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6/11

時を重ねる

 その朝、桜音おとが上履きに履き替えて廊下に上がると、あの子がいた。壁にもたれかかって立っているだけなのに、一人だけ違う空気を纏っている。周囲の生徒は、その姿を振り返って見惚れたりしているのに、本人は全く気にしていないようだ。桜音は、その姿を見つめた。


「……」

「おはようございます」


 すいだ。桜音の視線に気付くと、桜音に歩み寄ってきた。

 

 トクン、と胸が高鳴った。昔から、私のほうがずっと待っていた気がする。


「……どうしたの?」

「タオル、お返ししようと思って」


 水の手に握られていたのは、2日前に手渡したピンク色のタオルだった。洗濯して、丁寧に袋にまで入れてくれている。桜音が受け取ると、水は笑みを深くした。


「ありがとうございました」

「ううん……。体調は、大丈夫?」

「はい。あの、私、1年A組の伊咲水っていいます。自己紹介もせず、すみませんでした。しかも、人違いまでしてしまって……葉名はな先輩と、あんなに違うのに、ごめんなさい」


 水は、一生懸命に弁解してくる。少し必死にも見えた。


 葉名と違うーー本当に?


 葉名と違うと言ってくれる人なんて、そうそういない。桜音は思わず、驚いて水の顔を凝視してしまった。


 ーー嬉しい。


 水は「ん?」と首を傾げてくる。階段で会った時の警戒心がまるで嘘のようだ。


「私は2年A組の吉田桜音です。よろしくね」

「はい。桜音先輩とお呼びしていいですか?」


 先輩、かーー。


 なぜだろう、こんなに近くにいるのに、とても遠く感じる。それはやっぱり、あまりにも長い時間を超えてきたせいなのだろうか。


「……桜音、でいいよ」

「いけません、先輩ですから」


 水は、冗談でしょう、というふうにカラッと笑った。桜音は視線を下に落とした。


 ーーあれ、前にもこのやりとりをしたな。確か、様って呼ぶ呼ばない、とか。

 ーーどこで?

 ーーそうだ、井戸だ。井戸に行ったら、私のことを待っていたんだーー。


「桜音先輩?」


 水が桜音の顔を覗き込む。視線がバッチリと合った。突然のその美形の破壊力に、桜音は思わず後退りした。


「それなら、桜音さん、でいいですか?」

「……う、うん」

「良かった。じゃあ、失礼します」

「うん……またね」


 そう答えると、水はニッコリ笑って頷いた。


 ーーああ、知ってる、この笑顔。私だけに、向けてくれる笑顔だ。


 次は、どこで会えるのだろう。



「水、あなたが料理苦手って本当なのね」

「それ誰情報なの?」

「お千代よ」

「ごめぇん、調理実習の水ちゃんが面白すぎてすぐお千ちゃんに言っちゃった」


 3、4時間目の授業は調理実習だった。水が焼いたハンバーグは、見事に丸焦げになってしまった。同じ班員だった千代が怒りながら軌道修正(間に合わなかったが)して、ハンバーグ以外はなんとか問題なくできた。


 水は茶室でお昼休憩を過ごすことが習慣になりつつあった。和室はどこか落ち着くし、教室で転校生だ何だと騒ぎ立てられるより、千代と千と過ごすほうがよっぽど心地が良い。


 それにーー。


「こんにちは。ちょっとお千代ちゃん、備品の整理してくれてないの?」

「食べたらするもん〜」

「しない人は皆そう言うんだよ、もう」


 ここにいれば、桜音が顔を出しにくることが多い。なぜだか分からないが、桜音の姿を見ると、心が安らぐ。


 桜音も茶道部のようで、たびたび千代が彼女を誘ってお昼を共にすることが増えた。正直、それに楽しみを覚えていた。


 桜音がブツブツ文句を言いながら作業をしているのを、千代はあの手この手で言い訳をする。その様子を見ている千は、クスクスと笑っている。


 ーーなんだか、こういう場面を前にも見たことがある気がする。いつのことだろう。


 まあ、いいか。必要なことならきっと思い出すに違いないーー。


 それに、転校当初に立て続けに起こっていたあの気持ち悪さは、桜音と交流を始めた頃からだいぶマシになった。だから、体調も良くなってきたに違いない。


 水は焦げたハンバーグを食べ終えると、立ち上がって桜音に近付いた。


「桜音さん、手伝います」


 桜音は、ピタッと動きを止めた。数秒待って、こちらを振り返った。柔らかく笑ってくれる。


「……ううん、部員じゃないのに、大丈夫だよ」

「でも、私の方が身長高いですから、あれ取れますよ」


 そう言って、上の方にある段ボールを指差してみた。桜音は「うーん」と視線を落として、何か悩んでいる。その顔が、少し寂しそうに見えた。


 ーー桜音は、時折こういう表情をする。いったい何が、桜音をそうさせているのだろう。


「……じゃあ、お願いしようかな」

「はい」


 水は桜音の指示に従って、ダンボールを運んだり、チェック表を確認したりした。


「え〜っと、これはこっちで……。ちょっと、お千代ちゃん、まだぁ?」


 桜音が作業に思い悩みながら、時たま千代に声を掛ける。千代は「ハンバーグが硬くて噛めない」と言い訳を繰り返していた。


「まったくもうーーわっ……」


 桜音が、床に置いてあるプリントを踏んで滑った。水は手元のチェック表を投げ捨て、瞬時に動き出した。


 自然に体が動く。だって、尻餅をついたら痛いし、桜音が可哀想じゃないか。桜音は、私がーー。


 私がーー?


「きゃっ」


 水はサッと桜音の背後に腕を回した。危機一髪、桜音は尻餅を付かずに済んだ。水はホッとした。


「まあ、水ったら格好良いわ」

「水ちゃん〜、やっぱり水様って感じだねぇ」


 千代と千が背後から歓声を送ってくる。


「ご、ごめんね、ありがとう」


 桜音がこちらを見上げてくる。その瞬間に、また映像が流れ込んできた。


 ーー熱く燃える炎の中で、水は強く床を蹴った。

 ーー桜音を庇ったのは自分だ。何から庇った?

 ーー桜音と同じ顔……葉名の攻撃から?

 ーー血を分けた双子が、どうしてーー


「大丈夫?顔色悪いよ」


 桜音が心配そうにこちらを見ていた。水はハッと我に返った。


「……桜音さんも、大丈夫ですか?」


 聞けば、桜音はおかしそうに笑った。


「大丈夫だよ、滑っただけなんだから」


 そうか、そうだな。

 ここは学校の茶室だ。炎に包まれた、建物の中ではない。

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