第9節 ヤドカリと名もなき出立
木彫りの鉢に残った湯気が消え 高床式の炉床の爆ぜる音が暗がりを埋めていた
「 明日 ここを立つ 」
唐突な静寂を破り ギルベルトが口を開いた
布を巻かれた掌と頸を気にすることなく まっすぐに見据えている
「 ……世話になった 」
その言葉に 奥の暗がりで葦ペンを削るルヴィの手がふっと止まった
膝を抱えていたスヴァが 不思議そうに小さな首を傾げている
「 ここを出て どうする 」
その問いに ギルベルトは少しの躊躇もなく答えた
「 首都へ……自分の血と刻印に ケジメをつける 」
止めはしなかった
「 ……そうか 」
ただそう短く返し そのまま立ち上がった
引き留める言葉の無意味さは 彼女を見れば解る
棚から乾いた薬草の束を取り出し 作業台へ並べ始めた
ギルベルトの肉体の状態を頭の中で素早く弾き出す
傷は最低限 歩ける程度には塞がっている
だが長距離の移動となれば話は別だ
ここから首都レギオン・ヌメリアまでは 谷筋の旧道を辿ればおよそ190 μίλια
今のギルベルトの足なら 3週間はかかるだろう
3週間 ———
傷のことだけではない
旅の途中で必ず訪れる揺らぎがある
生命の息吹と血が激しく乱れるその周期が訪れれば 歩くことすら叶わなくなるだろう
この旅を 少しでも長く耐えられる状態にして送り出す
今できる最大の ” 処置 “ だ
薬草を刻み 擦り潰していく
油分と粉末を練り合わせ 指先で小さな固形に成形した
一晩かけて乾燥させる必要がある
「 ハティ それは…… 」
ギルベルトがそれを見つめていた
「 明日の朝 使う 」
それだけを伝えると彼女は深入りせずに小さく頷いた
ふと部屋の隅に目をやると 小さな気配がうごめいている
スヴァが 慌てた様子で小箱をひっくり返し 不器用な手つきで頑丈な紐を結び 拾い集めてあった小さな木片や鳥の羽を通そうとしては落としている
「 …スヴァ 危ないから貸して 」
暗がりで見かねたルヴィが静かに歩み寄り 小さな木片の端を指で押さえている
スヴァはルヴィの手を借りながら必死の顔で紐を縛り直していたが やがて夜が深まるにつれ その小さな頭は船を漕ぎ始めた
紐を握りしめたまま ルヴィの膝の上で静かに寝落ちしていく
それを見届けながら サクスを確認する
( 今夜はまだ しない 明日 出立の直前だ )
作業台の影で ルヴィの視線を感じたが薬を押し固める手だけを動かし続けた
夜の静寂が 冷たく澄んだ小屋の空気を深く覆っていく
夜が深くなった
ギルベルトは眠っていた
けれど 眠りは浅かった
呼吸が乱れる
身体が小さく縮こまる
——— 暗い 怖い
息ができない
手足が動かない
声を出しているはずなのに
誰にも届かない ———
「 ……や゙っ…めで 」
声にならないほどの呟きが漏れる
指先が喉を掴み もう片方の手が腹を庇った
「 ……い゙やっ…… 」
ギルベルトが毎夜 何を見ているのかは わからない
ただ 眠ったままの身体が 何かから逃げようとして魘されていることだけはわかる
起こさないかわりに まだ傷の残っているギルベルトの指を 首から離した
火の消えかけた炉を見つめながら 朝が来るのを待った
夜が明け 薄青い光が小屋の土間に差し込む頃には ギルベルトはすでに起きていた
手垢のついた布を巻き直し 小さくまとめた荷を背に括り付けている
昨夜までの手当てを待つ者だった彼女の佇まいは すでに己の足で歩み出す者のそれに変わっていた
「 腰かけろ……最後だ 」
ギルベルトの首の布を解く
腰のサクスを抜き 己の掌をなぞった
刃先から赤色が滴り 土間に小さな斑点を作る
3度目となる自傷に ギルベルトは胸を突かれたように「 また…… 」と息を呑んだが 静かに言葉を呑み込み 頸を差し出した
奥の暗がりからルヴィが歩み寄り 息を殺してその光景を見つめていた
それでも今回は止めなかった
血が滴り落ちる瞬間を その小さな瞳に刻みつけるように間近で見届けている
掌をギルベルトの12桁の刻印へ直接あてる
不自然な静寂の中でいつもとは少し違い 12桁の刻印に飲み込まれるような感覚を覚えた気がしたが やはり傷は最初から存在しなかったかのように 再び皮膚の底へ吸い込まれて消えていた
刺すような冷たさのあと 刻印の熱がすうっと静かになる
過酷な道のりを少しでも長く持たせるための最後の一手だった
「 ……ハティ その手… 」
「 勘違いするな 」
頸の布を固く結び直しながら その言葉の続きを聞かず言葉を紡いだ
「 これは時間稼ぎにしかならない その猶予すら 生命の息吹を外へ張り巡らせれば 短くなる 3度目ともなれば反動もあるかもしれない 」
「 ……そうか それでも助かる 」
「 ……これも持って行け 」
昨夜練り上げて乾燥させた小さな薬を差し出した
「 これは? 」
「 旅の途中で訪れる血の周期を抑える……生命の息吹と血が激しく乱れれば…… 」
「 っ!」
「 下腹部に兆候を覚えたら 自分で奥へ挿入しろ 症状が出る前に使えば熱は退く 」
「 ……解った 」
彼女は深く追及せず それを小さく頷いて受け取った
長い旅路で訪れる肉体の揺らぎのための処置であることを 彼女自身も感覚で理解したようだった
土間の上に指を立てた
「 道を確認する……国家が敷いた石畳の街道は使うな 川を越えたら 西の谷筋へ入れ 」
指で土の上に線を引いていく
「 ここには昔 関所があった その手前から大きく迂回しろ 」
ギルベルトはその指の動きを記憶に刻みつけるように凝視している
一息置き 引き締め直すように言った
「 ……ただし 記憶は古い 道は変わっているかもしれない 」
「 …なぜ そんな道を……いや 分かった 」
旅の不確定要素を言葉に残し 立ち上がった
その時 奥の部屋の布が揺れ スヴァが姿を現した
まだ眠気の残る小さな手には 昨夜必死で紐を括り付けていた歪な小物が握られている
スヴァは小さな足取りでギルベルトへ歩み寄り それを差し出した
「 これ……あげる お姉ちゃんがもう 怖い夢 みないようにって お願いした 」
「 …… 」
不器用に結ばれた紐と小さな木片
ギルベルトは膝をつき それを壊れものを扱うように受け取った
「 ……ありがとう 」
「 なくさないでね 」
スヴァの短く無知な言葉に ギルベルトは小さく首を振って それを大事に懐へ収めた
ルヴィはそのやり取りをただ黙って見つめていた
この少女が二度とここへは戻らないことは 幼い心で確かに察していた
「 ……行く 」
ギルベルトが静かに立ち上がった
痛みを押し殺し 背筋を伸ばした姿には すでに己の過去と向き合う覚悟が宿っていた
扉が開かれ 朝の冷気が土間へと流れ込む
彼女は振り返ることなく 森の奥へと一歩を踏み出した
掌の感覚を確かめる
スヴァは小さく手を振り ルヴィは傍らで無言のまま 去って行く背中を見つめている
その背中は やがて木々の向こうへ消えていった




