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遣隋使を送ります

推古一五年(六〇七年)七月、小野妹子を通訳鞍作福利とともに隋に派遣する。第二回遣隋使である。この年は隋の年号では大業三年である。隋の皇帝は煬帝になっていた。皇帝への国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と書いた。小国倭の王が中華の隋と同じ天子を名乗り、第一回遣隋使以上に明確に対等外交を志向する。高句麗との緊張感が高まり、北東アジアにおける軍事的パートナーを見つけたいというタイミングを見計らって、強気の外交に出た。


当時の国際情勢においては小国である倭が中華の隋と対等である筈はなかった。煬帝は当然のことながら激怒し、「蛮夷の書、無礼なるもの有らば、復た以て聞することなかれ」と言った。東夷の島国が隋皇帝と同じ天子の称号を使うことは言語道断である。


しかし、高句麗への牽制に加えて、倭国が意気軒昂なことを怪しみ、調査のために正使を鴻濾寺の掌客・裴世清、副使を尚書祠部主事・遍光高とする使者を派遣する。鴻濾寺は外交を司る役所であるが、裴世清はそこの正式な官員ではない。裴世清の官職は文林郎(秘書官)で、隋としては正式に通交するというよりも倭の実態を調査する点にあった。傲慢な倭国の態度を叱責し、君臣関係について諭す役割も担っていた。


推古一六年(六〇八年)四月に小野妹子が隋使とともに帰国する。帰国した妹子は隋からの国書を紛失したとの汚名を着せられた。しかし、国書は裴世清が持っており、妹子が持つものではない。公務員的な陥れである。この国書紛失事件では結局何のお咎めも受けず、妹子はその後も遣隋使を務めた。


善徳は、難波吉士雄成をなりを派遣して難波まで先導させ、中臣宮地連烏摩呂をまろ大河内直糠手あらて船史王平わうへいを接待係とした。一行は八月には京に着き、歓迎の儀式が行われる。裴世清を海石榴市に迎えて額田部連比羅夫ひらぶが挨拶し、阿倍鳥とり臣、物部依網連抱いただきが先導した。


善徳が裴世清に面会し、親書を受け取った。善徳は裴世清に会えたことを大いに喜んで話した。

「私は海を西に渡った先に隋という礼儀作法が整った国があると聞いています。故に使い遣わして朝貢しました。私は夷人であり、大海の一隅にあって隋の礼儀を聞くことがありませんでした。願わくは大国隋の新たなる文化を聞かせてください」


裴世清は答えた。

「皇帝の徳の明らかなことは日月に並び称され、その恩恵は世界の全ての海に流れます。それを倭国王も慕っているので私のような人間をこの地に派遣し、宣諭させています」


善徳と裴世清の会話は明らかに冊封関係を前提としている。国際感覚ある善徳にとって、対等外交など最初から実現できるとは思っておらず、先の国書は自国を目立たせる修辞であった。この会話は隋書では倭国王と裴世清の会話になっている。


これに対して日本書紀では裴世清は大王に謁見せず、国書は大門みかどの前の机上に置かれたとする。しかし、わざわざ大国隋から国書を携えて訪れた使者に対して、元首が面会さえもしないということは到底考えられない。隋書と日本書紀の矛盾は、推古天皇は会わなかったが、善徳が会ったということである。


推古一七年(六〇九年)年4月、筑紫大宰から百済僧道欣だうこん恵彌えみ等が肥後国芦北津に停泊したと通報があり、難波吉士徳摩呂とこまろ船史龍たつを派遣して問い質したところ、百済王の命により呉国へ派遣されたが、内乱があって入国できず、帰国の途中暴風にあって漂流したとのことで、5月に徳摩呂、龍を添えて本国に送った。


七月、新羅と任那の使者が倭国を訪れ、使者を朝廷あげてもてなした。任那は既に新羅の占領するところであるので、実質的には新羅の使者であった。従来、百済寄りだった倭国外交にとって方針転換であり、ここにも善徳の優れたバランス感覚が示されている。


推古一八年(六一〇年)三月、高句麗王が僧曇徴どむちょう及び法定ほふぢゃうを貢上した。曇徴は五経を知り、絵具・紙・墨の製造法を伝え、碾磑(てんがい。水車で動かす臼)を作った。外典(仏教教典以外の書物)にも通じていた。


十月は、新羅と任那の使者が都に到着した。額田部連比良夫ひらぶを新羅の客を迎える騎馬隊の長とし、膳臣大伴おほともを任那の客を迎える騎馬隊の長とし、秦造河勝かはかつ土師連菟うさぎを新羅の先導者とし、間人連塩蓋しほふた阿閉臣大籠おほこを任那の先導者とした。


使者が朝廷に入ると大伴咋くひ連、蘇我豊浦蝦夷えみし臣、坂本糠手あらて臣、阿倍鳥子とりこ臣が立って庭に伏し、行事が終わって河内漢直贄にへに新羅の供応を、錦織首久僧くそに任那の供応をさせた。


推古三一年(六二三年)、新羅が任那に侵攻したため、推古は新羅を討とうとして群臣に諮った。田中臣は「百済はたびたび豹変する国である。道路の区画さえも偽りがある。おおよその言うところ皆信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」と発言した。


これに対し、中臣連國くには積極論を展開した。結局討たないこととなった。吉士磐金いはかねを新羅に派遣し、吉士倉下くらじを任那に派遣して事態の解決に努めた。ここでも百済寄り外交に対する警戒心が見られる。


しかし、その遣使の帰国前に、大徳境部臣雄摩侶をまろ小徳中臣連國くにを大将軍に、小徳河邊臣禰受ねず小徳物部依網連乙等おと小徳波多臣廣庭ひろには小徳近江脚身あなむ臣飯蓋いひふた小徳平群臣宇志うし小徳大宅臣軍いくさを副将軍として新羅に出兵し、事態を紛糾させてしまった。


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