が斧で祖父を殴るという悪逆罪を犯した。推古天皇は、その僧だけでなく、全ての僧尼を罰しようとした。これに対して百済僧観勒は問題の僧のみを罰することを求め、それが認められた。そして観勒を僧正とし、鞍部徳積を僧都とし、阿曇連を法頭にそれぞれ任じて僧尼の監督をさせることとした。
推古三四年(六二六年)五月二〇日に蘇我馬子が没した。善徳は馬子を桃原墓に葬った。同じ年に田村皇子(後の舒明天皇)と宝皇女(後の皇極天皇)の間に開別(葛城)皇子が誕生した。後の中大兄皇子(天智天皇)である。
推古天皇三六年(六二八年)、推古天皇が病に倒れる。推古天皇は二人の大王位の後継候補を枕元に呼んだ。田村皇子と山背大兄王である。田村皇子には「大王となることは至難の業である。軽々しく言ってはならない」と言った。山背大兄王には「汝は若い。心に思っても口に出さず、群臣に従うように」と諭した。
推古天皇の言葉は田村皇子が時期大王に相応しいと考えていたことをうかがわせる。但し、大王には後継大王を指名する権限はなく、新大王は群臣の推挙を待たねばならなかった。三月七日に推古天皇は崩御した。
田村皇子は押坂彦人大兄皇子と糠代比売(田村皇女、糠手姫皇女)の息子である。押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の崩御時の後継候補であったが、豪族の後ろ盾が乏しく、見送られた。血統的には申し分ない。山背大兄王は厩戸皇子と馬子の娘である刀自古郎女の息子である。
田村皇子は敏達天皇の孫、山背大兄王は用明天皇の孫で、皇孫という点では同格である。但し、敏達天皇は用明天皇の兄であり、田村皇子の方が大王家直系と言える。加えて、用明天皇の母も山背大兄王の母も蘇我氏の出であり、田村皇子の方が大王家の血を濃く受けている。そのため、血統では田村皇子に有利だが、後ろ盾の点では蘇我氏の血を引く山背大兄王が有利である。
後継者争いは中々決着がつかず、善徳と蝦夷は群臣を召集して協議を行った。蘇我氏としては、近親である山背大兄皇子を推したい。しかし血統から言えば田村皇子であり、諸豪族の納得を得がたい。推古天皇の言葉が示すように大王としての器量も田村皇子の方が備わっている。
田村皇子は蘇我氏の血を引いていないが、善徳・蝦夷の妹姉の法提郎媛を妻として古人大兄皇子をもうけており、田村皇子が即位すれば将来、古人大兄が継ぐ可能性がある。善徳は優れた政治家としてのバランス感覚から田村皇子を推した。
山背大兄王はこの決定に反発し、善徳を問い詰めた。
「噂に聞くと叔父上は、田村皇子を大王にしようと思っておられるということですが、自分はこのことを聞いて、立って思い、座って思っても、まだその理由が分かりません。どうかはっきりと叔父上の考えを知らせてください。」
大王への野心丸出しであり、とても聖人の言葉とは思えない。善徳は山背大兄王の意義を群臣らの合議に付し、再度審議させた。審議の結果、異議は退けられた。日本書紀は蘇我氏に対して独裁者的なイメージをつけようとしているが、実態は豪族間の意向に配慮する和の政治であった。
蘇我氏の中でも馬子の弟の境部臣摩理勢は頑なに山背大兄王を支持し、宗家に敵対した。山背大兄王の弟の泊瀬王も山背大兄王を支持し、境部摩理勢を自邸の泊瀬王宮に匿った。しかし、泊瀬王は病気となり、摩理勢は泊瀬王宮を退去した。善徳と蝦夷は摩理勢を滅ぼし、田村皇子が即位した。




