4・猛禽の星
また血を吐いたが、黒ずんだ塊だった。
本国トサの街に帰り着いて以来、高星は床に伏せる日が続いている。
遅い春が来ても、病状が良くなる事は無かった。むしろ何度か鮮血を吐き、その度に命が流れ出していくのを感じる。
咳き込んだ。胸に痛みを感じる。
痛みは、胸の中にある。コルネリウス家との決戦で、矢傷を受けた辺りだ。あのときの傷が、今頃になって祟っているのか。
変州軍が今どうなっているかは、二十日ほど遅れて情報が入っている。大人しく寝ている気などは無かった。情報を集め、分析し、情勢を読んで、指示を出す。
しかしもう、指示を出すような事は、ほとんど無かった。
ヴァレリウスが死んで、コルネリウス家の祖廟を継ぐ大崎家は、トゥリウスが当主に就いた。
一時は重体だったトゥリウスだが、若いだけあって回復は早く、今は無理をしなければ歩き回れるらしい。
奥瀬影通も死んだ。それについて、山の永通や、他の奥瀬一族がどう思っているかは分からない。山は、いつも通りだった。
フジテル・ユハラも死んだ。シェンゴンが初めて変州に来たときに伴っていた者達も、大勢死んだだろう。いくら鉄仮面で表情を隠しても、シェンゴンは彼らの為に泣いているはずだ。
死んだ者達はみな、シェンゴンを生かそうとしていた。変州の未来のため。個人的な感情のため。理由はそれぞれだろうが、みなシェンゴンを生かすために死んで行った。
だが、シェンゴン自身がもう、犠牲の上に生かされ続ける事に、絶望している。遠くから見ていて、それが良く分かった。
それでもなお、生きようと思わせられるか。絶望の底を歩いてもまだ、生きる理由を見つけられるか。
自分がそばにいれば、と思った。シェンゴンの心を変えられるという確証は無い。それでも、今こそ自分がそばにいるべきだったのだ。
それができない事を、恨めしく思う気持ちは無い。心は静かだった。諦めの様だが、どこか違う。
今はただ、全てを受け入れられた。
鈴を鳴らした。声を出さなくても人が呼べるようにと枕元に置かれた、ささやかな気遣いだ。
すぐにジャンがやって来た。
「棟梁。ご用件は?」
「これを」
高星は三通の書状を差し出した。宛名はそれぞれ、朱耶克用、シバ・リョウシュン、ワイズマン伯爵になっている。
「私が死んだら、それぞれ届けてくれ」
「棟梁、その様な――」
「死んだらの話だ」
高星は笑ったが、ジャンの表情は沈痛だった。
夕食が運ばれてきた。粥のような病人の飯は食いたくないと突っぱねたので、普通の食事だ。だが、全体的に軟らかく、消化に良いように作ってある。それくらいは黙って受け入れた。
食欲だけは異様にある。しかし、一人前以上を食べる事は止めた。自分でないものの思い通りにされているようで、嫌だった。おかげで、大分痩せた様だ。
食事を済ますと、背もたれに寄りかかって目を瞑った。呼吸器の病は、横になっている方が辛い。
おかげで、夜もろくに寝れないが、そんな事は大した問題ではなかった。
父を殺したあの日以来、ずっと夜は長いのだ。
自分の前に、誰かが立っている。誰だ。目を凝らした。
自分がいた。しかし、酷い顔をしている。目を背けたくなるほど、醜い。だが、目を離せなかった。見つめていると、やはり自分はこんな顔をしているのだろうと思う。自分らしい。自分にふさわしい顔だ。
目が覚めた。びっしょりと体が濡れていた。喉の渇きを覚え、水差しを取ろうと体をよじった。
込み上げてきた。抑える間も無く咳き込み、口から大量の鮮血を吐いた。
これで何度目だろうか。あと何回猶予はあるのか。そんな事を考えながら、意識が遠くなっていった。
また目覚めると、何人もの見知った顔が、暗い顔で高星を取り囲んでいた。これも、何度目だろう。
