第5節 心配ない
「 おぉ 小・ギルベルト!よくぞ戻った さぁ顔を見せてくれ 」
硬い…硬い胸だ
羊毛脂とハーブの匂い
私と同じなのに全く違う 父上の匂いだ
いつもと同じそれが 今は何故か ひどく落ち着かない
「 ……ふむ 大事ない…な 」
父上の視線が一瞬止まった気がした
「 さて 此度の戦 父に報告しておくれ 何か変わったことはなかったか? 」
「 っ…はい——— 」
先程 私を受け入れた玄関扉が再び軋み ほんの一瞬その口を開く
私が帰還しているような錯覚に陥る
「 ———戦場で無傷とはさすがオレの子だ…しかしそれは不安だったな
大丈夫だ 心配することは何もない まずは休め 」
スリングの中から聞こえた 添木の軋む音が 私を現実に戻す
「 …兄上 ただ今戻りました 」
同じ名前 同じ刻印 同じ髪型 同じ顔……
ピタリと合わさっていたはずなのに少しずつズレていく
「 …あぁ お前が無事でオレも嬉しいよ……父上 屋根はひとまず大丈夫です 」
私とは違う 真っ直ぐで力のある声が耳に届いた
「 ご苦労 」
「 はい……お前は身体を拭いてこい 今 湯を沸かしている 髪もあとでオレが結おう 」
「 兄上 ありがとうございます 」
「 生憎の天気だ 皆との祝杯は明日行う 子供たちよ 家族だけの宴だ ゆっくり語ろう 」
遠雷が戦火の余韻のようにうなり声をあげている
「 ———はぁ 」
鉄の檻から解放されて 少しだけホッとする
冷たい泥水を啜って 重くなった麻布を雑に解くと 柔らかい肉が顔を出した
「 す—は———…母上 兄さん 姉さん……いま 帰りました 」
返事を期待していない 声とも言えない音を吐き出しながら 煤けた茅葺を仰ぎ見た
( 無事に帰ってきたんだ…大丈夫だ 何も変わっていない…父上もそう言ったじゃないか )
よく磨かれた盾は ギルベルトの姿を映しだしている
同じ位置にあった結び目は 泥水と油で乱れている
少し視線を落とせば 自分は偽物である現実が 嫌でも突きつけられる
「 っ!くそっまたか…… 」
私を蝕む暗赤色が 再び太ももを静かに伝い落ちる
「 大丈夫だ 処置なら知っている」
ボロの麻布と水苔を穴に押し込む
「 んっ……ふっ…う ……何なんだ いったい 」
タペストリーの前に兄上が立っている気配がした
「 小・ギルベルト 湯が沸いた 身体を清めてこい 」
「 ありがとうございます 兄上 今出ます 」
素早く麻のズボンを引き上げる
ペグとタブレット織のバンドが少し鈍い音を立てれば
目の前で私と同じ顔をした兄上の瞳が揺れた気がした
「 …… 」
「 兄上?」
「 …いや ゆっくりしてこい 」
「 はい 樽風呂 ありがとうございます 」
「 …あぁ……いや待て 」
「?」
「 大判の布を置き忘れた 持って行け 」
「 ぉわっぷ…あっ兄上!」
「 ははっ 冷えるよりマシだろ そのまま行け 」
「 ふっ そうですね では行ってまいります 」
兄上の優しさはいつも本物だ 見えないことだけど 多分私とは違う
( ん?ふふっ兄上もそそっかしいな )
樽風呂の脇には 温めた小布と木灰 そして大判の布が完璧に置かれていた
大広間では いつもより少し豪勢な食事が用意されていた
父上が今日のために 皆で狩ってきた大型の野生牛と野生のイノシシだ
( あ…ベリー入りの煮込み粥…兄上 )
