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剥製のジェミニ  作者: ゐなか ろじ
第2章 剥製の片割れ
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第8節 無番の庭

ハティの背中は 歩くときに ほとんど上下しない

泥を噛む靴の音が 一定の刻みで湿った森に落ちる

ハティの後ろを歩くスヴァが 時折 小枝を拾っては ルヴィに見せ ルヴィがそれを無言で受け取って投げ捨てる

その僅かなやり取り以外 道中に会話はなかった


自分がどこへ連れていかれるのかを 知らなかった

森の深みへと入っていくにつれ 木々の隙間から落ちる白い光が 緑の輪郭を濃くしていく

足元には深く複雑に根付いた根と濡れた腐葉土の匂い

乾燥させた薬草(ハーブ)で作ったいくつかの薬を入れた小さな革袋がハティの腰で揺れていた


ただの木立だと思っていた場所の奥に 人 の景色が滲み出し始めたのは急な傾斜を抜けた頃だった

最初は枝の間に吊るされた網と そこに並ぶ干し肉だった

次に低く組み上げられた 木造の屋根が見えた

屋根の端から淡い青煙が揺らぎ出ている

倒木を削って作られた桶に 水汲みの女が手を浸している

その向こうでは 白い髪の老人が木切れを削り 小さな子供たちがその木屑を拾い集めて遊んでいた

王国の村のような格子状に区切られた道はない

詰所も台帳を抱えた役人もいない

自然の地形をそのまま切り開いた場所に 人々の日常が雑然と だが確かな密度で置かれている


「 ハティ 」

薪を抱えた男がすれ違いざまに短く声をかけた

「 ああ 」

ハティは脚を止めず それだけを返した

男もまたハティの後ろにつづくルヴィとスヴァ そして私を気にすることもなく 薪の山へと歩き去っていく

どこから来たのか とも 何をしに来たのか とも尋ねない

その軽すぎる関心に背中がざらついた


ここはハティの故郷なのだろうか

なぜ彼はあの小屋で 子供ふたりと過ごしているのか

疑問が唇まで出かかったが 言葉を呑み込んだ




「 あなた お名前は? 」

薬を配り終えたハティが 集落の片隅にある大きな日除けの棚へと向かったとき 風が草を揺らすような問いが落ちてきた

縫い物をしていた手を止め 籠の横に置いた小さな革袋へと手を伸ばしたのは 落ち着いた面立ちの女性だった

その腰つきや身のこなしには どこか柔らかで揺るぎない厚みがある


胸の奥が冷たく跳ねる

返すべき記号を探して 脳裏を必死に手繰る

ギルベルト ——— いや その名はもう 名乗れない

それは兄上のものであり 裏切り者の私が抱えていい名ではない


では私は誰だ


「 私…は…… 」

声が喉の途中で途切れる


名前を告げられない


それだけで 何かがおかしいと見なされる

指先が冷たくなり無意識に逃走の足場を固めようと筋肉が固く収縮した


「 そう 」

女性は短くうなずいただけだった

詰問も 疑惑の眼差しも ない

ただ受容の息をひとつこぼし 手元の布を畳んだ

「 まあ…… 」

私の頭元へ視線を滑らせた女性が 不揃いに切り落とされ汗で硬くなった毛先を 優しく撫でた


「 せっかく綺麗な子なんだから 少し整えましょう 」


——— 綺麗


その言葉の意味がすぐには胸に落ちてこなかった

私に向けられる評価は常に「 勇敢 」か「 忠誠 」か「 順応 」だった

そんな言葉 一度もない


「 さあ座って 少し整えましょう 」


戸惑い立ち尽くす私を見て 横からスヴァが跳ねるように飛び出してきた

「 お姉ちゃん!早く早く!」

私の袖を 両手で力任せに引っ張り 丸太の腰掛けへと押し込もうとする

スヴァの瞳は まるで自分に新しい贈り物が届いたかのようにキラキラと輝いていた

「 綺麗になるよ!あ!それともハティみたいにカッコよくしてもらう?ねえ早く座って!」

無邪気なワクワク感に気押され 断る隙もないまま私は丸太の上に浅く腰を下ろした


スヴァが手を取って引いてくれなければ 私は刃物を持つ他人に背を向けることなど 決してできなかっただろう

丸太に座った途端 背後に女性の気配が回った