「そんな顔をして囲むな。それこそ縁起でもない」
集まっていた者達が、口々に高星の事を呼んで、うるさかった。
体を起こそうとしたが、ほんの少し上体を上げるのがやっとだった。
体の感覚がはっきりしてきた。これが最後だと感じた。体の中が、決定的に壊れている。
「各部門の、主だった者達を集めろ」
「すでに、集まっています。棟梁」
「ここにいない者も、全員呼べ。今すぐにだ」
思いの外力強く、はっきりした声が出せた。ジャンが弾かれた様に飛び出していく。
程無くして、安東家のあらゆる部門の責任者達が集合した。
「まずは、見兵衛」
見兵衛が高星の枕元に移動した。
「世話になったな。今日で契約は解消する」
「左様でございますか」
「言うまでもない事だが、今後は好きにしろ」
「嫌なものでございますが。若者が年寄より先に死ぬというのは」
「何だ見兵衛、泣いているのか?」
見兵衛が鼻を啜った。
「俺とした事が、忍びにあるまじき事だ。だが、安東殿の為の情報を探って来るのは、ただの仕事以上のものだった」
嗚咽混じりに語る見兵衛に、高星は笑った。
「そんなに気に入っていたなら、堯恒とも仕事をしてくれればいい」
「いえ、私は一度山に帰ります。感情に流され、冷戦な判断ができない様では、この仕事はできませぬ」
「そうだな。その方が良いだろう。さらばだ、見兵衛」
見兵衛が深々と頭を下げ、そのまま部屋を出て行った。もう二度と、会う事は無いだろう。
「ホフマイスター博士」
「はいはい」
ホフマイスター博士はいつもの白衣姿だったが、流石に態度はいくらか神妙だった。
「安東家が大きくなるにつれ、昔の様に好きに研究させるという訳にもいかなくなってきた。居心地が悪いなら、博士も好きな所へ行くと良い」
「まあ、確かに昔に比べれば、息苦しくはなりましたね」
博士が肩をすくめる。
「どうするかはまだ決めてませんが、私がいなくなっても、何も変わりはありませんよ。私なんかよりずっと従順で扱いやすい研究者が、何人か育ってますから」
「後進の育成なんてやっていたのか」
意外だった。ホフマイスター博士は、とても人にものを教えられる様な人間ではないと思っていた。
「私なんかよりずっと真面目で、瀬川さんを困らせたりしない人材ですよ。まあ、瀬川さんを困らせるのは楽しいので、もうちょっと居座っても良いかもしれませんが」
後ろの方で当の瀬川が何か言おうとして、流石にここでは言えずに、苦い顔をしているのが見えた。
「変わらんな。お前は」
「正直、残念でなりませんよ。安東殿よりも私の心を躍らせる人は、いませんでしたから。あなたがこの先何を作り、何を壊すのか、見てみたかった」
「済まんな」
話すべき事が済むと、ホフマイスター博士も部屋を出て行った。
「魯子敬。陶明」
呼ばれた二人が、それぞれ高星の左右に座った。
「海軍を頼むぞ。いまさら私から言う事は、何も無い。好きな様にやれ」
陶明が深々と、魯子敬は軽く頭を下げた。
「だが子敬。お前は一人でもやって行ける商人だ。堯恒が仕えるに値しないと思えば、どこへなりと行っても良いぞ」
高星と魯子敬の視線が交錯した。戦のときと同じ感覚が、高星の体を突き抜けた。
「滅相もございません。高星様から受けた恩を返さずに去るなど、商道に反します。それに安東家が大きくなる事で、私も利益を得ました。我が身と安東家は一心同体でございます。それは堯恒様の代になっても、決して変わりはいたしません」
魯子敬が深々と頭を下げた。
「では二人とも、頼むぞ。特に魯子敬。貴殿は他の者とは違うものの見方ができよう。その見識を活かしてくれ」
二人が部屋の隅に下がった。替わって、陸軍の各隊長達を呼び寄せる。
「大分顔ぶれが変わったものだな」