すぐには気が付かなかったが 私の角杯には兄上より薄い色の液体が注がれている
( …懐かしい薄焼き麦酒だ )
隣を横目で見れば 同じ顔と目が合い 笑みが溢れた そして同時に あまり沸かない食欲に後ろめたさを感じた
父上がノドゥスの神々の印をきる
「 我らの土地に豊かな実りをもたらす母よ 勝利をもたらす父よ この聖なる酒をあなたたちに捧ぐ 我らに戦場での輝きと 大広間での知恵を授けたまえ 」
父上が1つ目の角杯をあおり すぐに言葉を続ける
「我らの血脈を築きし勇敢なる祖先たちよ そして大地で眠る戦友たちよ お前たちの名誉は今も我が名と共に その勇気を我らに引き継がせたまえ 」
なみなみと注がれた2つ目の角杯も すぐに消えた
兄上の澄んだ声と 私の声が重なる
「 我らは ノドゥスの神々と父上の前で誓う いかなる困難にも立ち向かい 我らはゲルマニア・ノドゥスの民を守る もしこの誓いが成らぬ時は 我らは大広間に戻る資格を失い 戦士の名誉を捨てるだろう 」
兄上と同時に角杯をあおり 同時に置く
「 …お前たちの言葉を神々とこの父が確かに聞いた さぁ いただこう 」
きっと何も変わらない…家族の食卓に少し肩の力が抜ける
——— 兄上のことだ 明日の宴には 大・ギルベルトが顔を出さないつもりなのだろう
皆の前ではギルベルトは決して並ばない……いや 余計なことはいい 今はただ家族と帰還の喜びを分かち合おう
「 小・ギルベルト 」
いつもの父上の声に 何故か兄上の肩が小さく揺れた
「 はい 父上 」
「 此度の戦い よくやった 今宵はしっかり休み 十分に体を休めなさい 」
「 はい お気遣い ありがとうございます 」
「 うむ 明日に備え 体を万全にするが良い 今宵 俺は 賢女の元へ行き お前のために狂気と昏睡の枷を用意する 」
夏の始めの あの記憶が濁流のように私の思考を飲み込み 五感が歪んだ気がした
首元を掻きむしろうとした左手の指先を 右手で強く押え込む
「 父上 それはどういう… 」
「 うむ 明日 お前のその穢れを灼き祓う 」
「っ!」
その息を呑む音はどちらのギルベルトのものだったのか ふたりのものだったのか———
「 さすればお前の生命の息吹は…ひいては12桁の刻印は本来の姿を取り戻すであろう 」
「 ……は…い 」
「 なぁに 案ずることはない 湿布薬と 念のため内臓破裂の確認薬も揃えておく この父とお前なら何も心配はない 」
「 …はい 父上を信じております 」
零さぬように口に運んだ煮込み粥の味は もうわからない
乾し莽の月の夜 人々はみな 飢餓の足音に怯え 啜り泣きながら祈りを捧げている
濡れた暗闇の中 家畜だけが荒い鼻息を響かせ いつまでも鳴き続けている
——— 夜が明けたら 皆の畑を見に行こう それくらいは許されるはずだ
宴は…兄上がいれば大丈夫だ 兄上なら 言わずともわかってくれる
くそっ…兄上にはまた迷惑をかけてしまうな…私はしばらくは使い物にならない
……怖い…怖い怖い……明日が来ることが恐ろしい
…いやだめだっ 父上を信じるんだ きっと きっと大丈夫だ ………………本当に?本当に大丈夫なのか?
狂気と昏睡の枷…あれは痛み止めなんて生優しいモノではない!たしかに明日 穢れを祓う痛みは全くないのだろう……だが あれを与えられたあの日…夏の始まりから 私は——!
