憧憬と今
8月、すっかり暑い。桜音は汗を拭いながら図書館からの帰路をのんびりと歩いていた。
『良かった、桜音さんと会えたんだね』
秀頼が言った言葉。水の反応を見る限り、水は何も分かっていない。あのあと、水に名前を呼ばれても立ち止まることができなかった。だって、どんな顔をすれば良いのかが分からない。だから、この夏休みという長期休暇が、少しだけ救いでもあった。
「桜音、水となんかあったの?」
「……なんで?」
「別に。……今日あいつ、桜音は元気かって聞いてきたから」
昨日、葉名が桜音に言ったことだ。剣道部は夏の試合が終わったため、今日からお盆まで休みになる。
葉名と水は、どんなふうに会話をするのだろう。この前の試合を見に行こうと思ったが、水と合わせる顔がなかった。双子である葉名には悪いと思いながら、試合の間、桜音は家で留守番をしていた。
なんとなく、もう分かっていた。自分は、水と会ったことがある。それはこの17年の間ではなく、ずっとずっと昔のこと。だから、水が覚えていないのなら仕方がないーー水は今を生きているのだ。
あの日、桜吹雪の中での別れのあと、水がどんな人生を歩んだのか知る由もない。それに、この16年間だって、どうやって生きてきたのかも知らない。
よく考えれば、水がスペインでどう過ごしてきたかなど、話してはくれない。聞けば教えてくれるのかもしれないけど、絶対に素直な気持ちで話を聞くことはできない。それが申し訳なくて、夏休み前は水のことを避けてしまった。
今何時だろう、そう思って携帯電話を手にしたとき、男に声を掛けられた。
「お、かわい〜」
「俺たちと遊ばない?」
3人の男が、桜音の前に立ちはだかった。大学生くらいだろうか。考え事をしながら歩いていたから、周りに気を配っていなかった。
桜音は何も言わず、横をすり抜けようとするが、一人が道を塞いでくる。
「あの、やめてください、帰りますので……」
「え〜、良いじゃん。あ、そうだ、君の友達も呼ぼうよ。一人じゃちょっとアレだもんな」
そう言いながら、桜音の携帯電話をヒョイと奪い取った。
「かっ、返してっ」
「返してあげるから、友達呼んでくれる〜?」
桜音は手を伸ばしたが、返って腕を掴まれてしまった。喉がヒュッと音を立てた。
どうしよう、どうやって逃げたら良いのーー。
「呼びましたか」
「ああ?」
済んだ艶のある声と共に、桜音の腕を掴んだ男の手に、もう一つの手が添えられていた。形の良い、特徴的な白い肌の手ーー。
男たちがそちらの方を見る。
ーーそこには水がいた。
「あ……」
水は、桜音と目が合うと、ニコッと笑った。その笑顔を見ると、なぜだか安心した。
ああ、もう大丈夫ーー。
「なんだよお前」
「この方の友達です。お呼びだったみたいなので」
「へえ〜、何、めっちゃくちゃ美人じゃん!」
「モデルとか、やってる?」
男たちの興味は一気に水になり、桜音は解放された。携帯は取られたままだ。
「その携帯返してください」
「返すから、一緒に遊ぼうよ」
「遊びません」
「そう固いこと言わずにぃ」
そう言って、携帯を持った男は水の肩に手を置いた。水はその手を握って捻り下ろす。男は大勢を崩して膝をついた。
「いでででででっ」
力が緩んだ隙に、水は携帯を奪い返した。そして即座に、桜音を庇うように立ってくれる。なんて華麗な動きなんだろう。
「てめえ、何すんだよ!」
もう1人が水に突っかかるが、水は優雅に避けた。相手がバランスを崩した隙に、背中をトンと押して男を転がせた。男たちは悔しそうに水を睨む。怖気付いたようで、徐々に後ろに下がっていった。
「てめえ!覚えてろよぉ!」
「いこーぜ!」
男たちがどこかへ行ったのを水は確認すると、桜音に向き合って携帯を差し出してきた。
「お怪我はありませんか?」
「……うん、大丈夫……ありがとう」
「良かったです」
そう、あなたはいつだって、私を守ってくれる。だって、そう言っていたものーー。
「怪我は……ない?」
「ありません。通り掛かって良かったです」
「うん、助かったよ」
「……近くまで送ります」
水は微笑んでそう言ってくれる。桜音は頷いて、二人で一緒に歩き出した。
昔と同じように、2人で並んでーー。