高星が安東家当主に就いた頃に隊長格だった者は、当時大隊長だった七戸一人となっている。
「新しい隊長達も、安東家の名を汚さぬ優秀な者達ばかりでございます」
七戸が言った。
「七戸。引退は許さぬぞ」
「しかし――」
「私と共に戦場に立った隊長は、お前が最後の一人だ。うるさがられようと、嫌われようと、若い連中を命ある限り見守ってやれ」
「私に、できるでしょうか?」
「お前はいつも、自分に何ができるか悩む将だった。他の隊長達に比べ、自分が劣っていると苦悩していた」
七戸が俯いた。
「その苦悩には、意味があったはずだ。誰よりも苦悩していたお前だから、できる事があるはずだ」
「分かりました。若い者達の為に何ができるか、もう少し苦悩してみようと思います」
高星は肯いた。
「ドゥルースス・ワイズマン」
「はい」
「お前に、軍総帥の印綬を与える」
「私が?」
「安東家には、譜代も外様も無い。お前ならば平時でも戦時でも、良く軍をまとめられるだろう」
「分かりました。謹んでお受けいたします」
「悩まぬのだな」
「殿が考え抜いた末に決めた事を、どうして私如きの浅い悩みで断れましょう。それに、与えられた責任からは逃げないのが、ワイズマン家の家訓です」
「それでこそだ」
体を起こす事もままならない高星に代わり、側仕えの者がドゥルーススに印綬を授けた。
「寺山。稲垣」
「殿。いつもの様に、ハイタカと呼んでください。殿が付けた仇名でございます」
「お前達には、感謝の言葉しかない。私が当主に就く前から、騎兵は私を支持し続けてくれた。全ての騎兵将兵に、感謝する」
「我らはただ、安東家と殿の利益を考えて行動したまでの事です」
「安東家と、私の利益か」
「中小国隊長に、そう教わりました」
懐かしい名前だ。しかし、それだけの事だ。
死んで行った者達の事を、自分はどれだけ顧みただろう。振り向く事さえ、ほとんどしなかった。
いなくなってしまった。高星にとって、死んで行った者達とは、それだけの事でしかなかった。
そうでなければ、絶対的に不利な戦を続ける事など、できなかっただろう。
「瀬川」
「ここに」
「長い付き合いになったな」
「家出同然に別居していた殿が、下屋敷に色んな輩を集めていた頃からですからね」
「そんな所に寄りついたお前こそ、色んな輩の一員だろうが」
瀬川が苦笑し、高星も笑った。
やはりあの場所は、高星にとって特別だった。あの頃から一緒にいた者達となら、仲間と呼べる関係になれたかもしれない。
だが、高星はそれを拒否した。棟梁でいるために、一人でいるしかなかった。仲間では無く、部下として扱う他無かった。
仲間でいてはできない事をするために、高星は棟梁になる事を選んだ。それが全ての始まりだった。
「瀬川。安東家の領内統治。全ての内政は、お前に任せる」
「はい。……はい!?」
瀬川が目を剥いて驚く。
「せいぜい苦労するんだな」
「一番地味な割に、一番大変な役目じゃないですか」
そうは言っても、嫌だとは一言も言わない。
「実に、お前向きの役目だろう?」
瀬川がため息を吐いた。
「こんなのに魅せられたのが、運の尽きか」
首が飛んでもおかしくない不敬な発言だが、高星は笑って流した。
内政の瀬川。海軍と外交の魯子敬。軍のドゥルースス。この三頭体制なら、専制も腐敗も無いだろう。
もちろん、永久に安泰だとは思っていない。自分の死後の事など、所詮は考えるだけ無駄な事なのだ。
「少し疲れた。下がれ」
主だった部署への指示は済ませた。疲れを覚えたのも本当だ。続けて何かできる時間が、だんだん短くなっている。
高星は目を閉じた。今度は、安らかな眠りに落ちて行った。
◇
また目が覚めた。夜中の様だが、充分に寝たせいか、眠気はあまりない。もう一度寝るのは難しそうだった。