「 ———っ…ルトっ! 小・ギルベルト!!」
「 っはっぁ…ぁ゙兄っぅえっ……?」
苦しそうに歪んだ顔の その瞳に映る顔もまた 酷く歪んでいる
「 ……指の力は 抜けるか?」
「 …え?……ぁっ 」
「 ……大丈夫だ ゆっくりで良い… 」
兄上の手の温かさで 冷え固まった指が ぎこちなく首元から離れた
少し剥がれた爪床には おそらく私の一部だった個体が挟まり 赤い液体が流れ込んでいる
よく見れば 爪は ところどころ紫の斑点が増え 黒っぽくなっていた
——— あぁ これが初めてではないんだ…指先が覚えてる…それ以上に……
「 …兄上 ごめんなさい……わたっ俺は大丈夫です だからそんな顔 しないでください 」
「 っ!……ふー……お前が謝ることはない… 手当をしよう 座っていられるか?」
「 たいした事ではないです!兄上こそ休ん…」
「 お前のそれは信用ならん いいから 座っていろ 」
「 ……はい…ごめんなさい お願いします 」
「 ん 首の止血からだ 傷を見せろ 」
言いながら兄上がチュニックを裂いた
「 兄上!」
「 いいからさっさとしろ 」
背中から 兄上の固くなった気配を感じた
「 お前…刻印が…」
「 兄上?」
「……いや なんでもない 」
兄上は 言いながら 腰の革袋を歯で開けた
中から乾燥した傷薬の粉末を出したのだろう
銀細工を施したホルンの蓋が擦れ合う硬質な音がした
赤い鉄の匂いに 微かな甘さを孕んだほろ苦い芳香が覆い被さる
( 熱い… )
傷薬が瞬く間に血を吸って 仄暗い青緑色の塊へと変わり 傷口を塞いでいるのだろう
( …兄上の手の温かさが 傷の痛みより沁みる )
一瞬 兄上の視線が 私の首から だらりと垂れた指先に向かう気配がした
兄上は首を布で手早く縛り上げ 手を止める事なく 今度は強いエールを 私の指先に叩きつけるようにして回しかけた
「っ……!」
泡立つ黄金色の液体が 剥がれた爪床の隙間に染み込み 首の傷とはまた違った 熱い痛みが走る
傷を灼き こびりついた血を洗い流していく
兄上は私の手を固定したまま 腰のサクスを抜き 鋭利な切っ先を 少しも躊躇わず 私の爪の間にあてた
詰まった私の肉片を掻き出し始める
硬い刃先が爪の裏を削る 不快な感触を響かせる
指先が跳ねそうになれば 鉄の軛のような兄上の握力がそれを許さない
「 じっとしていろ 肉が腐れば指を落とす羽目になるぞ 」
すべての異物を掻き出すと 兄上は小さな壺から 純白の蜂蜜を指先で掬い取り 血の滲む私の爪床の隙間を埋めるように塗り込んでいく
そして最後に 細く裂いたチュニックの布で まだらに紫と黒が混ざる私の爪を一本ずつ 丁寧に包み込んで縛り上げる
「 兄上 これが初めてではないのですね… 」
「 あぁ 」
「 ごめんなさい 忘れていました 」
「 知っている 謝るな 」
「 夏の始め…あの時のことは 記憶が曖昧で……なのに今も ずっと変なんです 」
「 ……あぁ 」
「 明日 私はどうなるのでしょうか……きっとまた 兄上にも迷惑をかけてしまいますね 」
「 …… 」
「 何も変わらずに ずっと家族でいられるのでしょうか 」
「 ……小・ギルベルト 」
「 ごめんなさい 0501 の数字が泣きますよね 」
「 小・ギルベルト …逃げろ 」
「 …………え?」
「 逃げるんだ 」
「 何を言って… 」
「 オレにはお前を守ることも 黙って見ぬフリをすることも……隠し通すことも できない……できないんだ!」
「 ! 」
——— 兄上もずっと……きっと私以上に苦しんできた…わかっている
きっとこのまま隠し通すなんて できない いつかはその報いを受けるだろう…でも
「 ……オレは…お前に生きていてほしい…ふっ0501として許されないな…それでも お前が子供のときのように 笑って…笑って生きてくれたら それだけでいいんだ 」
「 兄…上 」
——— それは 私だって同じだ たとえそれが許されないことだとしても…兄上には笑って生きていてほしい
そんな顔をさせたくて 一緒にいるんじゃないんだ…もう 私にできることは 何もないのか
「 早くしろ!父上が戻る前に行くんだ!」
( 兄上の手 震えてる…いや 私もか… )
「 残された唯一の子ならば 大丈夫だ 心配ない 」
( あぁ 兄上はこんな時でも嘘をつくのか )
