第3節 冷めないスープ
木彫りの深い鉢から 野生の蕪と乾燥肉を煮込んだ湯気が細く立ち上っている
「 ……ねぇ ハティ お姉ちゃんまだ?」
スヴァが木匙を握りしめたまま所在なげに足を揺らし 木皿の縁をじっと見つめている
「 さぁな 」
「 っはぁーあ!冷めちゃうだろ 先に食べようよ 」
腹の虫が小さく鳴ったのを隠すように 隣のルヴィがわざとらしく大きな溜息をついた
「 だーめ! お姉ちゃんも一緒に食べるの!」
「 ……ハティも何とか言えよ 」
「 冷めたら温め直せばいい 」
淡々と答え 素焼きの壺から灰を混ぜた粗塩を指先でつまみ 鍋の残りに落とす
急かすつもりも 追うつもりもない
ただ あの削れ落ちた数字を前に 立ち尽くしていた少女を静かに待っているだけだ
皮紐で縛られた扉が キィと低い音を立てて細く開いた
湯上がりの湿った空気を纏い 濡れた髪を首筋に張り付かせたギルベルトが 恐る恐る小屋の中へ足を踏み入れる
その手は無意識のうちに 8桁になってしまった自身の頸を庇うように触れていた
「 お姉ちゃん!」「 ……遅い 」
整えられた食卓と 自分を見つめる視線に気付き ギルベルトは少し気まずそうに足を止めた
「 ……あ あの……なぜ 誰も食べていないんだ?」
「 スヴァが一緒に食べるって 聞かないから 」
ルヴィが少しだけ気まずそうに目を逸らしながら 木匙を持ち上げる
スヴァは待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせ「お姉ちゃん こっち!」と自分の隣の丸太を叩いた
ギルベルトはその場に立ち尽くしたまま 喉を擦り切るような低いかすれ声で呟く
「 ……私を…待っていたのか?」
「 えへへ そうだよー 」「 さっさとしてよ 」
促されて再び足を踏み出したギルベルトは やはり少し居心地が悪そうだった
指先で灰塩をそっとつまみ上げ 視線を落とす
それを一粒もこぼさぬよう蕪のスープの上へと滑らせる
「命の恵みに感謝を」
低く静かな声が 小屋の空気に溶けていく
灰色の結晶が温かいスープに沈み かすかな波紋を広げるのを 息を呑んで見つめていた子供たちが声をそろえて囁いた
「「 命の恵みに感謝を 」」
少し遅れて ぎこちない 掠れた声がそこに重なる
「 ………命の…恵みに 感謝を 」
ギルベルトの呟きとともに静かな食卓がようやく動き始めた
「 お姉ちゃん 薬湯の風呂効いた? もうどこも痛くない?」
スヴァが大きな瞳を輝かせ 気遣うようにギルベルトの顔を覗き込んでいる
「 ハティの薬草はすごいんだよ!私のお熱もすぐよくなったんだから!」「 ぼっ僕の怪我だって……!」
幼い彼らにとって 薬草の知識や調合の技術は どこか好奇心をそそられるものがあるのだろう
木匙を口に運びながら その声を聞き流していた
「 ぁっあぁ…そうだな……確かに痛みも和らいだよ 」
「 心配だったんだもん! お姉ちゃん 顔色真っ白だったし……怪我だけじゃなくて それ『月のもの』の痛みだったんでしょ?」
素朴で悪意のない純粋な問いが小屋の中で落ちる
正面に座るギルベルトの反応を視界の端で捉えた
木匙を握りかけたまま 全身の筋肉が強張っている
生体エラーの負荷と出血…
そして逃亡の疲弊で血色の失せた唇が不自然に固く結ばれた
( ……呪いか )
それは単なる生理現象に過ぎない
だが目の前の少女にとっては毒なのだろう
ギルベルトの指先が白くなるほど強く木匙を握り締め その手が膝の上へと落ちた
「 ハティがね お姉ちゃんの中から血の塊をとって 苦しそうなお姉ちゃんを助けたんだよ!間違ったこと しちゃダメって!」「 ちょっ…スヴァ 食事中に… 」
それが ギルベルトの胸を冷たく刺し穿つ
「 …月のもの……違う あれは……私を蝕む生体エラーだ 」
「 食事中だ 」
擦り切れた喉から絞り出された ギルベルトの声を 短く断ち切った
「 ハティ わたっ……私は……っあの刻印のエラーも……生命の息吹の歪も……一体私に何が起きているんだ!? なぜお前は…… 」
切迫した問い
瞳には血が走り 己の解体された存在理由を必死に繋ぎ止めようと しがみついているようだ
ギルベルトの問いに視線すら上げず 淡々と己の木皿のスープを口に運んでいた
「 ルヴィ 口を開くなら咀嚼を終えてからにしろ スヴァ 溢すな 」
「 はぁい 」「 ……わかってるよ 」
「 ハティ! 頼む…っ教えてくれ! 私はもう……何もわからないんだ! 父上の言っていた『穢れ』とは何だ? 私の身体は……私は本当に…… 」
「 食べられる時に食べろ 」
ギルベルトの血走った瞳を正面から見据えた
そして 静かに しかし拒絶の余地を与えない口調で告げる
「 話はそれからだ 」
それ以上 言葉は重ねず スープを口に運んだ
蕪の粗い甘みと灰塩の塩気が広がる
静まり返る部屋の中に 高床式の炉床の薪が爆ぜるパチッという音だけが響く
沈黙に耐えかねたように ギルベルトの喉が大きく鳴る
ぐっと奥歯を噛み締め 荒い呼吸を必死に整えようとしながら 目の前の木鉢を見つめる眼光には まだ混乱が渦巻いていた
それでも その言葉に従うように 白くなった指先が再び 木匙を握り直した
視線を落とせば 木彫りの鉢の中で 灰塩の溶けた薄い琥珀色のスープがまだ静かに湯気を立てている
逃亡の道中に 失っていた嗅覚を 蕪の甘い香りと 乾燥肉の滋味深い匂いで 確かめているようだった
ギルベルトは まだ少し震える手で もう一度木匙を握り直し スープを一口 口へと運ぶ
「 ……まだ 温かいんだな 」
「 あぁ…それに 冷めたらまた温めれば良い 」
舌の上に広がる塩気と熱が 胃の腑へと滑り落ちていくのを見届けながら 静かに目を伏せた
どれほど壊れかけていようと 胃に物が収まる限り この生体はまだ動く
——— 話すのは その冷え切った身体に温かい血が戻ってからで十分だ