背後に人の気配を感じるだけで 全身の血が逆流するような錯覚を覚える

膝の上で白くなるほど固く握られた拳は いつでもサクスの柄を握り 敵の喉笛を突き通せるように鍛え上げられたものだった

視線だけを後ろへ巡らせ 敵の立ち位置と間合いを計算する

しかし 背後に立つ女性が手にしていたのは武器ではなかった

鈍い光沢を放つ鹿の角(アントラー)の櫛が 髪に当てられた

強張っていた頭皮を労わるように ゆっくりと梳かされていく

引っかかった髪を無理に引っ張ることなく丁寧にほどいていく指先

他者から向けられる無条件の丁寧な愛撫は少しむず痒いような 逃げ出したいような戸惑いに駆られ思わず肩に力を入れた


パチン


耳元で鉄製の握り鋏が硬い音を立てた

冷たい刃先が首筋に触れた瞬間 身体がビクッと跳ね上がる

敵に刃を向けられたかのような本能的な恐怖に呼吸が止まる

全身の肉が緊張で強張り 足の指先が土を噛む

女性はすぐに鋏の手を止め 強張った私の肩へそっと温かい手のひらを置いた


「 じっとしていてね 」


ただ一言

子供をあやすような 包み込まれるような声が耳に染み込んでいく


刃は それ以上近づかなかった

逃げる必要は ないのかもしれない

 

そっと 瞼を閉じる


「 綺麗な髪ね 」

女性は静かに 再び鋏を動かし始めた


左右が不揃いに跳ねていた結び目の名残が 鉄の刃に噛み取られ ハラハラと落ちていく


パチン パチン


規則的な金属音が 薄暗い森の中に静かに響く

長い毛束が落とされるたび 隠されていた首筋が露わになっていった

ハティの手当てによって隠されている痕跡に女性は何も言わなかった

それは戦士としての致命的な隙であったが 同時に守られているような錯覚を覚えた

彼女の指先から伝わる何かが 私の奥深くにある息吹と触れ合った気がした


数理掌庁の役人から感じたものとも

父上の手から感じたものとも違っていた


湿った土のように 深くまるい

逃げようとしなくてもいい場所のような 何かだった


横でスヴァが「 わあ…… 」と声を漏らし 落ちていく髪を両手で受け止めようとしている

ルヴィは少し離れた場所からハティの横顔と私を交互にじっと見つめていた


やがて鋏の音が止み 女性の温かい手が 首元で綺麗に揃えられた毛先をふんわりと整えた

頭の片側に重く居座っていた塊は もうどこにもない

膝の上の拳をゆっくりと開き 短くなった自分の髪にそっと触れた


「 ……軽い 」


その声は かつて戦場に響かせたどの怒号よりも弱い


「 よく耐えたわね 」

女性が前に回り込み 目線を合わせて微笑む

その手慣れた仕草に 身体のどこかがわずかに緩んだ

 

私が誰で どこから来たのかなど 彼女の指先にとっては意味を持たないようだった

揃えられた毛先が風に揺れて首筋を撫でる

自分が何者なのかも答えられないまま 私はただ 自分の頸に残るぬくもりと冷たさを確かめていた


数理原簿に書かれた数字が 世界のすべてだと思っていた

刻印から漏れ出た者は 生きていけないのだと思っていた

 

( ここには……私の知らない世界がある )


私は立ち上がる


ハティが集落の長らしき老人と短く言葉を交わしている

差し出された干し肉の塊を ハティは静かに首を振って断る

誰もそれを引き留めない 「そうか」と言って老人は微笑み ハティの背中を見送る

ハティはこの人たちの中に拒絶されているのではない

ただ自分自身でその境界線の外側に立っているようだ

なぜなのかは 私にはわからない


「 行くぞ 」


ハティの短い声が響く

私は整えられた髪に 指を滑らせながらハティの歩む後ろ姿を追った


この集落に漂う穏やかな空気が 心地よかった


それが怖かった


この場所にいていいと 思ってしまいそうだった

 

森の葉擦れの音の隙間から 自分の小さな足音が聞こえる

遠く離れた首都レギオン・ヌメリアの影が いつこの静寂を押し潰しに来るのかも知らずに 私はただ 新しく揃えられた首筋の冷たさを感じながら 静かな森を歩き続けた

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