「 …………… 」
——— 父上 ごめんなさい ギルベルトでいられなくて
兄上 ごめんなさい ギルベルトをひとりにしてしまう
私は皆を裏切る 誓いが成らぬならば もう……
兄上が息を呑んだ
兄上に結ってもらった髪を
父上からもらったサクスで切り落とす
——— 兄上に罪はない 父上もだ…
12桁の刻印の罪は 私一人が背負えば十分だ だから…
床に落ちた髪を見つめる
兄上が何かを言おうとして やめた
もう 髪を結ってもらう日は 二度と来ない
もう ふたりのギルベルトは そこにいない
戦士ギルベルトは死んだ 死んだんだ
「 っうっ……っふぅ……っく 」
——— 鈍痛
自ら穴に入れた水苔が 限界まで血を吸い尽くしたのだろう
下腹部は 内側から引き裂かれるような熱と 圧迫されるような重苦しさで悲鳴をあげている
一歩踏み出すごとに その異物が内臓を突き上げ 目の前が白く火花を散らす
泥と溶け残った雹の粒が 冷たく足の裏にまとわりついている
体は火照り 熱をあげようとするのに 嵐の去ったあとの冷気が 汗と血に濡れた肌を凍えさせる
太ももを伝う不快な温もりを感じながら 自らの荒い呼吸が 闇の向こうで怯える動物たちの不気味な鼻息と重なるのを聞いていた
( 世界が苦痛に悶えているようだ )
「 はっハッ…ゔぅっ」
( 私は 何処へ行くんだ…… )
わからない でも今は走るしかない
『 その生体エラー どうにかしろ 』
( …そうだ あの無番の男…あいつに…ハティに会わねば…でも何処にいる? )
「 はぁはぁっはぁー………… 」
( ……大丈夫だ ハティの気配なら わかる…体が…あの血の感覚を覚えてる!)
『 …え?…ギル?』『 …へんなの 男みたいだ 』
そう 遠くではないはずだ……探せる 私なら それができる!
「 ふぅー 落ち着け 集中しろ 」
——— 頸が徐々に熱を帯びてくる気配がした
( まずい…いや 今は構っていられない!もう少し もう少しだ )
「 ……北東だ…ゔっくそっ!」
12桁の刻印が 再び私の罪を告げようとしている
( あと少し あと少しだけ 耐えてくれ!)
遠くの修道院から 夜課の一打が冷たい大気を震わせて響き始める
天を仰げば神の荷車の星が 皮肉なほど鮮明にその輪郭を傾けていた
守りとなってくれるはずの兎の脚の星のまじないは 気休めにもならない ——— いや 見つけた
( 綺麗だ…ここには嵐がこなかったのか…いや そんなはずはない )
世界からすべての音が消えたようだ
開けた視界の先には 夜の底に横たわる湖が さざ波一つなく静かにそこにある
そこだけは 激しい嵐など 初めからなかったかのように 水面は不気味なほど平らで 天空の神の荷車の星を映し出している
星々が融け合う水のただ中に 探していた青年がポツンと立っていた
「 …………ハティ 」
継ぎ接ぎだらけのボロ布を水に浸し
ただ静かに佇む彼の姿は 冷たい月光をその身に吸い込んでいるようだ
ハティの足元から広がるわずかな光の輪だけが 暗黒の湖水を淡く青白く染めている
泥を踏み越えてきた私には その光景だけが世界の理から切り離された 恐ろしいほど美しく神聖な幻に感じた
「 …………ギルベルト 」
私の世界が暗闇に呑み込まれた
第1章 泣く数字 完
『 第1章 泣く数字 』 をお読みくださり ありがとうございました
『 第2章 剥製の片割れ 』の目処がたったため 今月はちまちま更新します
メイン視点は小ギルベルトからハティにバトンタッチ
おまけのおはなし
- 造語について -
物語内のカタカナ言葉の8から9割は造語ですが
主にラテン語・ゲルマン語派・ケルト語派の言語を
ごちゃ混ぜミックスしております
ルビをふってはおりますが
数理掌庁とか
聖数原簿とか
普通に読んでいただいて問題ございません
ちなみに ヘルヴァが扱う文字は
アングロ・サクソン・ルーン文字をベースに
綴ったものが今後でてきます
- 登場人物の名前 -
神話由来のお名前をちょっくら拝借したアナグラム
(+中世にある名前に響きをよせたりよせなかったり)
がそこそこございます
本当はゲルマン神話の資料が拝見できたら…なのですが
他にも名前にはアナグラムを用いておりますが
きっかりアナグラムにすると
某ゴッドなファーザーのトルコ人になってしまい
楽しかったです…が さすがに不採用