そばに誰かいる。常に一人は高星のそばについているので、誰かがいる事はなんでもない。
ただ、酷く懐かしい感じがした。
目が慣れてきて、闇の中でも朧に姿が見えてきた。
「銀」
「高星。寝れないの?」
「寝すぎて目が冴えた」
「何か、して欲しい事はある?」
「起こしてくれ」
銀華に支えられて、高星は身を起こした。一人で体を支えているのが辛く、銀華の肩に寄りかかる様になる。
「お前に言いたい事が、たくさんあった。そのはずだが、何を言って良いか、分からん」
「無理に言わなくてもいいのよ」
「いや。言わなきゃならない。最後だからな」
銀華の、気配の様な何かが動いたと感じた。
「お前のおかげで私は、ほんの少しでも人になれた。おかげで、苦しむ羽目になった」
「人間になんて、ならない方が良かった?」
「苦しむ度に、人間らしさなど微塵も持ち合わせていなければと思った。だが、人で良かった。頂点に立つという事は、非人間的になる事だ。だが、人として苦悩する事も必要だった。私は人として、頂点に立つ事が出来た。お前が私を人にしてくれたから、できた事だ」
「つまらないわね。そんな言葉を並べても、女は喜ばないわ。女心が分からないのは、ちっとも変ってない」
「ほとんど人間じゃないからな。他人の心など、分からん」
銀華は、気配すら動かさなかった。高星はしばらくの間、銀華の体温だけを感じていた。
「ありがとう。そして、ごめんな」
最初から、それで充分だったのだ。
銀華が震え始めた。やがて嗚咽をこぼし、大粒の涙を床に落とす音が聞こえてくる。
「みんなの事を、頼む」
「私に、何ができるというの?」
「お前は、お前のままでいい」
意識が遠ざかってきた。眠りとは違う、昏い所に落ちて行く。
戦ってきた。走り続けてきた。何を得て、何を失ったのか。
人形が、僅かな人間性を得た。ただそれだけの事だ。
◇
また目が覚めた。しかしもう、昼か夜かも分からなかった。取り囲む雰囲気は、すでに葬式を始めているかの様な沈痛なものだ。
「堯恒」
まだ声は出る。
「はい、父上」
「父らしい事など、何もしてやれなかった。済まんな」
堯恒の目が、じっとこちらを見ている。その目に、呪いや恨みは無い。しかし、これから途方も無く大きく、重いものを背負う事になる。それはすでに、理解している目だ。
「ジャン」
「ここに」
「お前に贈り物が二つある。一つは、下屋敷。あの場所は、お前にやろう」
思い出の地。始まりの場所。しかし、その事に大した意味などない。過ぎ去った過去の史跡に、何もありはしないのだ。
ただ、あの場所を託すなら、ジャンだろうと思っただけだ。
「もう一つは、お前に姓をやろう。磐座だ」
「磐座?」
「神を降ろす台座。お前という岩の上に、全ての栄光は建ち、決して砕けぬ支えとなる。堯恒を頼むぞ、ジャン」
「俺にはそんな――」
「瀬川がいる。魯子敬も。ドゥルーススも。お前は誰より私を見てきた。お前が見たものを、私の代わりに堯恒に伝えれば良い」
ジャンがなおも何か言った様だが、聞き取れなかった。
風を感じる。騎馬で駆けている夢でも見ているのか。
違う。高星は鳥だった。羽ばたき、星を目指して夜空を飛んでいた。風は自分が起こしているものだ。
星に近づいた。そう思うと体が動かなくなり、地に向かって落ちて行く。墜落する寸前、もう一度飛び上がり、また星を目指した。それを何度も繰り返した。
叫んだ。喉の奥から声を張り上げた。猛禽の叫び声が、天地を震わせる。
星が見えなくなった。だが、地面に叩きつけられもしない。昇っているのか、落ちているのか。それさえも分からなくなった。
星は、消えたのではなかった。
高星自身が、星だった。




