第6節 剥き出しの首筋
首筋に生暖かい風が纏わり付いた
外の涼しい風は厚い石壁に拒まれ ここにあるのは灼熱の石畳から立ち上る拒絶の色だけだ
湿気を含んだ羊皮紙からは獣臭がわずかに立ち上がる
数理掌庁の回廊を歩きながら 無意識に右手を頸へ伸ばしかけ 途中で降ろした
固く編み込まれた結び目はもうない
「 ……ふん 罪人ふぜいが その見苦しい頭で偉そうに廊下を歩くな 」
すれ違った官吏が 背中に薄笑いを投げかけてきたが足を止めず視線すら向けなかった
( 罪人 か )
毛先を撫でる空気が 自分が何かを差し出したのだと突きつけていた
小・ギルベルトは同じ刻印を持っているというだけで 己を消され 自分と区別されなかったように 今度はこの短い髪という単純な記号で分類されている
もし小・ギルベルトがここにいたら 何と言うだろう『 兄上の頭 まるで刈り取ったあとの乾草みたい 』とでも言って 笑うだろうか
一瞬だけ胸を掠めた妹の面影を 意識の底へ押し戻し それを打ち消すように 数日前の出来事を反芻していた
故郷のゲルマニア・ノドゥスを離れ この不快な中央都市の巨大な機構の中に立った理由を
あの日 小・ギルベルトを逃した
どうやらその道中で刻印が再び異常な反応を示したらしい
すぐに数理掌庁の支部からあの嫌味な役人がやってきた
『 再び刻印に異常が出た 何を隠している 』と
父上はまた 小・ギルベルトの存在を隠そうとしていただが もう限界だった
父上を制し 自ら役人の前に進み出た
『 妹がいる 俺と同じ刻印を持った妹が… 』
事実を告げたとき 役人の目についたのは驚愕だけではなかった
一個体に一刻印が数理掌庁の原則
同一番号を持つ 男女の双子など 単なる漏れで片付くはずもない国家の重大なエラーだ
しかし 役人の顔に浮かんだのは 国家の秩序が揺らいだことへの恐れではなく
貧しい支部から脱出するための出世の匂いに歓喜する卑しい欲望だった
役人は歪んだ笑みを浮かべ 取引を持ちかけてきた
『 このエラーを隠してやる代わりに 私の手足になれ 中央の外部軍に入り込み 数理掌庁の中枢の情報を私に流せ
……断れば ノドゥスの民がお前たちがどうなるかわかるな?そのおぞましい妹は 見つかり次第 ——— 』
選択肢など最初からなかった
ノドゥスの民を巻き込ませないため…そして何より小・ギルベルトを守るため その条件を呑んだ
だが あの役人の忠実な手先になるつもりなど毛頭ない
あの役人が求めたのは情報を集めて自分に寄越すことだ
しかし ここへ来た本当の目的はただひとつ
誰よりも先んじて 妹を見つけ出すことだ
髪を切り この巨大な機構の末端に身を置いたが ちょうど良い
数理掌庁の広大な情報網を利用し 誰よりも早く小・ギルベルトを見つけ出す
そして国家の手が届かない場所へ逃がす それが目的だった
国家への反逆の意志はない
さりとて国家や小悪党のために働くつもりもない
ただ妹を救うためにはここを利用するのが最も確実だという 冷えた計算だけだ
あの役人が 俺を利用しているつもりでいる間に こちらは数理掌庁そのものを利用して妹を奪い去る
( ……待っていろ 小・ギルベルト )
「 ——— 行方不明者の照会に来た 」
薄暗い台帳室のカウンターで 受付の男に言った
差し出した羊皮紙の申請書を前に 男は羽ペンの手を止めることなく事務的な声を出す
「 申請書にお前と対象者の12桁の刻印の番号 それから理由を書いて出せ 」
「 ……目の前にあるだろ 妹を探している 名は小・ギルべ——— 」
「 名はいい 番号だ 」
男は書きかけのページにサラサラと細かい砂を振りかけインクを乾かすと フッと息で吹き飛ばした
そして 一度も目を上げることなく 再び羽ペンを走らせながら吐き捨てるように言った
ここでは人間を特定するのは名前ではない
胸の奥の不快感を押し殺し 数字を口にした
「 ……0501-7760-1202 」
片手間に申請書を見た男の羽ペンの音がピタリと止まった
男がゆっくりと顔を上げ 値踏みするような目を向ける
その眼光には 侮蔑ではなく 明らかな不審の色が混じっていた
「 おい 冗談はやめろ 何故 申請者と同じなんだ 首の裏の刻印を見せろ 」
「 妹も同じだ 」
「 ……もう一度言え 」
「 妹の刻印も 同じだ 俺たちは同じ数字を刻まれている 」
沈黙が流れた
男の顔から事務的な顔が消え 眉間に深い皺が刻まれる
「 あり得ない 1個体に1刻印 それが理だ 2つの個体に同じ番号が割り振られるなど 原簿上存在し得ない 」
「 だが 存在する 」
「 ……待て この番号…直近で2度のエラーがあったな 支部からは問題はなかったと報告を受けたはずだが… 」
役人は舌打ちをすると 奥へ向かって声を張り上げた
「原簿編纂官!異常事態だ ゲルマニア・ノドゥス地区で 刻印の重複が発生している可能性がある!確認してくれ 」
数名の原簿編纂官が姿を現すと羊皮紙の原簿の写しを囲んで 不穏なやり取りを始めた
「 0501-7760-1202……確かに 登録は ギルベルト 1名のみだ 」
「 だが申請者からの報告では 同一番号を持つ個体がもう1人存在すると 行方不明の個体らしい 」
「 年齢は…… 」彼らの声に割り込み声を上げる
「 妹は俺と同じ15だ 同じ時期に刻印を打たれた 」
部屋の空気が一瞬で凍りついたようだった
羽ペンを持っていた原簿編纂官はインク壺の縁に羽ペンを冷たく打ち付け 余分なインクを落とす
「 双子…か それも 男女の……国家の管理から外れた 不吉な存在…か 」
「 ……該当する年齢情報は確かに15だが 女ではない それはお前のことだ 」
原簿編纂官のひとりが さらに冷ややかに続ける
「 この番号において お前以外の人間が存在したという記録は一切ない 無論『 小・ギルベルト 』という名もな 」
胸が締め付けられるような感覚があった
小・ギルベルトは同じ家で育ち 同じように髪を結び 共に笑いあった かけがえのない妹だ
しかし この数理掌庁という巨大な機関の前にあっては 妹の15年の生も兄妹としての記憶も何ひとつ存在していないことになっていた
「 ……徴収記録にも関わるな 」と原簿編纂官のひとりが呟いた
「 徴収官に回せ 」
「 待て 念の為数理検察官にも照会を出しておけ 」
クエーストール……カリキュラトール
聞き慣れない役職の名が飛び交う カリキュラトールという響きには どこか武装した兵士のような荒々しい気配が纏い付いていた
背筋に冷たい汗が伝う
ただ行方不明の妹を追うのに 何故これほどの人間が動くのか
小・ギルベルトは一体 何を追われているのか
「 妹は……何をした?」
その問いに 彼らは原簿の写しから目を離さないまま無感情に答えた
「 何も…だから問題だ 」
「 ……どういう意味だ 」
「 その番号の刻印に構造上の異常が生じている 登録情報との不一致および存在の重複 お前の妹は罪を犯したのではない 存在そのものが我が庁の管理体系に対する " エラー " なのだ 」
エラー
その言葉が頭の中で重く響いた
小・ギルベルトは悪事を働いて追われようとしているのではない
国家という巨大な秩序にとって存在してはならない " エラー " だからこそ追われようとしているのだ
奥歯を噛み締めた
国家がどれほど小・ギルベルトを番号で呼び " エラー " として処理しようと関係ない
同じように髪を結び 同じ刻印を刻まれた 片割れは 自分にとって唯一無二の妹だ
書類上の記録がどうあれ 小・ギルベルトは間違いなくこの世界のどこかで生きている
そして国家の役人たちが「不一致」だの「照会」だのと手続きに時間を取られている今この瞬間も 捜索の網は広がろうとしているのだ
( 数理掌庁の記録…聖数原簿に穴があるなら…… )
国家が " エラー " として追うのなら 自分は " 妹 " として探し出す
この巨大な建物の中にいれば 奴らが次にどこへ動くかがわかる
「 ……俺が先に見つける 」
首筋に纏わりつく風を感じながら静かに しかし固い決意とともに数理掌庁の暗い回廊へと足を踏み出した




